金色のスイートピー
| 和名 | 金色のスイートピー |
|---|---|
| 英名 | Golden Sweet Pea |
| 分類 | 染色園芸・観賞系統 |
| 起源 | 大正末期の千葉県 |
| 提唱者 | 佐伯 恒一郎 |
| 主要産地 | 東京都、神奈川県、静岡県 |
| 特徴 | 金属光沢を帯びた花弁 |
| 公認年 | 1934年 |
| 保存機関 | 東京都立園芸研究所 |
金色のスイートピー(きんいろのスイートピー、英: Golden Sweet Pea)は、の観賞植物を模したの一種で、花弁の表面に金属光沢を帯びた黄褐色の反射層を形成する栽培系統である。末期ので試作されたとされ、のちにの園芸業界で広く知られるようになった[1]。
概要[編集]
金色のスイートピーは、を基礎にしたとされる園芸上の系統名であり、花色が単なる黄色ではなく、乾湿や日照によって金箔のように見える点を特徴とする。園芸市場では「縁起花」として扱われることが多く、やの装花に用いられてきたとされる[2]。
この系統は、花卉改良の過程で偶然生じた変異をの業者が意図的に固定したという説と、戦前の舞台照明に合わせて開発されたという説が併存している。なお、開花後48時間で金属光沢が最も強くなるという記録が残るが、実験条件の詳細は一部失われている[3]。
起源[編集]
佐伯恒一郎の試験区[編集]
起源として最もよく引用されるのは、に習志野町の民間温室で行われた試験である。園芸家のは、白花系スイートピーに鉄分を含む培養液を与えることで花弁に微細な反射粒子が残ることを発見したとされる[4]。
佐伯は後年、『花を金にするのではない、光を留めるのである』と述べたと伝えられるが、これは弟子の回想録にのみ見える文言で、一次資料の所在は確認されていない。もっとも、当時の園芸雑誌には同趣旨の表現が複数見られ、発想自体はかなり共有されていたようである。
銀座の陳列棚と名称の定着[編集]
名称が「金色のスイートピー」と定着したのはごろとされる。の百貨店が春の催事で展示した際、照明の角度により花弁が真鍮色に見えたことから、来場者がそう呼び始めたという。これを受けてが季節限定の標準名として採用し、以後は商品札にも記載されるようになった[5]。
ただし、同時期の広告には「金の香りを持つ花」という誇張表現もあり、実際に香りが変化したかは不明である。ここにいわゆる『芳香誤認問題』が生じ、のちの園芸表示基準の一部改正につながったとされる。
栽培と流通[編集]
金色のスイートピーは、通常のスイートピーよりも低温期に花弁の発色が安定するとされ、の海沿いの温室地帯で多く栽培された。特にでは、海霧が朝夕の反射を均一化するため、金色の深みが増すという俗説があり、観光農園の案内板にも長く記されていた[6]。
流通面では、切り花1束あたりの市場価格が時点で通常品の約3.7倍に達したとされる。これは品質差というより、包装紙を黒地にすると金色が強調されるためで、仲卸の間では『紙が花を高くする』として知られていた。なお、東京都中央卸売市場の記録には、春先に1日あたり最大2,400束が出荷された日があるが、翌年には半数以上が普通のクリーム色だったとの指摘もある。
文化的影響[編集]
この花は戦後の都市文化において、復興の象徴として解釈されることが多かった。の春のラジオ特集では「灰色の街に差す最初の金」と紹介され、以後、贈答用花材としての地位を確立したとされる[7]。
また、の喫茶店街では、金色のスイートピーを飾ると客単価が平均12%上がるという業界調査が流布し、これが半ば都市伝説のように受け入れられた。もっとも、調査を行ったのは花店組合の青年部であり、統計の母数は17店舗のみであったため、学術的な信頼性は高くない。
批判と論争[編集]
一方で、金色の発色を維持するためにを用いる管理法が、土壌への負荷を高めるとしてに批判された。とくにの一部農園では、排水路が茶色く変色したことから、地域住民との協議が行われたとされる[8]。
また、金色のスイートピーの『金』が実際には黄褐色であることから、消費者団体が景品表示上の疑義を指摘したこともある。しかし園芸業界側は、『光を受けて初めて金となる花である』と反論し、最終的には表示文言を「金色系」へ緩和することで収束した。なお、この協議録の末尾には、なぜか手書きで「月曜は光量不足」と書かれており、関係者のあいだで長く笑い話となった。
保存運動[編集]
東京都立園芸研究所の保全株[編集]
にはが保全株の登録を開始し、品種の実質的な消失を防ぐため、年2回の光沢検査を実施した。検査では、花弁をの角度に置き、の人工光で反射率を測定する方法が採用された[9]。
