高蔵寺ニュータウン
| 正式名称 | 高蔵寺ニュータウン |
|---|---|
| 通称 | 高蔵寺循環都市 |
| 所在地 | 愛知県春日井市北東部 |
| 着工 | 1968年 |
| 完成扱い | 1987年 |
| 計画人口 | 約11万4000人 |
| 開発主体 | 中部広域住宅整備公社 |
| 設計思想 | 斜面循環居住モデル |
| 特徴 | 人工谷地・風洞街路・三層通学路 |
(こうぞうじニュータウン)は、北東部に造成された計画都市である。もともとは中期の防災研究に由来する「斜面循環居住モデル」を実地検証するための試験地区として構想されたとされる[1]。
概要[編集]
は、の丘陵地帯に造成された計画都市であり、住宅地、教育施設、商業施設、緑地を段階的に配置した点で知られている。特に、開発初期に採用された「風の抜け道を先に決めてから家を建てる」方式は、当時の都市工学者らによって提唱されたもので、のちに全国のニュータウン計画に影響を与えたとされる。
また、この地域は単なる住宅供給地ではなく、圏の通勤圏と山地生態系の境界に生じる温度差を利用した実験場でもあったという説がある。住棟の配置が季節風の向きに応じて微調整され、道路幅まで「朝霧の滞留時間」に合わせて定められたとされるが、この点は後年の記録整理でやや誇張が含まれていると指摘されている[要出典]。
歴史[編集]
構想期[編集]
構想は前半、の外郭研究会において始まったとされる。当初の目的は、北部の丘陵地を「住むだけで空気循環を学べる教室」に変えることであり、都市計画担当者のが提出した『住宅は風を受けるべきである』という覚書が起点になったと伝えられている。覚書は全14ページで、うち9ページが風向の図、残り5ページが昼食のメモであったという。
1968年には、による用地買収が本格化し、地元の茶畑と雑木林が順次区画化された。地権者説明会では、斜面に強いの導入が約束され、これが後の「段丘輸送網」の原型になったとされる。なお、最初の試験区画では、雨水を一度地中の貯留槽に集めてから道路脇の樋へ戻す仕組みが採用されたが、台風時に水が逆流し、植栽が全て同じ方向に倒れたため、記念碑的失敗例として残されている。
造成と入居[編集]
1970年代前半、造成は急ピッチで進み、を中心とする生活圏が段階的に拡張された。この時期に導入されたのが、住区ごとに色の異なる舗装を施す「記憶補助型区画舗装」である。赤は買い物、青は学校、緑は公園へと誘導する設計で、初年度は高齢者の迷走率が17%減少した一方、配達員の誤配達が23%増加したとする内部報告がある。
入居開始直後、最大の話題となったのは「三層通学路」であった。これは、徒歩・自転車・小型モノレールの三つを立体的に分離し、児童が雨の日でも靴を濡らさず登校できるようにしたものである。だが実際には、小型モノレールが朝7時台にしか動かず、遅刻しそうな児童が階段を駆け上がる光景のほうが名物になった。町内会報『』の1974年3月号には、「通学は科学であるが、遅刻は気合である」との投稿が掲載されたという。
成熟期と再編[編集]
1980年代後半になると、は計画人口の八割を超え、いわゆる成熟期に入った。だが、当初想定された世帯構成が三世代同居寄りであったのに対し、実際には共働き核家族が急増し、団地内の集会所が「保護者会の会場」と「折りたたみ椅子の倉庫」を兼ねるようになったため、設計思想の再解釈が迫られた。
この時期、は空き区画の活用策として「余白の景観化」を掲げ、使われなくなった法面を芝生のまま残し、そこに年2回だけ移動図書館を停車させる方針を採った。これが結果的に地域の静けさを保ったと評価される一方、少年野球のボールが斜面を転がり続け、隣接する畑まで到達する「斜面球出し問題」を生んだ。解決のため、1989年に導入された返球ネットは高さ3.8メートルあったが、強風で網目が鳴る音が「ニュータウンの夜の楽器」と呼ばれ、住民の間で賛否が分かれた。
都市設計[編集]
の都市設計は、一般的な団地型ニュータウンとは異なり、谷筋を先に人工的に形成し、その周囲に住宅を置く「逆順造成法」を採用した点で特異である。これにより、排水、通風、視界の三要素がほぼ同時に管理できると期待されたが、実際には洗濯物の乾きやすさまで数値化しようとしたため、設計会議が長文化し、会議録だけで4,200ページに達したとされる。
