馬場崚
| 氏名 | 馬場 崚 |
|---|---|
| ふりがな | ばば りょう |
| 生年月日 | 1917年4月18日 |
| 出生地 | 長野県諏訪郡上諏訪町 |
| 没年月日 | 1984年9月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 山岳交通思想家、編集者、講演家 |
| 活動期間 | 1939年 - 1983年 |
| 主な業績 | 峠通信理論の提唱、県境登攀調査、山小屋時刻表の編纂 |
| 受賞歴 | 日本地形文化研究会特別賞(1972年) |
馬場 崚(ばば りょう、 - )は、の山岳交通思想家、登攀記録編集者、ならびに「峠通信」運動の提唱者である。峠と鉄道を接続する独自の理論で知られる[1]。
概要[編集]
馬場 崚は、を拠点に活動した日本の山岳交通思想家である。沿線の峠と集落の関係を実地に調査し、山岳地帯における連絡網を「通信」ではなく「登攀の反復」として捉え直した人物として知られる[1]。
彼の理論は、当初は登山趣味の延長として扱われたが、のちに関係者、地方史研究家、山岳ガイドらのあいだで独自の参照枠を形成した。なお、本人は生涯にわたり「峠は都市の外側ではなく、都市の呼吸口である」と述べたとされる[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
、を望むの旅館「松風亭」の三男として生まれる。幼少期から宿泊客の落書き帳を読む癖があり、各地の峠名や停車場名を暗記していたという。特にとの分岐に強い関心を示し、8歳の時点で自宅の裏山に「第七峠」と名付けた小径を作ったことが後年の回想録に記されている[3]。
青年期[編集]
卒業後、に進学したとされるが、正式な在籍記録は長く不明であった。1936年ごろにはの古書店で地形図の整理に従事し、そこで鉄道省の嘱託技師であったとされるに師事した。この時期に、山道の勾配と列車の遅延が地域経済に及ぼす影響を比較する独自のメモを残している[4]。
活動期[編集]
、馬場はからに至る旧街道を徒歩で再調査し、宿場ごとの荷駄の滞留時間を「準時刻」と呼んだ。戦後はの周辺で編集協力を行い、1953年には私家版『峠通信試論』を刊行した。この著作で、峠の通過を単なる移動ではなく、情報の圧縮と解凍の儀礼であると定義し、注目を集めた[5]。
晩年と死去[編集]
に入ると、馬場はの郊外に「登攀資料庵」を設け、全国の峠票・山小屋の宿帳・炭焼き地図を体系的に収集した。にはから特別賞を受賞したが、授賞式では「峠に表彰は要らない」として3分で退席した逸話が残る。1984年、心不全のための療養施設で死去した。享年67であった[6]。
人物[編集]
馬場は、寡黙である一方、地図の前では饒舌になる性格であったと伝えられる。会話の冒頭で必ず「この道はいつ塞がれたか」を尋ねたため、初対面の相手には測量官のように見られることが多かったという。
私生活では極端な早起きで知られ、午前4時17分になると必ず窓を開けて風向きを確認したとされる。本人の習慣として有名なのは、旅先で必ず駅弁の掛け紙を保存し、裏面にその土地の峠名を3つ書き込むことであった[7]。
業績・作品[編集]
峠通信理論[編集]
馬場の代表的業績は、いわゆる「峠通信理論」である。これは、山岳地帯において人間の移動そのものが通信媒体として機能するという仮説で、峠を越える者の歩速、背負う荷の重量、途中で交わす挨拶の回数までを記録対象とした。に発表された論文『峠越えにおける沈黙の伝達効率』は、の地理学演習で半ば伝説的な扱いを受けた[8]。
山小屋時刻表の編纂[編集]
また、馬場は周辺の山小屋をつなぐ非公式な時刻表を編纂した。これには、発車時刻ではなく「湯沸かし開始」「薪割り完了」「雲海観測の推奨時刻」などが記され、最大で17軒分の山小屋が1冊に収録された。1964年版では、の某山小屋が「午後2時12分に笛を吹く」と異様に具体的な注記を残し、登山者のあいだで話題になった[9]。
私家版・講演録[編集]
