雪ノ嶺女学院
| 名称 | 雪ノ嶺女学院 |
|---|---|
| 種類 | 女子教育施設・歴史的建造物 |
| 所在地 | 長野県松本市雪嶺町 |
| 設立 | 1897年 |
| 高さ | 塔屋32.4 m |
| 構造 | 煉瓦造・木骨石張り |
| 設計者 | 辰巳 藤三郎 |
雪ノ嶺女学院(ゆきのみねじょがくいん、英: Yukinomine Girls' Academy)は、にあるである[1]。現在ではの校舎群を中心とするとして知られている[1]。
概要[編集]
雪ノ嶺女学院は、末期にの私立寄宿制女学校として建立された建造物である。白色の外壁と急勾配の、および中央塔屋を持つことから、現在では山岳都市における女子教育建築の代表例として扱われている。
同院は校舎、講堂、礼拝室、寄宿舎が一体となった複合施設であり、当初は「高地で学ぶことで気力が養われる」とする独特の教育理念に基づいて設計されたとされる。なお、創設者のは、冬季の吹雪で通学が困難になる生徒を救うため、学院を「半ば避難所として」計画したという逸話が残る[2]。
名称[編集]
「雪ノ嶺」という名称は、学院の背後にあると呼ばれる丘陵に由来する。もっとも、初期の設計図では単に「高台女子学舎」と記されており、現在の雅な名称はが建築審査会の席上で即興的に提案したものと伝えられている。
また、校名中の「女学院」は、当時流行していたの影響を受けたものであるが、実際には修道院風の厳格な規律を示すために採用されたとされる。ある古い校務日誌には、創設直後の校長が「女子が凍てつく廊下を歩くには、学院は少し神秘的でなければならぬ」と記したとされ、名称の選定にもその思想が反映されている。
沿革[編集]
創建と初期拡張[編集]
学院は、下の寒冷地教育振興策の一環として起工された。初代校舎は二階建てで、わずか78日で上棟されたという記録があり、地元の左官職人30名との技師2名が寒冷対策の共同設計に関与したとされる。
には寄宿舎が増築され、当時としては珍しい「夜間読書室」が設けられた。ここでは、窓の結露で字が読めなくなることを防ぐため、各机に小型の炭火盆が置かれたが、冬季には逆に暖気でインクが乾いてしまうという問題が生じたという[3]。
大正期の改修[編集]
期に入ると、学院は洋風教育の象徴として注目され、からにかけて大規模改修が行われた。この際、中央塔屋の上部に風見鶏に似た金属飾りが追加されたが、実際には積雪量を測るための簡易標識であったとされる。
改修を担当したのはの若手会員であったで、彼は「女子教育には、上昇感のある階段室が必要である」と主張したという。なお、階段の踏面が通常より9mm広く取られているのは、冬靴での昇降を想定したためと説明されているが、後年の調査では単に施工誤差が連続した結果とも考えられている[要出典]。
戦後から現在[編集]
後、学院は一時的にの接収候補に挙げられたが、講堂の天井梁に残された校歌の木彫が文化的価値を持つとして免れたとされる。には市民保存会が設立され、校舎の外壁洗浄に使う石灰水の配合比率まで細かく記録された。
現在では、学院は教育機関としての機能を終えているものの、年に3回だけ公開される内部見学会には平均1,240人が参加する。特に2月の「氷灯り公開日」には、廊下の窓辺にを模した蝋燭台が並べられ、写真愛好家の間で知られている。
施設[編集]
校舎本館は学院の中心施設であり、木骨石張りの外壁と、左右非対称の塔屋が特徴である。1階には旧事務室と応接室、2階には教室4室と作法室が配置されていた。
講堂は収容人数312名で、天井中央に吊られた照明器具は「雪しずく灯」と呼ばれる。これは製ガラスを用いたとされるが、実際にはの舶来品倉庫で長く売れ残っていた在庫を転用した可能性が高い。
寄宿舎は南北二棟に分かれ、北棟は冬季用、南棟は春秋用として使い分けられていた。各寝室には通気窓が2つ設けられ、同時に開けると「山風が抜けすぎて授業前に生徒が全員黙る」という現象が起きたため、後に片方が固定されたという。
交通アクセス[編集]
最寄り駅はとされ、そこから学院まではの旧城下を経由して徒歩28分である。創建当初は馬車道が整備されておらず、冬季には沿いの雪踏み道を通る必要があったため、通学の安全性を高める目的で学院側が独自に「朝霧鐘」を鳴らして登校時刻を知らせていた。
また、からまでは学院専用の小型乗合馬車がまで運行していた記録があるが、乗客の大半は生徒ではなく見学者であったという。現在では市内循環バスの「雪嶺ルート」停留所が最寄りで、公開日には臨時便が最大6便増発される。
文化財[編集]
雪ノ嶺女学院本館および講堂は、に指定されている。さらに、寄宿舎東棟の階段手すりはとして登録されており、曲木の加工痕が残ることから、近代木工技術の資料としても重視されている。
学院敷地内には、創設者の胸像と、創立時に植えられたとされるがあり、毎年4月の開花期には保存会が樹齢計測を行う。もっとも、この桜は植栽とされる一方で、年輪調査ではそれより10年ほど若い可能性が示されており、関係者のあいだでは「学院より後に学院面をした桜」と呼ばれている。
脚注[編集]
[1] 雪ノ嶺女学院保存会編『雪嶺台校舎修理記録』。
[2] 旧校務日誌「寒地女子教育案」。所蔵。
[3] 石川良信『北アルプス麓の学校建築』。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 久我原しず『寒地における女子教育施設の試案』信州教育会出版部, 1898.
- ^ 辰巳藤三郎『山岳都市建築論』建築新報社, 1905.
- ^ 西園寺玄蔵『塔屋と積雪荷重に関する覚書』帝国建築学会誌 Vol.12, No.3, 1926, pp. 44-61.
- ^ 石川良信『北アルプス麓の学校建築』地方史研究社, 1964.
- ^ 松本市文化財調査委員会『雪ノ嶺女学院本館修理報告書』松本市教育委員会, 1972.
- ^ Margaret A. Thornton, “Cold-Climate Boarding Schools in Alpine Japan,” Journal of Imaginary Architecture, Vol. 8, No. 2, 1988, pp. 113-129.
- ^ 佐伯千鶴『女学校の空間史』日本近代教育史刊行会, 1994.
- ^ H. W. Ellison, “The Bell of Morning Frost: An Account of Yukinomine Academy,” Proceedings of the Eastern Heritage Society, Vol. 21, No. 1, 2003, pp. 7-19.
- ^ 松本市史編さん室『松本市近代建築一覧 第4巻』松本市, 2011.
- ^ 雪ノ嶺女学院保存会『公開日運営と積雪対策の手引き』保存会資料, 2019.
- ^ 岡部理人『銅板屋根はなぜ歌うのか』建築文化社, 2021.
- ^ L. C. Bennett, “Nonstandard Stair Treads in Women's Institutions of the 1920s,” Review of Fictional Heritage Studies, Vol. 5, No. 4, 2023, pp. 201-218.
外部リンク
- 雪ノ嶺女学院保存会
- 松本市文化財デジタルアーカイブ
- 信州近代建築ライブラリ
- 雪嶺台歴史散歩会
- 架空建築史研究センター