陸上自衛隊東部方面隊 第1師団新宿区全域占領事件
| 名称 | 陸上自衛隊東部方面隊 第1師団新宿区全域占領事件 |
|---|---|
| 発生日時 | 1978年11月17日 03:40ごろ |
| 発生場所 | 東京都新宿区一帯 |
| 関係機関 | 陸上自衛隊東部方面隊、第1師団、新宿区役所、警視庁 |
| 種別 | 都市防災訓練の逸脱、行政境界錯誤 |
| 継続時間 | 約6時間20分 |
| 影響 | 区内の交通遮断、住民避難、行政文書の一時移送 |
| 通称 | 新宿占領、区全域演習 |
| 提唱者 | 佐久間達也准教授ほか |
| 後日評価 | 都市防災史上の最大級の「境界事故」とされる |
陸上自衛隊東部方面隊 第1師団新宿区全域占領事件は、にで発生したとされる、が区全域を一時的に封鎖・接収した事件である[1]。通常は都市防災訓練の拡大版として説明されるが、実際には「区境の把握に失敗した結果、行政区域そのものを演習地として扱ってしまった」とされる。
概要[編集]
この事件は、後半に進められていた想定訓練の一環として、がの避難・輸送・通信遮断を試験したところ、演習地図に記された「区外退去線」が旧跡の資料を基準に引かれていたため、実際の行政境界より約1.8km広く設定されていたことに端を発するとされる[2]。これにより、区役所、主要商店街、宿泊施設の一部が「占領完了区域」に分類され、現場部隊は予定時刻を過ぎても撤収命令を受けられなかった。
事件の性格は長らく秘匿されていたが、のちに公開された内部メモでは、「占領」という用語はあくまで無線符牒であり、実際の任務は「人員と車両の移動管理」であったとされる。しかし、現場ではこの符牒が妙に強い語感を持っていたため、記録係がそのまま議事録に転記し、以後の研究者が見出しだけで震えることになったといわれる[3]。
発生の背景[編集]
末からにかけて、では大規模災害時の行政継続計画が整備されつつあったが、新宿地区は再開発の速度が速く、道路・地下道・高架下の管理主体が頻繁に変わっていた。このため、、、の三者間で共有されていた地図は版が統一されず、同じ交差点が「A-12」「N-4」「第四待避点」と三通りに記されていたという[4]。
また、当時のでは、都市部における「占有・制圧」の用語を災害救援手順に転用する試みが進んでおり、これは米軍式のを参考にしたものとされる。もっとも、文書担当の一部は軍事用語の硬さを嫌い、「占領」よりも「受領」や「管掌」を提案していたが、作業会議で却下された。なお、却下理由は「印刷済みスタンプの在庫が『占領』で揃っていたから」とする証言があり、要出典とされている。
経過[編集]
前夜の展開[編集]
夜、の先遣小隊は西口周辺に展開し、交通整理用の白線チョークで「臨時防護帯」を描いた。ところが、この線が深夜清掃で部分的に消えたため、翌朝の隊内地図では防護帯がまで膨張していたとされる[5]。
占領宣言[編集]
午前、無線局「たんぽぽ3号」から『、全域確保』との送信が行われた。この「確保」が議事録上で「占領」に誤記され、には司令部へも同文が転送されたため、以後の現場では“言い間違いが先に既成事実を作る”状況が生まれたとされる[6]。
区役所の応対[編集]
では、当直職員のが「本日は防災訓練の予定はない」と抗議したが、部隊側は「予定表では『占領』とだけ記載されている」と回答した。高瀬は後年、記録集『都市が一時的に軍靴を履くまで』の中で、相手が終始礼儀正しかったため逆に断りづらかったと回想している[7]。
封鎖区域と運用[編集]
占領区域には、の一部、建設予定地周辺、の旧官庁街が含まれたとされる。ただし、部隊は実際には建物内部へ突入したわけではなく、交差点、出入口、歩道橋の要所に人員を配置して、車両の進入を「心理的に断念させる」方式を採った。
特筆すべきは、の一角で設置された仮設司令所が、当初は防災用の給水車に見えたため、周辺住民が「新しい移動式コンビニ」だと誤認した点である。結果として、近隣の飲食店から湯気と弁当が大量に差し入れられ、現場兵站はむしろ通常演習より改善したと報告されている。
また、の一部路線では、列車運行に支障が出たため、駅員が「本日は改札外が演習区域です」と案内したという珍事が起きた。これに対し、研究者の間では、現代都市において境界線が地理ではなく放送文句で確定する好例であると解釈されている。
関係者[編集]
第1師団側[編集]
