鉄緑会(前身)
| 正式名称 | 鉄緑会前史研究会 |
|---|---|
| 通称 | 鉄緑会(前身) |
| 成立 | 1948年頃とされる |
| 解散 | 1969年頃 |
| 所在地 | 東京都文京区・豊島区周辺 |
| 活動内容 | 受験研究、答案交換、板書様式の統一 |
| 関係人物 | 佐伯鉄造、緑川芳子、木下修三 |
| 後継 | 鉄緑会 |
鉄緑会(前身)(てつりょくかい ぜんしん)は、周辺で戦後まもなく発生したとされる、難関校志望者向けの非公式学習共同体である。後年のの理念・規範・席順文化の原型を形成した組織として知られている[1]。
概要[編集]
鉄緑会(前身)は、後の学習熱の高まりの中で、出身者と新制中学の成績優秀者が接触したことを契機に生まれたとされる、半ば私設、半ば互助的な学習組織である。名称の「鉄」はの古書店街で流通していた赤鉛筆の芯の色、「緑」は答案用紙の再利用紙に押されていた検閲印の色に由来すると説明されることが多い[2]。
この団体は、単なる勉強会ではなく、答案の余白の取り方、定規の角度、さらにはの二次試験を想定した机上の配置まで細かく規定した点で異彩を放った。なお、会員の多くはからにかけての喫茶店を転々としていたとされ、1957年時点で把握されている常連は87名であったが、実際には「見学のみ」の者を含めると200名を超えていたとの指摘がある[3]。
歴史[編集]
創設期[編集]
創設者とされるは、の旧友から譲り受けた答案用紙の束をもとに、1948年の夏、裏手の下宿で最初の輪講を始めたとされる。そこで用いられた「鉄表」と呼ばれる時間割は、1コマ45分ではなく47分で区切られており、これは「集中力の谷が46分目に来る」という経験則に基づくと説明された[4]。
初期の会合では、参加者がそれぞれ別の参考書を持参し、同一問題を異なる解法で処理した後、最も答案らしい文体を採用する方式が取られた。これが後の「複数解法統合主義」の原型であるとされ、当時の参加者は、「数学は解くものではなく、整列させるものである」と語ったという。
拡大期[編集]
1950年代に入ると、会はや系の模試文化の影響を受けながら、独自に「答案評価係」を設置した。この係は採点だけでなく、句読点の位置や、数字の3をやや縦長に書く癖まで評価対象にしていたとされる。1954年には、会の模範解答がガリ版刷りで132部配布され、そのうち17部が雨天時の湿気で文字化けしたことから、「湿式難関対策」という新分野が生まれた[5]。
また、この時期にはの貸会議室で「数学だけを先に終わらせる会」と「英語を最後まで引き延ばす会」が分裂し、いわゆる第一次内部抗争が起きた。もっとも、両派は同じ喫茶店の同じ砂糖壺を使っていたため、実質的には席順をめぐる小競り合いに近かったともいわれる。
制度化と衰退[編集]
1961年頃、の提案により、会則が12条から41条へ増補された。第19条には「休憩時間においても各自は他者の誤答を指摘してはならない。ただし、指摘が模範解答に近い場合はこの限りでない」との条文が置かれ、後年の受験サークルにしばしば引用された[6]。
しかし高度経済成長期の進展により、参加者の多くがの予備校ビルへ吸収され、会は緩やかに解体していった。1969年頃には定例会の出席者が5名に減少し、そのうち2名は本来の会員ではなく、隣室の将棋同好会が間違って入室したものであったと記録されている。
組織と運営[編集]
鉄緑会(前身)の特徴は、官僚的でありながら妙に手作り感のある運営である。会長、書記、採点長、紙管理係、湯沸かし係が置かれ、特に紙管理係は裏紙の罫線の濃淡まで記録したという。
座席は成績順ではなく、前回の誤答数と「再説明の声量」によって決められた。声量はではなく、湯飲みが何回振動したかで測定され、平均2.8回を超えると「やや危険」と判定された。これにより、静かな者ほど後方に追いやられるという逆転現象が生じ、会の人間関係を複雑にしたとされる。
思想と方法論[編集]
同会の中核思想は、「学力とは知識量ではなく、解答欄の整美度で可視化される」というものであった。これは20年代後半の「紙面不足」の時代背景と関係があるとされ、答案をいかに狭い余白に収めるかが修行の一部とみなされた。
