靴の下克上
| 分野 | 服飾史・社会言語学 |
|---|---|
| 中心概念 | 靴(特に革質・底厚・縫製)による序列の転覆 |
| 成立時期 | 19世紀末の欧州の港町から波及したとする説 |
| 主な舞台 | 、、およびロンドンの労働市場 |
| よく用いられる手段 | 底金具の改造、踵の補強、靴擦れ対策の制度化 |
| 関連用語 | つま先規格闘争、底厚レジスター |
| 研究の方法 | 回覧記録・関税簿・靴型特許の突合 |
(くつのげっこく、英: Boots’ Upheaval)は、見た目の階層(身分・立場)を靴の仕様で塗り替えるとされる社会現象である。特に近代以降、が「技術」「贈与」「威信」の媒介として機能したことに由来するとされる[1]。
概要[編集]
とは、従来は上位集団の「象徴」とされていた靴の条件が、別の集団(職人・運搬人・下級官吏など)によって技術的に再現され、その結果、社会的な評価が靴から靴以外へ波及する現象として語られることがある[2]。
この語は比喩としても流通したが、語りの核は「階層が硬貨のように流通する」点にあるとされる。すなわち、同じ通りで同じ距離を歩く者に、同じ耐久性が配られることで、他者の威信の土台が靴の側から揺さぶられる、という筋書きである[3]。
靴が制度に組み込まれると、下克上は偶発ではなくなる。たとえば「底厚が○ミリ以上なら出入り許可」などの規則が導入されることで、靴は個人の嗜好ではなく、行政が配分する技能証明に近づくとされる[4]。
語の成立と理論背景[編集]
語の成立については諸説ある。最も早い呼称は、19世紀後半の港湾労働者の間で使われた「足元の株式相場」だとされ、のちに通信員が横浜の新聞社へ送った短文が「靴の下克上」という見出しに改稿されたとする伝承がある[5]。
理論の中心には、と呼ばれる概念が置かれる。これは「革は同じでも、底の反発(跳ね返り)と摩耗の速度が、働きぶりの推定値になる」という考え方であり、靴を履く者の移動能力が信用スコアに見立てられた、と解釈される[6]。
また、靴は言語の一種として扱われた。具体的には、靴擦れの治療痕(絆創の位置や回数)までが観察対象となり、上位者の“品位”が身体の傷のパターンに写されるという指摘がなされたとされる[7]。なお、この点は「要出典」とされる場合があるが、後述の記録の断片と整合するという主張もある。
歴史[編集]
港町での勃興:横浜「第三靴台帳」事件[編集]
では、明治末期に「港務監督署」が輸入靴の検査記録を一元化した。そこで使われたのが、靴型の番号と底厚の測定値を対応付けるであるとされる[8]。この台帳は、ある時点で「底厚の上限」ではなく「下限」が厳格化されたことで、従来は余裕のある者が選んでいた靴を、労働者が同等以上に組み替える余地を生んだと説明されている。
伝承では、1907年の冬、台帳照合を担当した若手事務官のが、計測機の目盛を0.5ミリだけずらしてしまったことが発端になったとされる[9]。すると、改造靴が「規格内」として通り、履き替えが連鎖した。港の倉庫街で、靴職人が相次いで底板を“硬め”にし、運搬人がその靴で長距離をこなした結果、同じ作業量でも休息時間が短い者が出現したと語られ、評価が靴に付随して上がっていった。
この件は、公式記録では「測定機の校正ミス」とされる一方、現場では「靴の下克上が制度を見直させた」として語り継がれたとされる。なお、当時の摩耗データとして「歩行3,200歩ごとに踵が0.8ミリ削れる」という数値が引用されるが、出典は議論の余地がある[10]。
神戸での制度化:底金具通行券と“つま先規格闘争”[編集]
次に注目されるのがでの制度化である。港湾向けの通行証が、靴の金具の有無(踵の底金具)と結びつけられた時期があったとされ、これがと呼ばれる仕組みの原型だと推定されている[11]。
1909年、通行券発行の担当部署として内に「歩行装備適格課(仮称)」が設けられ、底金具は“脱落しないこと”が条件となったとされる。職人たちは、金具を交換するだけでなく、革紐の締結角を規格化し、歩行者がそれぞれ同じ速度で立ち止まれるようにしたという。ここから「つま先規格闘争」が起きたとされ、つま先の反り角が労働評価の違いを生むとして、対立と協約が繰り返された[12]。
また、当時の記録では、通行券の発行枚数が「月平均42,610枚」と書かれているとされる[13]。この数字がどの帳簿に由来するかは定かでないが、少なくとも現場の会話において、靴の仕様が“月の収入”の予測材料になったことは共有されていたと解釈されている。
ロンドン経由の再輸入:労働市場と“跳ね返り信用”[編集]
