関東山地縦断鉄道
| 正式名称 | 関東山地縦断鉄道 |
|---|---|
| 通称 | 山地縦断線、KMTR |
| 種別 | 山岳直通・試験兼用鉄道 |
| 計画区間 | 東京都青梅市 - 長野県南佐久郡 |
| 総延長 | 約184.7 km |
| 開業予定 | 昭和39年3月 |
| 最高勾配 | 58‰ |
| 車両限界 | 狭軌3尺6寸改変規格 |
| 主な運営主体 | 関東山地開発連絡会議 |
関東山地縦断鉄道(かんとうさんちじゅうだんてつどう、英: Kanto Mountain Range Traversing Railway)は、西部から西端、東部を経て南東部に至るとされる山岳直通鉄道路線構想、またはそのために編成された試験運行体系である[1]。一般には未成線として扱われるが、沿線の旧施設では今なお「運用中」と記録されている場合がある[2]。
概要[編集]
関東山地縦断鉄道は、を東西に貫通し、都市圏の物流と山村の防災通信を同時に解決する目的で構想されたとされる鉄道である。鉄道施設のほか、索道、落石観測塔、避難小屋が一体化されており、当初は「鉄道」というより「移動式の山腹行政」と呼ばれていた[3]。
もっとも、正式な免許資料の多くはの焼失台帳にしか残らず、学界では「実在した計画」であるか「地方新聞記者による壮大な誤植」であるかが長く争われてきた。なお、沿線自治体の記念誌では、毎年9月に保線員姿の子供たちが山頂で切符を振る「復元式」が行われたとする記述が見られるが、写真がいずれも同じ角度で撮影されているため、検証は進んでいない。
定義[編集]
この鉄道は、一般的な幹線鉄道と異なり、トンネル内に気圧調整区画を持ち、標高800メートル以上では停車せず通過音のみを残す仕組みであったとされる。乗客は車窓から風景を見るのではなく、沿線の観測点が発する「現在位置放送」を聞いて移動を把握したという。
名称の由来[編集]
名称は31年、の料亭「三峰亭」で行われた会合で、土木技師のが「関東を縦断するのではなく、山地を縦断するのである」と発言したことに由来するとされる。発言直後、同席していた県職員が「それなら線路より先に弁当を縦断すべきだ」と返した逸話が残る。
歴史[編集]
計画の発端[編集]
起源は28年の豪雪災害後、との林道復旧をめぐって開催された「山地輸送合理化懇談会」にさかのぼるとされる。ここで出身の官僚が、ヘリコプターより安く、道路より遅く、しかし確実に届く交通手段として山岳鉄道を提案した。提案書は全47頁だったが、付録の弁当配給表が32頁を占めており、後年の研究ではむしろこちらが事業の本体ではないかと指摘されている。
試験建設と中断[編集]
35年から付近で試験的な軌道敷設が始まり、延長2.8 kmの「第一山腹試験線」が完成した。ここでは規格の枕木に代えて、地元の炭焼き場から搬入された黒松材が用いられたため、雨天時に線路からほのかな煙の匂いがしたという。試験列車は最高時速19 km/hに達したが、同時に鳶の群れが先頭車に追従したことから、鳥類の進路妨害を理由に実験は一時停止された。
政治的再編[編集]
38年には・・の三者協議に発展し、路線の主目的が「輸送」から「山地の視認性向上」へと変更された。これにより駅舎は地形図の等高線に沿って設計され、ホームが階段状に分断された珍しい構造になった。関係者の一人は後年、「乗り降りのしやすさより、役所間の責任分担のしやすさが優先された」と証言している[要出典]。
計画された路線[編集]
主線はを起点に、、、方面へ抜け、さらに山麓をかすめてに至るとされた。総延長は資料によって183.2 kmから186.1 kmまでぶれがあり、これは測量担当者が「崖の先端を路線に含めるか」で毎回揉めたためである。
途中の主要駅として、貨物・温泉・役場窓口が同居する、標高差をケーブルで吸収する、夜間のみ営業するなどが計画された。特に駅は、冬季にはホーム全体が霧に包まれることから「視認不要駅」と呼ばれた。
また、側では中継基地としてが置かれ、ここで山菜、郵便、遭難者、選挙ポスターが一括仕分けされたという。地方紙『山峡タイムス』は、同駅開業により「村の犬が時刻表を覚えた」と報じたが、後に犬の種類が三度変更されている。
技術[編集]
縦断式トンネル工法[編集]
本路線最大の特徴は「縦断式トンネル工法」である。通常の掘削ではなく、山腹に沿って細長い空洞を先に確保し、その後に線路を「差し込む」方式で、当時の技術評論では「鉄道版の箸入れ」と呼ばれた。これにより土砂搬出量は約38%削減されたが、代わりに線路が夜間に少しずつ沈降する問題が生じた。
山霧信号[編集]
信号機は霧中視認を前提にせず、霧の濃淡で進路を示す「山霧信号」を採用した。緑霧は進行、黄霧は徐行、赤霧は祈祷であり、地元の神社と連携していた点が特徴である。実験区間では誤って朝靄と夕靄の区別がつかず、列車が1時間にわたり同じ鉄橋を往復した事例がある。
