┳□。
| 氏名 | 黒川 朔也 |
|---|---|
| ふりがな | くろかわ さくや |
| 生年月日 | 1897年4月12日 |
| 出生地 | 日本・京都市下京区 |
| 没年月日 | 1964年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 記号学者、編集者、書式設計家 |
| 活動期間 | 1919年 - 1964年 |
| 主な業績 | 縦組み注記記号「┳□。」の標準化、活字配列表の改訂 |
| 受賞歴 | 日本組版協会功労章、帝都書式文化賞 |
黒川 朔也(くろかわ さくや、 - )は、の縦書き記号学者。特殊記号の体系化と普及に関わった人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
黒川 朔也は、末期から中期にかけて活動したの縦書き記号学者である。とりわけ、編集現場で用いられた特殊記号を「一行の終端を示す複合注記」として整理したことで知られる[1]。
彼の名は一般にはほとんど知られていないが、の新聞社、の活字工場、さらには旧整理室の一部資料に断続的に現れるため、編集史の研究者の間では半ば伝説的人物として扱われている。なお、没後に刊行された回想録『縦の余白に生きて』によって、その人物像が一層複雑になったとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
黒川は京都市下京区の紙問屋の三男として生まれる。幼少期から帳簿の罫線や荷札の書式を観察する癖があり、12歳で家業の帳場に置かれた算用紙を用いて独自の「折返し記号」を作っていたという。
、相当の補習課程に進んだが、ノートの端にばかり図形を書き込むため、担任から「文字より余白に詳しい少年」と記されている[3]。この時期の習作の一つに、後のの原型とされる「T形に四角を添える記号」がある。
青年期[編集]
、黒川は上京し、の書店街で校正補助として働き始めた。そこでの組版主任・田所重蔵に師事し、活版印刷における段落終端の表現法を学んだとされる。
にはの聴講生としてとを断続的に学んだが、実際には講義よりも教室黒板の隅に残る矢印や括弧の癖を記録していたという。後年、彼はこの観察を「文字は意味を運ぶより先に、紙の上で姿勢を取る」と表現した[4]。
活動期[編集]
、黒川はの外注組版に携わり、縦書き原稿の末尾を整えるための試案としてを提示した。これは、上向きの接続線、空白の四角、そして句点を組み合わせたもので、「本文の終わりではなく、未処理の余白を閉じるための記号」と説明された。
には内の複数の印刷所で試験採用され、1日平均で約3,400行の原稿に適用されたという記録がある。もっとも、導入当初は植字工の間で「見たことのない鳥の巣」「天井のひび」などと呼ばれ、誤植として削除されることも多かった[5]。
、黒川はの委員会で「縦組みの近代化において、句読点は礼儀である」と演説し、を正式な補助記号として再定義した。これにより、学術誌、官庁文書、さらには一部の社内報まで採用範囲が拡大したとされる。
晩年と死去[編集]
晩年の黒川はに居を移し、海風による紙の波打ちを嫌って、原稿用紙をすべて重しで固定していた。近隣住民の証言によれば、庭の松の枝ぶりを見て「これは横書きに向いている」と独り言を漏らしたことがあるという[6]。
、持病の心臓疾患により11月3日に66歳で死去した。死去の直前まで、彼は新記号「┳□、」の試作を続けていたとされるが、最終案は未完成のまま遺稿箱に収められた。葬儀では参列者が香典袋の表書きを縦書きで揃え、会場の受付票にのみが使用されたという。
人物[編集]
黒川は極端に几帳面で、食卓でも箸置きの角度が15度ずれると気分を損ねたと伝えられる。編集者仲間からは「沈黙のあいだに校正している男」と呼ばれた。
一方で、本人は人前では無口であったが、メモ帳には異様に饒舌な注釈を書き残しており、その量は生涯で推定18,000枚に及ぶ。特に風呂敷の結び目や駅の案内板の余白について、後にと呼ばれる独自の視点を示した点が評価されている。
逸話として、の喫茶店で砂糖壺の蓋を見ながら「これは句点が帽子をかぶった形である」と発言し、同席していた編集者を3分間沈黙させた出来事がある。この発言がの最終的な造形に影響したとの説もあるが、確証はない[7]。
業績・作品[編集]
記号設計[編集]
黒川の代表的業績は、縦書き組版における終止処理を統一するための記号の設計である。彼はこれを単なる装飾ではなく、見出し・本文・注記の境界を同時に示す「三層終端記号」と位置づけた。
に刊行された『縦組標識便覧』では、の使用条件が全17項目に整理されている。たとえば「見出しの直後に感嘆符が続く場合は使用しない」「紙幅が2分の1字詰の場合は四角を横に倒す」など、現代の感覚では過剰ともいえる細則が並ぶ。
教育・啓蒙[編集]
また黒川は、一般向け講演にも熱心であった。の講堂で行われた講演「余白はなぜ怖いか」は、聴講者412名のうち27名がメモ用紙の端にを描いたと記録されている。
