長期片思い罪
| 名称 | 長期片思い罪 |
|---|---|
| 通称 | 長片罪、ロング・アンリターンド |
| 成立時期 | 1927年頃 |
| 管轄 | 内務省 風紀相談局 |
| 主な対象 | 継続的な片思いの公言・追跡・贈答 |
| 最高記録 | 認定持続期間18年4か月 |
| 廃止 | 1956年の恋愛表現整理令 |
| 関連都市 | 東京、神戸、札幌 |
長期片思い罪(ちょうきかたおもいざい)とは、一定期間を超えて報われない片思いを継続し、周囲の対人関係や公共空間に慢性的な情緒負荷を生じさせたとみなされる俗称上の違法概念である。主として末期から初期にかけて、都市部の恋愛相談と治安維持の境界領域で成立したとされる[1]。
概要[編集]
長期片思い罪は、片思いそのものを処罰する制度ではなく、片思いがを超えて組織的・反復的に可視化された場合に、軽微な迷惑行為として扱うための行政上の便宜概念であったとされる。とくにの、、の旧居留地では、恋文の多投、定点観測、贈答品の過剰供与が「準交通妨害」と同列に扱われた記録が残る[2]。
もっとも、この概念は法令本文に明確な条文があるわけではなく、の生活相談記録との世相調査報告を編集した際に、後年の研究者がまとめて命名したものだとする説が有力である。一方で、1929年の『風紀月報』には「相手の進路に三季以上寄り添う情熱は、もはや感情ではなく習癖である」との記述があり、これが実務上の初出とされている[3]。
成立の経緯[編集]
都市恋愛の行政化[編集]
起源は後期、が全国の寄書き投書を整理する過程で、恋愛沙汰に関する苦情が増加したことにある。とくにの洋品店、の活動写真館、の公園周辺で、同一人物を数年単位で待ち伏せる事案が多発し、当初は「恋慕持続」として保護的に扱われていたが、1931年の『都市衛生と情緒』会議で「公共の場における過剰な待機」は衛生ではなく秩序の問題であると整理された。
この会議で中心的役割を果たしたのが、心理学者のと、元巡査部長のである。田所は片思いを「情緒の単独運転」と呼び、久我山は「二十四回目の贈答はすでに執着である」と発言したと記録されている。なお、この発言は議事録の余白に書かれた走り書きが、のちに正式引用として独り歩きした可能性がある[4]。
初期の運用[編集]
初期の運用では、対象者に対してまず「冷却勧告」が出され、その後も以上にわたり相手宅前での無言待機、手紙の連投、同一菓子店からの匿名配送が続くと、地方の生活警察が「長期片思い事案」として記録した。1934年のでは、港湾労働者の間で「恋文の封蝋の色で罪の重さがわかる」とする俗説まで生まれたが、これは帳簿整理の都合から封書を色分けしていた役所の慣行が誤解されたものとみられる。
また、では冬季における「雪道の足跡追尾」が特に問題視され、の報告書には、ある被疑者が三か月で分の同一経路追跡を行ったと推定されている。もちろん歩数の算定方法はきわめて雑であり、後世の研究では「概ね熱心であった」という注記に要約されている[5]。
分類と基準[編集]
長期片思い罪は、持続期間、可視性、贈答密度の三要素で分類された。持続期間はからまであり、A級は「未満の定点観測」、D級は「以上かつ相手の結婚式に第三者として出席した例」とされた。
贈答密度は、月当たりの品目数ではなく「相手が迷惑と感じた回数」で測定されるのが原則であったが、実務上は、、の配達件数で代替された。これにより、同じ花束でも菊は重く、桜は軽いという奇妙な通達が残り、後年の研究者を困惑させた[6]。
代表的事例[編集]
神田書房前事件[編集]
1938年にの古書店前で起きた事案は、長期片思い罪の典型例としてしばしば引用される。被疑者は店主の娘ににわたり詩集を送り続け、最終的に同じタイトルの本を重ねて献上したため、書店側が「棚卸しに支障あり」として通報した。
この事件では、片思いの手紙が文学的であったことから、当初は処分が見送られたが、最終的に「比喩の濃度が高すぎる」として警告処分に落ち着いた。なお、詩集の一部は後にの特別整理棚に保管されたとされるが、目録の記載が曖昧で要出典とされている。
神戸港・白い帽子の件[編集]
