阿部達也
| 氏名 | 阿部 達也 |
|---|---|
| ふりがな | あべ たつや |
| 生年月日 | 4月17日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 発明家、資源循環思想家 |
| 活動期間 | 1936年 - 1985年 |
| 主な業績 | 「再点火灰(さいてんかい)」実用化、家庭用微小発熱器の設計 |
| 受賞歴 | 日本産業技術大賞(1959年)、文化工学賞(1972年) |
阿部 達也(あべ たつや、 - )は、の発明家である。異色の資源循環思想家としても広く知られる[1]。
概要[編集]
阿部 達也は、日本の発明家である。工業材料の余剰から“燃える機能”だけを取り出すという発想を一貫して掲げ、暮らしの中のエネルギーを再配分する装置群を構想したとされる[2]。
彼の代名詞とされたのが、廃棄物をそのまま焼くのではなく、灰の表面反応を“再点火”させるという理屈である。もっとも、この理屈は当時の化学会の標準手順から外れており、批判も多かったと記録されている[3]。
阿部はさらに、装置の設計思想を「生活の中で余る量を測る技術」として広めた。とくに内の細かな自治体実験に関わり、家庭ごとの“余り熱”を算定する市民測定会が全国的に波及した[4]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
阿部は、に生まれた。父は町の計量道具店で、家の帳簿には「重さ」だけでなく、なぜか“すすの匂い指数”が付されていたという[5]。
幼少期、阿部は冬場の薪不足を目の当たりにし、玄関に溜まる煤を毎日2回、同じ温度帯で観察したとされる。記録によれば、彼は霜が降りる前に煤を採取し、室内の湿度を「対数で丸めた値」で書きつけていたとされるが、当時の家庭用温湿度計にそのような精度はなかったと指摘されている[6]。
また、彼はの小学校で「熱の持ち越し」について発表し、担任が配ったプリントが焼け残っているという噂がある。プリントには“未燃の可能性は灰にも潜む”とだけ書かれていたと伝えられる[7]。
青年期[編集]
代前半、阿部は工業系の夜間講座に通い、材料試験の手順を学んだとされる。彼は「実験は回数より分解能」と主張し、加熱時間を毎回“秒針の往復回数”で揃えたという[8]。
には、当時の農家向けに簡易な乾燥炉の改良案を提出したが、採用には至らなかった。その代わり、提出書類がの倉庫に保管され、後年“改良案がそのまま検定機になった”とする伝承が残ったとされる[9]。
一方で、青年期の阿部は、極端に几帳面だったとも記録されている。灰の粒径を測るのに、祖母の裁縫用の絹糸でふるいを自作し、ふるい目を「0.07ミリ」まで縮めたと本人が語ったと伝わるが、同時期の絹糸の伸び率を踏まえると整合しないという[10]。
活動期[編集]
阿部の本格的な活動はから始まったとされる。彼は個人で小型炉を組み、家庭内で発生する“余剰炭化物”を対象に、表面反応の再点火を試したとされた[2]。
、阿部は民間企業であると共同研究を開始した。プロジェクト名は「灰熱復帰計画(はいねつふっきけいかく)」で、炉内の酸素分圧を“換気扇の回転数”から推定する手法が採られた[11]。この推定は学術的には異例だったが、実用上の誤差が許容され、試作機は家庭用として“月の光熱費を平均で3,480円下げた”とされる[12]。
また、阿部は装置の設計を社会実装する際、の生活改善課と連携し、市民向けの「余り熱台帳」を配布した。台帳には“同じ鍋に、同じ湯を、何分すすいだか”といった生活動作の項目が並び、参加者の行動変容まで含めて評価された[4]。
晩年と死去[編集]
晩年の阿部は、研究から一歩引き「測ることが発明を連れてくる」と繰り返したとされる。彼はに、従来の炉設計を見直した第4世代モデルを発表し、“安全率は3.2ではなく3.17であるべき”と講演で語ったと記録されている[13]。
この数字の根拠は明確に残っていない。もっとも、彼の弟子が当時の議事録を整理する際に「彼は毎回、湿度補正を小数第2位まで言い切った」と回想しており、その癖が残ったともされる[14]。
阿部は11月2日、で呼吸器疾患により死去した。満75歳没とされるが、当時の戸籍記録の写しには誕生日が1日だけずれているという指摘もある[15]。
人物[編集]
阿部は、合理性と情緒が同居した人物として知られている。実験では徹底して数値を求める一方で、台所の匂いを「反応の予兆」と呼び、鼻で測定する手順まで冗談めかして同僚に教えたとされる[3]。
逸話として有名なのが、装置の試験日に限って必ず“同じ雨の音”が聞こえる方角に机を置いたという話である。弟子のは「先生は雨が先か反応が先かを気にしていた」と述べたとされる[16]。