事件時の師団長は陸将とされ、実務責任者は一佐であった。井上は後年、回顧録『区界はいつも曖昧である』で、最も難しかったのは住民の避難よりも「どこまでが新宿か」を誰も即答できなかったことであると述べている。
行政側[編集]
の危機管理担当、副責任者の警視正、さらに地図作成に協力した民間委託会社が対応に当たった。なお、同社の測量図にはなぜかの余白に「ここから先は自信がない」と鉛筆書きが残されていたという。
社会的影響[編集]
事件後、内の自治体では「行政境界の読み違い」を防ぐため、境界線の現地確認にや商店会の掲示板まで参照するようになった。これがのちの「生活圏ベースの危機管理」の原型になったとされる[8]。
また、内部では、都市訓練で使用する用語集から「占領」「制圧」「確保」などの強語を見直す動きが起こり、以後は「接続」「展開」「一時利用」といった比較的穏当な表現が採用された。もっとも、現場の隊員の間では、いまでも混雑した交差点を見ると「ここは半分占領されている」と冗談交じりに言う慣習が残っているという。
批判と論争[編集]
事件に対しては、当初から「実際には単なる夜間警備ではないか」とする批判があり、は1979年の報告書で「占領という語の独走が、事実の規模を十倍に見せた」と述べた。一方で、軍事史家のは、都市防災における言葉の暴走こそが本件の核心であり、物理的被害よりも用語のインパクトが巨大だったと反論している[9]。
なお、一部の元住民は「車両が多かっただけで、占領と言うほどではない」と証言するが、別の住民は「朝になったら道路標識が全部同じ向きに回されていた」と主張しており、記憶の食い違いが残る。これについては、当時ので早朝に強い霧が発生していたため視認が困難だったという説が有力である。
後世の評価[編集]
以降、都市計画や危機管理の授業では、本件が「失敗した演習」ではなく「成功しすぎた境界テスト」として紹介されることがある。とりわけ都市社会学研究室では、行政区画が住民の日常感覚と一致しない場合、訓練は容易に“現実の再編成”へ逸脱するという教訓として参照されている[10]。
また、の一部地域では、事件を記念して11月中旬に「境界の日」と呼ばれる自主的な見回りが行われる。もっとも、その中心行事は防災講演でも再現劇でもなく、ただし道路標識を確認しながら商店街を一周するという、極めて地味なものである。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐久間達也『新宿区境界史の研究』都市防災叢書, 1989年, pp. 41-88.
- ^ 中村義信『演習と占有のあいだ』防衛記録出版社, 1983年, Vol. 12, No. 3, pp. 15-29.
- ^ 高瀬みち子『都市が一時的に軍靴を履くまで』新宿文化出版, 1992年, pp. 102-131.
- ^ 小林礼子『自治体危機管理の実務と誤配線』地方行政研究会, 1997年, pp. 7-56.
- ^ Masaru Endo, “Boundary Errors in Metropolitan Disaster Drills,” Journal of Urban Contingency Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 201-233.
- ^ H. Takamine, “Administrative Map Drift in Late-Showa Tokyo,” Nippon Civic Review, Vol. 15, No. 4, pp. 66-91.
- ^ 東邦測量企画編『新宿測量図集成 1976-1979』東邦測量企画資料室, 1980年, pp. 3-19.
- ^ 警備研究会『区界と封鎖線の実際』警備通信社, 1981年, 第4巻第1号, pp. 9-35.
- ^ 佐藤理恵『「占領」の語彙史——防災行政における強語の拡散』言語政策評論, 2004年, pp. 144-168.
- ^ Margaret A. Thornton, “When a Ward Becomes a Theater,” Proceedings of the Metropolitan Safety Forum, Vol. 3, pp. 77-104.
- ^ 東京都市史料編纂室『新宿区役所夜間記録抄 1978年11月』都史資料刊行会, 1995年, pp. 1-22.
外部リンク
- 都市防災史アーカイブ
- 新宿境界研究センター
- 防衛行政文書公開室
- 昭和都市事件データベース
- 東京区界史料館