大陸の事例は、やがて海路を通じてロンドンへ“再輸入”されたとされる。港で働く請負業者が、輸入靴の仕様をもとに労働者の配置を最適化しようとしたことが背景にあるとされる[14]。
ロンドンでは、(通称「LDLA」)が、靴の履歴を“跳ね返り信用”として扱う試みを行ったとされる。靴底がよく反発する者ほど、再開作業で遅れにくいという統計を根拠に、靴の底材が割り当ての優先順位を動かしたと説明される[15]。
ここで奇妙なのが、制度が“靴職人の名刺”まで取り込んだ点である。監査局は、職人の署名が入った修理札を靴に縫い付けることを求め、結果として「靴の下克上」は個々の技術ではなく、修理ネットワークの力へ移ったとされる。のちに日本へ戻る際、このネットワークの思想が商会へ影響し、下位層が“修理の路地”を獲得することで上位の取引先へ滑り込む現象が増えたと記録される[16]。
社会への影響[編集]
靴の下克上がもたらしたとされる影響は、単なる服装の流行以上に、移動と信用の結びつきに及んだと考えられている。たとえば、従来は口頭の評価に依存していた現場の人員配置が、靴の規格に基づく“客観的指標”へ寄ったと説明される[17]。
その結果、靴は「歩行具」から「資格具」へ近づいたとされ、靴職人の商売は階層の固定化を破る装置になった。上位の家は高価な見栄のために同じ靴を磨き続け、下位の家はすり減りを前提に改造し、修理を回して性能を落とさない—この差が、町の“情報”として広がったとされる[18]。
ただし、この現象は格差の解消を保証しないとも指摘される。靴の規格が制度化されるほど、規格外の者は排除され、下克上は技術を持つ者に集中するとされる。ここから、社会の摩耗は“靴に転嫁”されるのだ、という皮肉な言い回しが広がったと報告されている[19]。
批判と論争[編集]
批判としては、「靴の下克上」という語があまりに“物語的”であり、実測よりも伝聞が勝っている点が挙げられる。実際、靴底の摩耗を結びつける研究では、観測条件(雨天、路面の砂の粒径、踏み込みの癖)が揃えられていないとされる[20]。
一方で擁護側は、官庁の台帳や修理札の記録があるため、伝聞も根拠に立脚していると主張する。特にの抜粋が残るという論文があり、その筆跡が明治期の会計監査の書式に一致するとされる[21]。
また、「下克上」という言葉の倫理性も議論された。靴の差を“下位の劣等”として読むのではなく、靴を“工学的改善”として読むべきだという意見が出たとされ、1890年代からの労働新聞では、装具を理由に人を評価することへの抗議が繰り返されたとされる[22]。ただし、抗議が本当にこの靴規格の運用に対するものだったかは、判別が難しいとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『靴台帳と港湾信用の相関』港務監督署出版部, 1911.
- ^ E. J. Harrington『The Ledger of Soles: Measurement Practices in Dock Labour』Oxford Maritime Press, 1914.
- ^ 佐伯成三『底厚レジスターの社会言語学的考察』神戸大学出版会, 1922.
- ^ Dr. Margaret A. Thornton『Rebound Credit and Work Allocation in Urban Ports』Journal of Practical Sociology, Vol. 7, No. 2, pp. 41-73, 1930.
- ^ 横山玲太『つま先規格闘争と規格の政治』東京文化綜合研究所, 1936.
- ^ S. Müller『Calipers, Customs, and Shoes: The 0.5mm Problem』Vol. 3, Issue 4, pp. 211-258, 1939.
- ^ 佐藤直義『修理札の流通——階層を縫い直す制度』【文部省】調査報告別冊, 第12巻第1号, pp. 9-62, 1941.
- ^ E. J. Harrington『Boots’ Upheaval: A Re-Import Theory』London Dock Papers, Vol. 10, pp. 1-30, 1946.
- ^ 山田啓介『横浜第三靴台帳の復元(第1次稿)』横浜史料館紀要, 第5巻第3号, pp. 88-139, 1952.
- ^ 小泉緑『歩行具の行政化:靴の下克上と評価の転写』架空出版社『みなと史叢書』, 1987.
外部リンク
- 横浜靴台帳アーカイブ
- 港湾装備規格資料室
- LDLA文書データベース
- 跳ね返り信用シミュレーター
- つま先規格闘争 年表倉庫