青島 公平
| 氏名 | 青島 公平 |
|---|---|
| ふりがな | あおしま こうへい |
| 生年月日 | 1897年4月12日 |
| 出生地 | 東京府下谷区 |
| 没年月日 | 1964年9月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 都市倫理学者、調停記録家、講演家 |
| 活動期間 | 1921年 - 1964年 |
| 主な業績 | 公平会議の制度化、調停票算法の提唱、記録式合意文の整備 |
| 受賞歴 | 帝都文化勲章、東京市名誉調停賞 |
青島 公平(あおしま こうへい、 - )は、の都市倫理学者、ならびにの調停記録家である。戦前・戦後を通じて「公平会議」の設計者として広く知られる[1]。
概要[編集]
青島 公平は、末期から中期にかけて活動したの都市倫理学者である。とくに、内の町会や商店会における対立を、会議記録と票数の均衡によって処理する独自の手法を提唱したことで知られる[1]。
彼の名は、同時代の系統の会議資料や、戦後の職員研修録にしばしば現れる。一方で、青島自身が作成したとされる『公平会議標準録』の初版は所在が不明であり、門弟の写本によってのみ内容が伝わっているとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
青島は、下谷区の紙問屋の次男として生まれる。幼少期から帳簿の余白に近隣住民の言い争いを書き写す癖があり、家業ではなく「記録の整え方」に関心を示したとされる。1909年にはの私塾で漢学と算術を同時に学び、師の佐久間義矩から「字面より配列を見よ」と諭されたことが、その後の方法論の原点になったという[3]。
青年期[編集]
、の聴講生としてとを学び、同年にの港湾労働争議の記録補助を務めた。ここで青島は、発言順が合意形成に与える影響を観察し、のちの調停票算法を着想したとされる。1920年にはの貸会議室で初の公開講演『争いは内容より座席で決まる』を行い、聴衆は37名であったが、配席表の工夫により翌日の再演では91名に増えたという[4]。
活動期[編集]
の後、青島はの復興委員会に招かれ、罹災地の町内会再編に関与した。特にとの境界線をめぐる調停で、両地区の代表にそれぞれ同数の茶菓子を配り、先に冷めた方から発言権を与える方式を採ったとされる。この手法は非科学的であるとの批判もあったが、実際には会議時間を平均で42分短縮したという記録が残る[5]。
にはを主宰し、月例会「均衡夜話」をの旅館で開催した。ここで提出された『記録式合意文草案』は、議事録に「反対」「留保」「空腹」の三段階を必ず残すことを定めたもので、のちにの一部課に模倣された。なお、青島はこの時期にの前身施設でラジオ講演を5回行ったが、いずれも冒頭で2分以上沈黙するため、放送事故と誤認されたことがある[6]。
晩年と死去[編集]
は、の小さな事務所で「会議疲労」の相談を受けるようになり、地方自治体向けの簡易調停票を改良した。1958年にはからまでの市町村職員に向けて巡回講義を行い、移動距離は通算で1万8700キロメートルに達したとされる。
、青島はで心臓病のため死去した。享年67。死去の直前まで、机上には未整理の「逆順会議録」が8冊残されていたと伝えられており、その一部は弟子の手でに寄贈されたが、背表紙の番号がすべて奇数であったため、整理担当者を悩ませたという。
人物[編集]
青島は、きわめて寡黙であったが、沈黙そのものを議論の一部とみなす傾向があった。会合では必ず開始3分前に着席し、机上の鉛筆を右から左へ3本ずつ並べ替える癖があったとされる。
逸話として有名なのは、の商店街連合との交渉で、対立する両派の名簿を逆さに読み上げ、最後に自分の名を入れ替えたことで会場の緊張を解いた話である。また、甘味に目がなく、の喫茶店で「砂糖の量が多いほど意見が穏当になる」と主張したが、これは本人の経験則に過ぎず、要出典とされることがある。
業績・作品[編集]
青島の業績は、単なる調停技術にとどまらず、都市生活における合意形成の形式化にあったとされる。代表的著作『公平会議標準録』では、会議を「開始」「揺らぎ」「再配分」「沈黙」「採択」の5局面に分け、各局面における椅子の向きまで指定している[7]。
ほかに『調停票算法入門』『町会のための三色札』『沈黙の議事録学』などがあり、とくに『三色札』はの自治会からの婦人会まで広く流通した。1938年には、青島式の合意判定を応用した「均衡卓上計算器」を試作したが、重さが14キログラムもあり、机が先に折れるとして普及しなかった。
また、彼が考案したとされる「青島式最終反対票」は、全会一致を演出しながら異議を一票だけ残す技法で、戦後の学校評議会や労働組合の一部で真似された。これにより、実際の対立が消えたわけではないが、書類上はきわめて平穏な組織に見えるようになったという。
後世の評価[編集]
青島の評価は二分されている。支持者は、彼をにおける会議文化の「見えない設計者」と呼び、都市行政の硬直化を救った人物として高く評価する。一方で、批判者は、議論の実質より形式を重んじすぎたため、かえって対立を文書の中に封じ込めただけであると指摘している[8]。
以降、やの一部ゼミで青島研究が盛んになり、1972年にはで「青島公平記念シンポジウム」が開催された。ただし、講演者の半数が青島本人の著作を読まずに引用したため、討論は大いに混乱したと記録されている。
現在では、自治体の会議運営研修において「青島メモ」と呼ばれる要約術が使われることがある。また、の一部区議会では、採決前に席順を再確認する慣行が残っており、青島の影響とみなす向きがある。
系譜・家族[編集]
青島の父は紙問屋の青島嘉兵衛、母は青島まさであったとされる。兄の青島信吉はで帳簿商を営み、妹の青島たみはの女学校で記録係を務めたという。
配偶者はに結婚した青島とし子で、の染物業の家の出身である。子には長男の青島一平、長女の青島和子がいたが、一平は父の仕事を嫌いへ進んだ一方、和子は父の書式を継ぎ、戦後に『議事録における句読点の倫理』を私家版で発行した。
なお、青島家には代々「会議中に茶碗を鳴らしてはならない」という家訓があったとされるが、これは青島本人が後年に創作した可能性があるとも指摘されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 青島和子『議事録における句読点の倫理』私家版, 1971年.
- ^ 佐久間義矩『都市会議の秩序と余白』下谷出版, 1934年, pp. 11-48.
- ^ 山岸典夫「青島公平と調停票算法」『都市倫理学雑誌』Vol. 12, No. 3, 1959年, pp. 201-219.
- ^ Margaret H. Weller, "The Aoshima Method and Urban Consensus" in Journal of East Asian Civic Studies, Vol. 4, Issue 2, 1968, pp. 77-103.
- ^ 青島公平『公平会議標準録』都市調整協会, 1932年.
- ^ 鈴木栄一『戦後自治体における青島式議事術』日本行政研究会, 1981年, pp. 55-92.
- ^ Hiroshi Tanabe, "On the Reverse Order Minutes" in Proceedings of the Tokyo Society of Urban Morality, Vol. 7, 1940, pp. 5-26.
- ^ 小野寺房子『沈黙の議事録学』麹町書房, 1948年.
- ^ Theodore A. Kline, "Consensus by Seating: A Forgotten Japanese Theory" in Civic Archives Review, Vol. 19, No. 1, 1975, pp. 144-170.
- ^ 高橋順一『青島公平小伝とその周辺』国立記録社, 1992年, pp. 9-31.
外部リンク
- 都市倫理研究会アーカイブ
- 東京市会議資料デジタル庫
- 青島公平記念編集室
- 下谷近代人物事典
- 議事録文化保存ネットワーク