この方法は極めて手間がかかるため、担当職員の間では『花を測るより先に時計を見る』と揶揄されたが、保存対象としては一定の成功を収めた。2020年代に入っても、同研究所の温室では4系統12株が維持されているとされる。
学校教材への採用[編集]
さらにの一部中学校では、金色のスイートピーが『戦後園芸と流通経済の教材』として採用された。生徒は花の発色変化を観察し、最後に包装紙の色と売価の関係を考察させられるという、やや商業寄りの授業であった。
この教材は好評だった一方、理科なのか社会なのか曖昧であるとして、教員側に混乱を生んだ。現場では結局、『見た目が経済を動かすことがある』という結論だけが残ったとされる。
脚注[編集]
[1] 佐伯恒一郎『反射花卉の研究』東京園芸出版、1935年。 [2] 田所みよ子「縁起花としての春切り花」『花卉流通史研究』第12巻第2号、pp. 44-59。 [3] 東京都立園芸研究所『金色系スイートピー観測報告書』第3巻第1号、1940年。 [4] 中村義雄「習志野試験区の光沢変異」『近代園芸学雑誌』Vol. 8, pp. 101-118。 [5] 日本園芸協会編『昭和初期花卉標準名録』日本園芸協会、1932年。 [6] 静岡県温室農業連盟『海霧と反射花弁に関する年報』第5号、1961年。 [7] NHK放送文化研究会『戦後ラジオと花のイメージ』日本放送出版協会、1956年。 [8] 小泉和夫「金属肥料と観賞植物の環境負荷」『農業環境評論』第21巻第4号、pp. 212-229。 [9] 東京都立園芸研究所『保全株管理基準 1983』内部資料、1983年。
関連項目[編集]
歴代の代表的系統[編集]
金色のスイートピーには、時代ごとにいくつかの系統があるとされる。もっとも有名なのはの『初光系』、戦後に普及した『真鍮系』、そして期に再評価された『薄金系』である。いずれも同一の祖株に由来するとされるが、実際には見た目の違いよりも流通業者の呼び方の差が大きかったらしい。
初光系は花弁がやや白く、朝日にだけ金色を帯びるため人気が高かった。真鍮系は花色が強く、包装紙を黒にしないと地味に見えるという欠点があった。一方、薄金系は代に海外輸出向けとして調整されたもので、英語圏では『tea-gold pea』と呼ばれたが、現地では紅茶の品種と誤解されたという。
社会的評価[編集]
金色のスイートピーは、単なる園芸品目にとどまらず、景気の気配を映す花としても扱われた。期には『金色が濃い年ほど商談がまとまる』という言い伝えが生まれ、企業の受付に置かれることが多かった[10]。
もっとも、金融関係者のあいだでは、花弁の色よりも「水揚げの持ち」が重要であるとされ、実務との関係は限定的であった。それでも、春の送別シーズンになると各地の花店で最初に売り切れることが多く、現在も季節感を象徴する花として根強い人気がある。
脚注
- ^ 佐伯 恒一郎『反射花卉の研究』東京園芸出版, 1935.
- ^ 田所みよ子「縁起花としての春切り花」『花卉流通史研究』第12巻第2号, pp. 44-59.
- ^ 東京都立園芸研究所『金色系スイートピー観測報告書』第3巻第1号, pp. 1-28.
- ^ 中村義雄「習志野試験区の光沢変異」『近代園芸学雑誌』Vol. 8, pp. 101-118.
- ^ 日本園芸協会編『昭和初期花卉標準名録』日本園芸協会, 1932.
- ^ 静岡県温室農業連盟『海霧と反射花弁に関する年報』第5号, pp. 13-41.
- ^ NHK放送文化研究会『戦後ラジオと花のイメージ』日本放送出版協会, 1956.
- ^ 小泉和夫「金属肥料と観賞植物の環境負荷」『農業環境評論』第21巻第4号, pp. 212-229.
- ^ 東京都立園芸研究所『保全株管理基準 1983』内部資料, 1983.
- ^ Margaret A. Thornton, "Reflective Petals and Urban Gift Culture", Journal of Applied Horticulture, Vol. 14, pp. 77-93.
- ^ 鈴木善一『金色園芸の民俗誌』花と暮らし社, 2001.
- ^ George L. Bennett, "Tea-Gold Cultivars in Postwar Japan", Horticultural Review, Vol. 9, pp. 3-21.
外部リンク
- 東京都立園芸研究所デジタル資料室
- 日本園芸協会アーカイブ
- 花卉流通史オンライン年表
- 習志野試験区記念館
- 反射花弁保存ネットワーク