社会的影響[編集]
関東山地縦断鉄道の計画は、沿線自治体に「鉄道が来る前提」での都市計画を広めた。これにより、実際には駅が建設されなかった集落にも改札口だけが先行して設置され、現在でも物置として利用されている家屋がある。
一方で、山村の通信事情には一定の改善が見られたとされ、線路予定地に沿って敷設された通話線を用い、消防団が相互連絡を迅速化した。これが後の整備の原型になったという説もあるが、地元ではむしろ「電柱が増えただけ」とする見方が根強い。
また、観光面では「未完成の大鉄道」を見に行くという奇妙な登山文化が生まれ、昭和40年代には年間約12万人が「幻の終着駅」を目当てに山へ入ったとされる。なお、終着駅の候補地は年によって3回変わっており、結果として観光案内板が最も多い時期には、駅名より案内板の在庫数の方が有名であった。
批判と論争[編集]
最大の批判は、事業費が当初見積りの約6倍に膨らんだにもかかわらず、実際の旅客営業開始が一度も確認されていない点である。会計検査の記録には、レール購入費より茶菓子代が多い年度があったとされ、これが「懇談会鉄道」と揶揄される由来になった。
また、路線の存在自体を疑問視する研究者も少なくない。特に工学部のは、図面に描かれたカーブ半径がすべて整数であることから「実測ではなく夢測である」と指摘した。これに対し擁護派は、山岳路線では整数半径の方がむしろ安全であると反論したが、反論文の末尾に「なお現地で確認したところ、ホームが熊棚になっていた」と書かれていたため、議論はかえって混迷した。
その後[編集]
45年の事業凍結後、未成区間の大半は林道として転用されたが、数か所では枕木だけが撤去されず、現在も登山客が「昔の線路跡」として踏みしめている。地元保存会は毎年4月に「通過列車を待つ会」を開き、ホイッスルの代わりに笛付きの山菜を鳴らす儀式を続けている。
2000年代以降は、の資料公開により一部の計画図が再発見されたとされるが、発見された図面の余白に「次回は温泉も併設」と赤鉛筆で書かれていたため、後世の研究者はこれを正式文書ではなく現場メモとみなしている。なお、2021年には沿線住民の要望を受け、内で「縦断鉄道記念バス」が運行されたが、経路はほぼ旧計画と一致せず、案内放送のみがやけに詳細であった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『関東山地縦断鉄道計画覚書』山峡交通研究会, 1961.
- ^ 神保龍太郎『山地輸送合理化と鉄道敷設の比較研究』中央道路社, 1959.
- ^ 西村澄子「山岳未成線における曲線半径の整数化について」『土木交通学報』Vol. 14, 第2号, pp. 41-67, 1978.
- ^ 林野庁山地開発班『関東山地縦断鉄道関係綴』林野資料刊行会, 1964.
- ^ Thomas E. Hargrave, “Contour Railway Administration in Central Honshu,” Journal of Alpine Transit Studies, Vol. 7, No. 1, pp. 9-33, 1982.
- ^ 佐伯みどり『幻の駅舎と改札口先行設置の文化史』峰書房, 1994.
- ^ Kiyoshi Arata, “Fog Signaling and Ritualized Right-of-Way: The Kanto Case,” Railway Anthropology Review, Vol. 3, No. 4, pp. 112-129, 2001.
- ^ 小林栄一『山霧信号の実務と迷信』関東技報社, 1970.
- ^ M. H. Latham, “Administrative Railways as Landscape Governance,” Proceedings of the Pacific Infrastructure Forum, Vol. 21, pp. 201-218, 1990.
- ^ 『山峡タイムス縮刷版 1958年秋号』山峡タイムス社, 1958.
- ^ 宮下玄一『縦断式トンネル工法の誕生』日本山腹土木出版, 1966.
- ^ Aiko Fushimi, “The Station That Never Opened: A Study in Planned Absence,” East Asian Rail Quarterly, 第12巻第3号, pp. 55-81, 2014.
外部リンク
- 関東山地交通史アーカイブ
- 山峡鉄道資料館
- 未成線研究会
- 縦断鉄道保存協議会
- 関東山地開発連絡会議 旧資料室