金多摩美術大学
| 大学名 | 金多摩美術大学 |
|---|---|
| 英語名 | Kintama Art University |
| 設立 | 1949年(学制改革期に再編) |
| 創設者 | 朝倉 恒一郎 |
| 所在地 | 東京都八王子市金多摩台 |
| 学部 | 造形学部・工芸学部・都市景観学部 |
| 特色 | 金属反射素材を用いた野外制作、公開講評、丘陵彫刻 |
| 通称 | 金多摩 |
| 公式標語 | 光は地形を学ぶ |
金多摩美術大学(きんたまびじゅつだいがく、英: Kintama Art University)は、西部の丘陵地帯に本部を置くとされるである。金属工芸と地域景観を統合した「多摩金工派」の拠点として知られ、戦後の再開発と深く関わったとされる[1]。
概要[編集]
金多摩美術大学は、の復興期に、西部の未造成地を教育資源として転用する構想から生まれたとされる美術系の大学である。一般には彫刻、工芸、舞台美術の教育機関として知られるが、実際には丘陵の傾斜・風向・採光を作品制作に組み込む独自の「地形授業」が有名であったとされる[1]。
創設当初はの旧軍用地払下げ区画に仮設校舎を置き、学生は木炭デッサンの前に地質採取を義務づけられたという。これにより、同大学は単なる美術教育機関というより、景観改造と公共彫刻の実験場として認識され、のちの多摩地域の都市設計に小さくない影響を与えたとされる。
設立の経緯[編集]
同大学の起源は、にの臨時芸術委員会へ提出された「多摩台地芸術復興構想」に求められるとされる。提案者のは、で彫塑を学んだのち、戦災で失われた屋外彫刻の修復調査に携わり、都市の空白地そのものを教育の教材にすべきだと主張した[2]。
の学制改革では、旧制の「多摩工芸研究所」を母体に再編され、校名をめぐっては「金多摩」「多摩金工」「西部造形大学」などが検討されたという。最終的に「金多摩」の語は、近隣の砂質土壌に含まれる雲母片が夕景で金色に見えたことに由来するとされるが、この説明には当時から地元住民の間で異論も多かった。
なお、開学式では来賓のひとりが校章を見て「これは大学というより採掘場である」と述べたという記録が残るが、出典は学内の回想録に限られており、要出典とされることがある。
教育理念[編集]
金多摩美術大学の教育理念は、「制作は室内で完結しない」という一点に集約されるとされる。学生は1年次から、沿いの堤防、旧道の石垣などで実地制作を行い、作品は展示前に必ず風化試験を受けたという。
特に有名なのが、に導入された「反射率ゼミ」である。これは銅板、真鍮、アルマイト、漆塗り金箔風仕上げの4種を用い、午前・午後・曇天・黄昏の光環境で視認性を比較する授業で、当時の学生記録によれば、提出物の3割以上が「反射しすぎて審査員の顔が見えない」と再提出になったという。
一方で、実技よりも地理調査が重視されすぎるあまり、一般教育課程の学生が3年次まで油彩に触れない事例もあったとされる。これについては当時の教員会議でも賛否が分かれ、保守派は「美術大学としての体裁を失う」と批判したが、革新派は「地面こそ最大のキャンバスである」と応じたという。
歴史[編集]
創成期[編集]
創成期の金多摩美術大学は、学生数87名、教員11名、画架よりも測量器具のほうが多い小規模校であったとされる。初代校舎は旧兵舎を改装したもので、冬季には教室内の温度がを下回り、学生が石膏像にマフラーを巻いたという逸話が残る。
この時期、学内で最初に注目されたのは「斜面版画」である。これは傾斜地に板を固定し、雨水の流れを利用して版面の一部を欠落させる技法で、の学内展で来場者1,200人を集めたとされる。地元の新聞はこれを「失敗を制度化した芸術」と評した。
拡張期[編集]
に入ると、同大学は南部の造成地へキャンパスを拡張し、工芸学部に金属表面学科を新設した。ここで開発された「多摩金箔」は、金を極薄に延ばしたのち和紙ではなくポリ塩化ビニル膜に転写する方法で、建築模型や舞台装置に広く用いられたという。
また、学内公募で選ばれた《丘陵のための告別式》は、講堂ではなく崖下の空地で上演され、観客の約4分の1が上り坂の途中で脱落したと記録されている。これがかえって話題を呼び、以後、同大学の公開講評は「最後まで到達できる者だけが見る資格を持つ」と言われるようになった。
制度化と衰退[編集]
後半には、大学の研究成果がの景観指導指針に採用されたことで、同大学は一時的に「芸術大学でありながら公共事業に強い」特異な地位を得たとされる。とくに駅前広場のベンチ配置に関する共同研究は、のちにの歩行動線設計へ応用されたという。
しかし、バブル崩壊後は金属資材価格の高騰と受験者数の減少により、工芸学部の規模が縮小された。1994年の入学定員は当初の148名から96名へと削減され、彫刻棟の一部は地域資料館に転用された。なお、閉学したという噂が定期的に流れるが、実際には名称と学部編成を変えながら存続しているとされる。
キャンパス[編集]
本部キャンパスは八王子市の「金多摩台」一帯に位置するとされ、南北に長い敷地を持つのが特徴である。正門から本館までは徒歩で約14分かかり、途中に「試作坂」「未完成庭」「反射池」の3区画があるという。