では、港の待合所に毎週同じ白い帽子で現れる男性が問題化した。彼は相手女性の勤務終わりを連続で見守り、その間に帽子のリボン色だけが四度変わったという。港務局の記録では「本人に悪意はないが、港の景観に執拗である」と記され、長期片思い罪の適用例として珍しく景観評価が含まれていた。
この件を受け、港湾労務組合は「恋愛の見張りは労務の見張りより長い」とする注意書きを掲示し、以後、夜間の波止場での長時間滞留に対して簡易聴取が行われるようになった。
札幌雪原控訴録[編集]
1952年のでは、雪像祭りの会場で相手の似顔を雪で作り続けた事案が、珍しく控訴審まで進んだ。裁判所は「芸術と監視の境界が曖昧である」として判断を保留したが、雪像が解けるたびに再建されたため、実質的に四度の再犯とみなされた。
この事案は、後年の文化評論家によって「最も北海道的な長期片思い」と評されたが、当時の記録係は「暖房のない会議室で審理が長引いたため、全員がどうでもよくなった」と回想している。
社会的影響[編集]
長期片思い罪の存在は、恋愛表現の適正化に大きな影響を与えたとされる。学校では「一度断られたら三回まで」「贈答は菓子一箱まで」などの独自指導が広がり、の外郭資料には、恋文教育を受けた生徒のうちが「まず観察日記をやめた」と回答したという統計がある。
一方で、恋愛相談業界はこの制度を逆手に取り、長期片思いを「管理された情熱」として商品化した。1930年代後半の東京では、片思いの継続日数を証明する「感情継続票」が文具店で販売され、最大で用の罫線が印刷された帳面が人気を集めたという[7]。
ただし、長期片思い罪はしばしば女性側の拒否表明を軽視する運用に転化したとも指摘されている。とくに地方の調書には「相手が困っている様子は、むしろ情が深い証左」といった記述が散見され、現代の研究ではこの種の文言が最も問題視されている[8]。
批判と論争[編集]
戦後になると、長期片思い罪は旧来の風紀行政の象徴として批判された。1949年の社会学研究会は、これを「感情を行政語に翻訳した典型例」と位置づけ、片思いの年数ではなく相手の意思表示を基準にすべきだと提言した。
もっとも、廃止をめぐっては保守的な市民団体から「恋愛を放任すれば、駅前のベンチが全部埋まる」との反対もあり、1956年の『恋愛表現整理令』制定までにを要した。なお、整理令の附則第7項には「ベンチの独占的占有は、片思いの有無を問わず別途処理する」とあり、行政が最後まで座席の問題に執着していたことがうかがえる。
現在では、長期片思い罪は実在の法概念ではなく、都市伝説的な管理語として研究されている。しかし、相談記録や新聞の投書欄に似た表現が散在することから、完全な虚構というより、複数のローカル規則が後世に接合されたものと見る説もある[9]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田所満枝『都市情緒と片思いの行政化』風紀研究社, 1932.
- ^ 久我山栄太郎『警察実務における感情記録』内務資料出版局, 1935.
- ^ 『風紀月報』第14巻第3号, 1929, pp. 22-31.
- ^ Margaret A. Thornton, "Administrative Lexicon of Affection", Journal of Urban Affect Studies, Vol. 8, No. 2, 1958, pp. 114-139.
- ^ 神保町社会史編纂室『東京恋愛苦情史料集』青柳書房, 1941.
- ^ 『北海道庁生活調査年報』第7巻第1号, 1953, pp. 88-93.
- ^ 佐伯りん子『贈答の過剰とその取締り』港湾文化社, 1961.
- ^ 『神戸港務局報』第21号, 1939, pp. 5-9.
- ^ Leonard H. Weiss, "On Prolonged Unreturned Attachment", Transactions of the Society for Civic Feelings, Vol. 3, 1960, pp. 41-66.
- ^ 東京社会風俗史料刊行会『恋愛表現整理令注解』三省堂風俗叢書, 1957.
外部リンク
- 風紀史料データベース
- 昭和恋愛行政アーカイブ
- 都市情緒研究会
- 片思い文化保存委員会
- 神戸港口述記録集成