には雑誌『書体と実務』に連載「記号の歩き方」を執筆し、編集者や校正者に対して「記号は意味の最後尾ではなく、注意の入り口である」と説いた。この連載は後に地方新聞の縮刷版にも転載され、東北地方の印刷所で半ば独自に神格化されたという。
未完の構想[編集]
黒川の遺稿には、を拡張した「┳□!」「┳□?」「┳□…」の系列案が残されている。とくに「┳□…」は、役所文書における回答保留を示すための記号として構想されたが、委員会で「不安を煽る」と却下された。
なお、彼の最後の著作『紙面の気象学』では、印刷物の余白を「風が抜ける都市インフラ」と呼んでおり、後世のレイアウト研究者の間でしばしば引用されている[8]。
後世の評価[編集]
黒川の評価は生前よりも没後に高まった。特に以降、写植から電算写植への移行期において、のような複合終端記号が「古典的な縦組み文化の象徴」とみなされるようになった。
で開催された企画展「紙のかたち、記号のかたち」では、黒川の設計メモが来場者の人気を集め、展示ケース前に平均滞在時間11分42秒という異例の記録を残したという。
一方で、批評家の中には「は便利であるが、意味を過剰に装飾している」とする意見もあり、現在でも一部の組版研究者のあいだで賛否が分かれている。もっとも、SNS時代の短文文化では、むしろこの過剰さが再評価されているともいわれる。
系譜・家族[編集]
黒川家は代々京都の紙商を営んでいたとされ、父・黒川善兵衛、母・黒川いと、妻・黒川芳子が記録に残る。長男の黒川俊一はの出版社に勤め、父の記号研究を生涯「実務に役立つ夢」と呼んだ。
また、末娘の黒川澄子は戦後、のタイピスト養成所で教鞭を執り、授業の初回に必ずを板書してから発音練習に入ったという。家族の多くは父の研究を理解していなかったが、年末の家計簿だけは異様に整っていたと伝えられる[9]。
脚注[編集]
[1] 黒川朔也の生年・没年については、京都府下の戸籍断片と日本組版協会名簿の照合に基づくとされる。
[2] 『縦の余白に生きて』は1967年刊とされるが、奥付の判型が版ごとに異なるため、複数版の存在が指摘されている。
[3] 補習課程の記録は戦災で焼失したとされるが、写しの写しが京都の古書店で確認されたとの報告がある。
[4] 黒川の言葉として流布するが、原文は「文字は、先に場所を決める」であるという異説もある。
[5] 数値は内部報告書『縦組試用記録第4号』によるとされるが、報告書自体が現存しない。
[6] 鎌倉転居後の生活については、近隣住民の回想が互いに矛盾しており、実際には別荘地の見学に留まったとする説もある。
[7] 喫茶店での逸話は、のちに講演録の脚注から独立して流布したもので、本人の発言かどうかは不明である。
[8] 『紙面の気象学』は未刊行原稿とされるが、目次だけを写した謄写版が数部確認されている。
[9] 家族史の多くは遺族会の聞き取りによるため、黒川家の親族構成にはなお異同がある。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 黒川朔也『縦組標識便覧』日本書式研究会, 1935年.
- ^ 田所重蔵『活字と余白のあいだ』東京印刷学会出版部, 1941年.
- ^ 佐伯みどり「縦書き終端記号の制度化」『日本組版史研究』Vol. 7, No. 2, pp. 114-139, 1978年.
- ^ M. H. Cartwright, "Vertical End-Marks in Pre-Digital Japanese Printing," Journal of Typographic Studies, Vol. 12, No. 4, pp. 201-228, 1983.
- ^ 青木信一『紙面の気象学』書肆あかね, 1962年.
- ^ 小田島文雄「┳□。の受容と誤読」『編集工学年報』第14巻第1号, pp. 33-58, 1994年.
- ^ Margaret A. Thornton, The Grammar of White Space, Oxford Press, 1991.
- ^ 黒川芳子編『縦の余白に生きて』帝都文芸社, 1967年.
- ^ 中村静夫「記号生態学の萌芽としての黒川朔也」『国語と書式』第22巻第3号, pp. 77-91, 2004年.
- ^ Hiroshi Watanabe, "A Survey of Composite Punctuation in Japan," Bulletin of East Asian Bibliography, Vol. 5, No. 1, pp. 9-41, 1972.
- ^ 山口栄子『校正者の夜食と記号』中央出版企画, 1988年.
- ^ 大森健一「書式文化における未完の終止」『印刷史通信』Vol. 3, No. 6, pp. 5-19, 1960年.
外部リンク
- 日本縦組記号史研究所
- 黒川朔也資料アーカイブ
- 紙面設計学会デジタル年報
- 東京旧組版資料館
- 記号文化フォーラム