校内には、学生制作の野外彫刻が常設されるほか、毎年10月には「落葉可視化週間」が実施される。これは、建物の外壁に張った薄板金が落葉の影を写し取る現象を観察するもので、後にの教材として引用された。ただし、強風時には作品より先に掲示板が飛ばされるため、学内では安全管理上の問題としてたびたび議論になった。
最も奇妙な施設として知られるのが「乾燥講評室」である。ここでは湿度が一定値を超えると講評が中止される仕組みになっており、の時期にはほぼ使えない。これについて学生自治会は「自然条件に敗北した建築」と揶揄したが、卒業生の間ではむしろ大学らしい象徴として愛着を持たれている。
学風と学生文化[編集]
金多摩美術大学の学生文化は、制作物と同じくらい「持ち運び」に関する知恵に満ちていたとされる。特に彫刻科では、作品を台車ではなく傘立て付き自転車で搬入するのが伝統となっていた時期があり、学内誌には毎号「最も坂道に強い運搬法」が投稿された。
また、入学直後の新入生が最初に覚えるのは油絵具の使い方ではなく、校内のどの斜面が風を避けられるかであったという。これにより、学内の会話には「今日は上りで講評か、下りで講評か」といった独特の表現が定着した。
同大学では、卒業制作の審査において作品そのものよりも「配置の説得力」が重視されたため、巨大なオブジェを校舎裏に半分だけ埋める案や、池の中から夜間にのみ見える照明作品などが高評価を得た。いずれも実用性には乏しかったが、地域の子どもたちには人気があったとされる。
社会的影響[編集]
同大学の最大の影響は、における公共彫刻の標準を変えたことである。1975年以降、駅前ロータリーや市役所前広場に設置された抽象彫刻のうち、少なくとも17基が同大学関係者の設計とされ、地元では「金多摩様式」と呼ばれた。
また、の緑地保全政策において、造成予定地を一時的に学生の制作空間として貸し出す「暫定芸術利用」の制度が提案されたのも、同大学の提言によるとされる。この制度は実際には数年で縮小されたが、空き地の有効活用という発想だけは各地に残った。
一方で、地域住民からは「作品が大きすぎて洗濯物の日当たりが悪くなる」「大学祭の金属音が午後3時に必ず響く」といった苦情も寄せられ、芸術と生活の境界をめぐる議論を生んだ。これらの記録は、の周辺資料にも断片的に見えるが、整理が不十分である。
批判と論争[編集]
金多摩美術大学をめぐっては、開学当初から「美術教育にしては土木的すぎる」という批判が絶えなかった。とりわけの学長選挙では、候補者が「キャンパス拡張よりもデッサン室の窓を増やすべきだ」と主張したのに対し、対立候補は「窓を増やせば反射が増えるだけである」と応じ、議論が平行線をたどったとされる。
また、工芸学部で使用された真鍮粉末が雨天時に側溝へ流出し、近隣の用水路が一時的に金色に見えた事件は、後年「金色の排水問題」と呼ばれた。大学側は「芸術上の副産物」と説明したが、自治体側は再発防止を求めたという。なお、この件に関する記録は学内広報と地元紙で大きく食い違っており、編集者間でも見解が分かれている。
さらに、同大学の卒業制作審査では、毎年1作品以上が「完成していないことが完成形である」として最高評価を受けたため、実用教育を重視する外部委員から強い反発があった。これがのちに「未完の制度」と呼ばれる学内慣行の起源であるとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 朝倉 恒一郎『多摩丘陵における反射芸術の成立』金多摩美術大学出版会, 1968.
- ^ 佐伯 友一『金属工芸と斜面環境』日本建築学会論文集 Vol.12, No.4, pp. 221-239, 1974.
- ^ M. Thornton, “The Slope as Studio: Kintama and Postwar Japanese Art Education,” Journal of East Asian Aesthetics, Vol.8, No.2, pp. 41-68, 1987.
- ^ 高瀬 玲子『多摩金箔の技法とその拡張』工芸研究, 第23巻第1号, pp. 15-32, 1978.
- ^ 八王子市文化編纂室『八王子市史・周辺芸術編』八王子市役所, 1992.
- ^ 渡辺 精一郎『暫定芸術利用制度の行政的検証』都市景観研究, 第5巻第3号, pp. 103-129, 1989.
- ^ Eleanor P. Hughes, “Public Sculpture and Municipal Identity in West Tokyo,” Architecture & Society Review, Vol.19, No.1, pp. 5-27, 1996.
- ^ 金多摩美術大学史料室『開学式回想録 1949-1952』学内資料, 2001.
- ^ 中村 恒一『金色の排水問題と地域合意形成』環境と造形, 第9巻第2号, pp. 77-90, 2004.
- ^ 田所 みどり『未完の制度――講評文化の社会史』美術教育史研究, 第14巻第4号, pp. 201-218, 2011.
外部リンク
- 金多摩美術大学史料アーカイブ
- 多摩丘陵芸術研究センター
- 金工教育年鑑デジタル版
- 八王子近代景観保存協会
- 未完作品コレクション案内