特に有名なのが「緑本方式」と呼ばれる参考書整理法である。問題集の背表紙を緑、解答例を鉄色、誤答集を灰色で統一し、机上に三色の帯を作ることで記憶を定着させるとされた。ただし、実際には色分けに夢中になり、肝心の問題に到達しない会員が続出したとも記録されている[要出典]。
文化的影響[編集]
鉄緑会(前身)は、直接の会員数以上に、周辺文化へ奇妙な影響を与えた。たとえばの一部書店では、受験参考書を「鉄帯」「緑帯」に分けて陳列する慣行が一時的に広まったほか、の喫茶店では、注文後15分以内にノートを開かない客には自動的に追加で水が出されるようになったという。
また、同会の答案添削は厳しすぎる一方で妙に温かく、誤答に対して「方向は合っているが風が逆である」といった比喩が頻出した。この文体は後の受験雑誌『』編集部に取り入れられ、1980年代まで校閲指示の隠語として使われたとされる。
批判と論争[編集]
批判の中心は、会の規律が過度に儀礼化していた点である。とりわけ、入会時に「鉛筆を右手で持つこと」を宣誓させたという記録は、当時でも珍しいとして議論を呼んだ。また、会員の一部がの赤門前で模擬集合を行い、通行人を緊張させたことから、近隣住民との摩擦も生じた。
一方で、後年の研究では、これらの厳格さが単なる逸脱ではなく、戦後日本における「学歴の再編」に対する若者なりの防衛反応だったと解釈されている。ただし、その理屈を採用しても、毎回の閉会時に黒板消しを三回たたく必要があった理由までは説明しきれない。
後継組織との関係[編集]
鉄緑会は、1960年代末に事実上の解散状態となった後、その規範と資料群が複数の予備校講師に受け継がれ、最終的に現代のへと接続されたとされる。特に「答案は短く、しかし余白は深く」という標語は、後継組織の内部掲示に長く残った。
なお、一部の元会員は後継組織の成立を快く思わず、「我々は黒板の時代であり、プリントの時代ではない」と主張したが、結局はコピー機の普及に勝てなかった。1983年に行われた座談会では、当事者3名の証言がすべて微妙に食い違い、むしろ前身組織らしい曖昧さを補強する結果となった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯鉄造『鉄表と戦後受験文化』文理社, 1972.
- ^ 緑川芳子『答案の余白学』青灯書房, 1968.
- ^ 木下修三「文京区における学習結社の変遷」『教育史研究』Vol.12, No.3, 1974, pp. 41-67.
- ^ Harold P. Winter, "Postwar Study Circles in Tokyo" Journal of East Asian Pedagogy Vol. 5, No. 2, 1981, pp. 88-109.
- ^ 田所宗一『受験ノートの社会史』新潮選書, 1994.
- ^ M. A. Thornton, "The Green Margin Method" The Review of Academic Rituals Vol. 9, No. 1, 1990, pp. 14-29.
- ^ 小林和夫「鉄色と緑色の記憶術」『比較教育文化』第18巻第4号, 2002, pp. 201-223.
- ^ Eleanor V. Sage, "Answer Sheets and Authority" Cambridge Educational Monographs, 2007.
- ^ 高松一郎『本郷喫茶店群と受験生』東都出版, 2011.
- ^ 渡会直哉「鉄緑会前身資料の断片的復元」『都立史料館紀要』第7巻第1号, 2018, pp. 3-26.
- ^ P. H. Mercer, "When Desks Became Battlegrounds" Oxford Notes on School Culture Vol. 3, No. 4, 1965, pp. 55-61.
外部リンク
- 鉄緑会前史研究所
- 文京受験文化アーカイブ
- 本郷紙面史料室
- 昭和学習結社データベース
- 答案余白保存会