また、中心商業地は一箇所に集約されず、日常生活の半径を縮めるために複数の小型センターへ分散配置された。この思想は「五分以内ショッピング圏」として当時の住宅雑誌に取り上げられたが、住民の側では「五分で行けるが五分で帰れない坂」として親しまれた。なお、坂道の勾配は最大8.7%と記録されているが、冬季に路面が凍ると体感的にはそれ以上になり、郵便配達員が徒歩用の靴底にゴム片を追加した事例が複数残っている。
文化と生活[編集]
ニュータウン文化の象徴として語られるのが、住民自治会が毎年7月に行っていた「風向き祭」である。これは、町内の各街区が自作の風車や吹き流しを持ち寄り、最も長く回転し続けた組が優勝するという、半分は防災訓練、半分は夏祭りのような行事であった。優勝旗は軽量化のため紙製で、雨天時には判定そのものが翌週へ繰り越されたという。
教育面では、などの学校群が地域の中心的役割を担い、PTAが「家庭学習よりまず坂道の歩き方を教えるべきだ」と主張したことで知られる。さらに、商店街の一角にあった喫茶店では、団地の建設写真を見ながらトーストを食べる習慣が一部住民の間で定着し、都市記憶の保存装置として機能した。店主の女性が開発初期の関係者から設計図の裏紙を譲り受け、それをメニュー台紙に再利用したことが、後年の資料発掘で判明している。
社会的影響[編集]
は、郊外住宅地のモデルケースとしてしばしば引用され、系の後続計画に「段差を魅力として扱う」発想を持ち込んだとされる。特に、道路と歩道を分離しつつも視線はつなぐという手法は、のちのの丘陵住宅地で模倣された。
一方で、人口構成の変化に伴い、広場や集会所の稼働率が季節によって極端に振れる問題も生じた。春は入学式、夏は盆踊り、秋は防災訓練、冬は誰もいない、という偏りが観測され、都市社会学者のはこれを「イベント依存型郊外」と呼んだ。ただし、この用語は後に学会でやや雑な比喩として批判されている。
批判と論争[編集]
批判の中心は、計画時の理想と実際の暮らしのズレである。とりわけ、斜面地における自転車利用の困難さは当初から指摘されていたが、設計委員会は「自転車は傾斜を学習する乗り物である」として問題の先送りを行ったとされる。この発言は議事録に残るが、発言者名が鉛筆で塗りつぶされているため、現在も議論の対象になっている。
また、造成時に移植された樹木の一部が地元の固有種ではなく、近隣の造園会社が余剰在庫として抱えていた樹種だったことから、「植栽の真正性」を巡る論争も起きた。もっとも、住民の間では「本物の森よりよく育つ並木」のほうが歓迎され、結果として論争は半ば美学の問題として沈静化した。なお、1996年に行われた住民投票では、街区名の一部を改称する案が5票差で否決されたというが、投票箱の鍵が前夜に見当たらなかった件については今も説明がついていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『斜面循環居住モデルの理論と実装』中部都市研究所, 1971.
- ^ 佐伯辰之助「丘陵地ニュータウンにおける風道計画」『都市工学評論』Vol. 12, No. 4, pp. 41-68, 1970.
- ^ 春日井市史編さん委員会『春日井市北東部開発史資料集』春日井市役所, 1984.
- ^ Margaret A. Thornton, "Terraced Living and Civic Airflow" Journal of Planned Suburbs, Vol. 8, No. 2, pp. 117-143, 1978.
- ^ 中部広域住宅整備公社『高蔵寺ニュータウン造成記録 第3巻』名古屋建設資料出版, 1976.
- ^ 木村清人「三層通学路の児童心理への影響」『教育環境学会誌』第21巻第1号, pp. 9-27, 1989.
- ^ D. H. Ellison, "The Slope as Infrastructure" Urban Morphology Review, Vol. 5, No. 1, pp. 3-19, 1982.
- ^ 愛知県住宅供給課『余白の景観化に関する報告書』愛知県庁内部資料, 1990.
- ^ 高橋由美子『郊外イベントの季節変動と集会所利用』生活文化叢書, 1997.
- ^ Martin G. Feld, "When the Hill Moves the Town" Proceedings of the East Asia Urban Forum, Vol. 3, pp. 201-214, 2001.
外部リンク
- 高蔵寺ニュータウン資料アーカイブ
- 中部丘陵都市研究会
- ニュータウン風環境観測センター
- 春日井郊外生活史データベース
- 斜面造成と居住文化研究所