また、阿部は怒ると妙に丁寧になったと伝えられる。研究室で誰かが手順書に付箋を貼ると、彼は付箋の位置を0.5センチ単位で測り、注意書きを作り直したという[17]。この几帳面さが、後の設計図の精度に繋がったと評価されている。
業績・作品[編集]
阿部の主要な業績は、灰の表面反応を再点火させる概念を実用装置に落とし込んだ点にある。彼はこれをと名付け、灰の粒径分布と加熱後の“静置時間”が性能を左右すると主張した[2]。
代表作とされるのが家庭用微小発熱器「KHK-17号」である。型番の由来は、彼が机上で作図した温度曲線の山の数が17個だったことから来ているとされる[11]。装置は、炭化物を直接燃やすのではなく、表面を短時間で活性化し、熱を段階的に放出する方式を採っていたと説明された[12]。
さらに阿部は、家庭用測定器「余り熱定規」を考案した。これは温度ではなく、鍋の底の“曇り面積”を目視で換算するという奇妙な仕組みである。彼自身は「測るのは熱ではなく、熱に近い現象だ」と述べたと伝えられる[4]。
なお、これらの装置は一部地域で普及したが、学会では「灰に反応が再現するという主張が過度に一般化されている」と批判も受けた[3]。それでも自治体実験では一定の省エネ効果が報告され、阿部の名は“炉の人”として広まった。
後世の評価[編集]
阿部の評価は二分されている。実用面では、家庭で扱える小規模熱回収の設計思想として評価する研究者がいる。彼の方法は、エネルギーを“回収”ではなく“配分し直す”考え方として読み替えられ、後年の生活工学の教科書に引用された[18]。
一方で批判側は、彼の再点火という語が概念的には正確でも、実験条件の再現性に乏しい可能性を指摘している。特に、共同研究の検証記録が、個人ノートを元に再構成された部分を含むことが問題視されたとされる[19]。
それでも、彼の影響は技術だけに留まらなかったとされる。阿部は「測定会」を研究の一部として扱い、住民の記録を設計に反映させた。これにより、研究と生活の距離が縮まったという社会学的評価も出ている[4]。
結果として、阿部は“成功した発明家”というより、“社会へ発明を運ぶ方式を発明した人物”として扱われることが増えた。資料保存の観点でも、灰のサンプル管理法が参考文献として残ったとされる[20]。
系譜・家族[編集]
阿部の家系は、計量道具店を営んだ商家とされる。父はで、帳簿管理の几帳面さが阿部に受け継がれたと伝えられている[5]。
阿部の妻はとされる。彼女は研究室の家事動作を“再現実験”として整理し、湯のすすぎ回数や湯切り時間をメモする係だったとされる[21]。この役割は当時の工学界では珍しいとして、弟子たちの中で“生活のアシスト”と呼ばれた。
子息は2人で、長男は、次男はとされる。達弘はの小学校で理科教員になり、阿部の余り熱台帳を教材化したと伝わる[22]。智也は炭化物の輸送容器の設計に携わり、家庭用装置の普及を側面から支えたとされる[23]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山田 悠一『灰は再び燃えるか:阿部達也ノートの再構成』新潟学術出版, 2011.
- ^ K. Miller「Reignition of Surface Ash in Domestic Furnaces」『Journal of Applied Hearth Mechanics』Vol.12 No.3, pp.41-58, 1964.
- ^ 田中 真琴『余り熱台帳と生活改善政策』東京都生活文化研究所, 1976.
- ^ 鈴木 圭介『測りながら発明する:弟子が見た阿部達也の実験』共栄書房, 1989.
- ^ 阿部 達弘『家庭熱回収の授業設計』長岡教育叢書, 1994.
- ^ 藤原 恵里『炉の人の社会実装』中央工学社, 2003.
- ^ M. Thornton「Citizen Measurement and Technological Adoption」『Asian Review of Domestic Engineering』第6巻第2号, pp.9-27, 1979.
- ^ 日本産業技術史編纂委員会『日本産業技術大賞の系譜(1950年代)』産業技術資料館, 2008.
- ^ 文化工学賞選考委員会『文化工学賞受賞者名簿(1970年代)』文化工学協会, 1972.
- ^ 『長岡市史 資料編・近代の計量』長岡市, 1968.
外部リンク
- 灰熱復帰アーカイブ
- 阿部達也研究会
- 余り熱台帳デジタル展示
- 新潟機装工業(沿革ページ)
- 生活工学資料センター