阿久城
| 名称 | 阿久城 |
|---|---|
| 種類 | 戦国期の山城(比高150mの尾根城) |
| 所在地 | 阿久谷山一帯 |
| 設立 | 9年(西暦1570年)頃 |
| 高さ | 主郭の最高標高 約412m(城域の比高 約150m) |
| 構造 | 曲輪7段+門跡12箇所+堀切3筋 |
| 設計者 | 築城奉行・ |
阿久城(よみ、英: Aku Castle)は、にある[1]である。現在では、城下町の石垣文化と「防火井戸」信仰で知られている[2]。
概要[編集]
阿久城は、に所在する山城である。現在では、城郭建築の技術史に加え、城内に点在する「防火井戸」群が地域の生活防災文化として伝えられている。
阿久城が特徴的とされるのは、石垣の目地に混ぜ込まれたと説明される「粘土灰の層」である。史料では、火災の延焼を抑える目的で、井戸周りの石材が“湿りを保持する配合”に改修されたとされるが、詳細は地元の口承に依存する部分も大きい。
また、城の外縁には「夜間に灯りを沈める」ための小型水溜が設置されており、これが後世の灯火節の起源として語られている。なお、この水溜は城下の台所排水を再利用する仕組みでもあったとされる[3]。
名称[編集]
阿久城という名称は、近世の検地帳に現れる「阿久谷」の地名と結び付けて説明されることが多い。特に、城を築く際に尾根筋が“阿久の弧(あくのこ)”と呼ばれたことに由来するという説がある[4]。
一方で、語源として「阿(あ)=灰(はい)」「久(きゅう)=吸(きゅう)」を重ねた“灰吸い”信仰に由来するという説もある。もっとも、この説は語呂合わせの側面が強いと指摘されつつも、城の防火井戸との整合性が評判となり、観光パンフレットではしばしば採用されている。
さらに、別名として「粘土灰城(ねんどばいじょう)」が存在したとされる。これはが残したと伝わる“灰の配合表”の文言に由来するが、原本は見つかっていないとされる。にもかかわらず、配合表の“灰は一升に対し、土を三合、薪を二把”という具体性が受け継がれ、細部が独り歩きしたと説明されることがある[5]。
沿革/歴史[編集]
阿久城の築城は、期の山間部における勢力争いと結び付けて語られる。もっとも、築城の直接の契機は武力衝突ではなく、城下の大火とされることが多い。
伝承では、阿久谷の河岸市場が焼失した「阿久谷焼け(あくややけ)」の後、領主側が“火を止める城”を急いで要請したとされる。そこでは、主郭の中心に「井戸口直径三尺、深さ九間」を持つ井戸を据え、そこから半径二十七間ごとに補助井戸を配置したという[6]。この配置は防火だけでなく、煙の滞留を抑える換気にも寄与したと説明される。
城は完成後、周辺の村々から毎年、井戸の清掃奉納が行われたとされる。奉納は「九月二十三日の“灰入れ”」から始まり、翌日までに土を入れ替える決まりであったと伝えられている。実務の背景としては、火災時の“泥の粘り”が劣化しないようにする目的があったとされるが、実際の運用は地域の自治組織が担ったと推定されている。
なお、阿久城は一度だけ大規模改修を受けたとされる。改修年として13年(西暦1585年)が挙げられることがあるが、城内石垣の刻印の読解が史料によって異なり、改修時期には揺れがあるとされる[7]。
施設[編集]
阿久城は、曲輪が段状に並ぶ「七段構造」で知られている。主郭から下方に向けて、第一曲輪「鐘ノ段」、第二曲輪「井戸ノ段」、第三曲輪「煙返シ段」などの呼称が伝わっている。
石垣は野面積みを基調とするが、井戸周りのみ加工が丁寧である。伝承では、井戸口の石材に“灰の層”が挟まれ、濡れた際の膨潤により目地の目開きが抑えられたとされる。また、堀切は三筋で、最上段の堀切だけが幅二間半とされている[8]。
門跡は少なくとも12箇所が数えられるとされるが、これは“正式門”と“非常口”を同一基準で数えた場合の数である可能性がある。もっとも、地元の案内板では総数を12として説明しており、観光上の整合性が優先されたものと考えられている。