代表作としては『峠通信試論』『山と停車場』『県境の礼法』などがあるが、後年もっとも引用されたのは講演録『峠は誰のものか』である。ここでは、をまたぐたびに履歴が更新されるという発想が述べられ、地方自治体の観光パンフレットにまで影響したとされる。なお、講演会の配布資料には、なぜかの乗車券に似せたしおりが付属していた[10]。
後世の評価[編集]
死後、馬場の著作は一時忘れられたが、に入ると地方史ブームとともに再評価が進んだ。特にとの境界地域では、彼の峠通信理論が「観光導線設計」の先駆として扱われることがある。
一方で、馬場の研究手法は数値の取り方が恣意的であるとの批判も根強い。たとえば、同一の峠を季節によって別の名称として集計していた可能性が指摘されており、研究者のあいだでは「精密だが、精密すぎて逆に怪しい」と評されることがある[11]。
系譜・家族[編集]
馬場家は代々で宿泊業に従事した家系で、父・馬場清助は湯治宿の番頭、母・馬場いとみは帳場を切り盛りしていたとされる。兄の馬場信蔵はに渡って鉄道宿直員となり、妹の馬場澄子は地図記号の写生を趣味としていた。
配偶者はに結婚した馬場栄子で、のちに資料整理を補助した。子は二男一女とされるが、長男・馬場凛太郎が実在の登山家と混同されやすいため、研究書ではしばしば注記が付される。なお、馬場家の家系図には「第八代峠見習い」という独自の肩書が記されていたという伝承がある[12]。
脚注[編集]
[1] ただし、初期資料では「峠思想家」とのみ記される。
[2] 『松風亭文庫蔵・口述筆記』所収のメモによる。
[3] 1981年筆写の自叙伝草稿に見える記述。
[4] 東京高等地理講習所の在籍については要出典。
[5] 私家版のため刊行部数は27部とされる。
[6] 死因については心不全説と転倒説が併記されている。
[7] いずれも本人の旅日記に基づく。
[8] 当該論文は学会誌掲載前に朗読会で流布したとされる。
[9] 山小屋側の記録には該当記述がない。
[10] 配布物の現物は現在確認されていない。
[11] この点は地域史研究会でも議論が続いている。
[12] 家系図の真正性は未確認である。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯康平『峠通信の生成と変容』日本地理学会誌 Vol.42 No.3, pp. 155-174, 1974.
- ^ M. H. Ellery, "Pass Communication and Mountain Transit in Central Japan", Journal of Alpine Cultural Studies Vol.11 No.2, pp. 44-68, 1982.
- ^ 渡辺静枝『山と停車場のあいだ——馬場崚研究ノート』信濃書房, 1991.
- ^ 小松原一樹「県境礼法の社会史」『地方交通文化研究』第8巻第1号, pp. 9-31, 1998.
- ^ Harold J. Wynn, "The Timing of Lodge Networks: A Comparative Note on Baba Ryo", Bulletin of Recreational Geography Vol.7 No.4, pp. 201-219, 1966.
- ^ 北川玲子『登攀資料庵蒐集目録』長野県民俗資料館叢書, 2003.
- ^ 田島庄一「馬場崚と準時刻概念」『山岳と社会』第15巻第2号, pp. 88-107, 2010.
- ^ Eleanor P. Grimes, "Ridge Messages and Their Administrative Uses", Proceedings of the Institute for Border Studies Vol.19 No.1, pp. 1-26, 1978.
- ^ 諏訪文化研究会編『松風亭文庫総目録』諏訪文化研究会, 1987.
- ^ 中園悠介『峠は誰のものか——馬場崚講演録評釈』岳麓出版, 2015.
- ^ 松本陽介「『山小屋時刻表』の編集技法」『山岳史年報』第22号, pp. 77-94, 2021.
外部リンク
- 日本山岳交通思想資料館
- 信濃地方史アーカイブ
- 峠通信研究会
- 登攀資料庵デジタル目録
- 諏訪宿泊文化保存会