城内には、食糧備蓄のための「逆さ米蔵」が設けられていたとされる。これは米俵の底を上にして湿気を逃がす構造で、井戸水による微湿制御を狙ったと説明される。奇妙な呼称にもかかわらず、当時の倉式書に基づくとする説があり、後世の郷土史研究会が繰り返し紹介している[9]。
交通アクセス[編集]
阿久城は、城域の大半が山道で構成されるため、徒歩での到達が想定されている。最寄りの入口としては「阿久谷駅前」から出発し、登山口まで約2.6km、登りの高低差約150mを要するとされる。
アクセス経路は、第一にが整備した「防火井戸街道」が挙げられる。街道は石畳の一部が保存されており、雨天時の滑落防止に“溝付き敷石”が採用されていると説明される。
公共交通を利用する場合、の「阿久谷駅」からバスに乗り換え、終点の「山門前」下車が一般的である。バスの所要は概ね12分、運行間隔は平日で60分に一本程度とされる[10]。
なお、夏季のみ「夜灯り坂」では交通規制が設けられる。これは城の灯火節が行われるためで、火の用心の観点から、迂回路が案内されるとされるが、年によって運用は変動するという。
文化財[編集]
阿久城の遺構は、の「県指定史跡(第41号)」として登録されている。指定範囲は、主郭、第二曲輪、堀切の一部、および井戸群の保護区画に限定されている。
また、城内の井戸石組は「防火井戸石組」として別件で記録されている。登録名はやや長く、史料目録では「井戸口石材における灰混入痕跡」と表記されることがある。現在では、灰混入痕跡の有無を顕微観察で確認したとする報告が引用されるが、実地調査の範囲や測定条件には差異があるとされる[11]。
建築意匠としては、門跡の梁受け金具が注目されている。金具の規格が“長さ七寸、厚さ二分”と説明されることがあり、城の設計思想が「火に強い動線」を優先したものとして評価されている。
さらに、地域の祭礼である「灯火節」が、阿久城の防火井戸と結び付けて語られている。灯火節では、井戸前で灯りを“沈める”所作が行われ、これが延焼抑止の祈願として位置付けられている。実際の所作の起源は不明な点もあるが、観光資源としての説明は統一されつつある[12]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 北原淳一『山城の防火設計史:井戸と石垣の関係』架空書房, 2012年.
- ^ 【名賀土佐守】『灰配合表抄(伝写)』阿久谷文庫, 1587年.
- ^ Watanabe, Keiji. “Hydration-Grey Layers in Edo-Era Masonry: A Comparative Note.” *Journal of Shelter Archaeology*, Vol. 6 No. 2, pp. 41-58, 2018.
- ^ 佐伯和義『県指定史跡の記録と再解釈』架空県文化財協会, 2020年.
- ^ Matsuda, Rina. “Cistern Rituals and Urban Fire Memory in Mountain Communities.” *Asian Heritage Review*, Vol. 12, pp. 119-133, 2016.
- ^ 藤堂正康『曲輪七段の測量物語』測量民話研究所, 2009年.
- ^ 阿久谷市『阿久谷の登山道と石畳:溝付き敷石の技術報告』阿久谷市役所, 2019年.
- ^ Keller, Marcus. “Firebreak Water Systems: Myth or Engineering?” *International Journal of Castle Studies*, Vol. 3 No. 1, pp. 1-17, 2015.
- ^ 架空県教育委員会『文化財指定台帳(第41号)解説編』架空県教育委員会, 2022年.
外部リンク
- 阿久谷城郭ガイドブック
- 防火井戸街道保存会
- 阿久谷灯火節実行委員会
- 架空県文化財データベース
- 山城測量アーカイブ