高速滑空弾
| 名称 | 高速滑空弾 |
|---|---|
| 読み | こうそくかっくうだん |
| 英語名 | High-Speed Glide Projectile |
| 分類 | 滑空誘導弾・実験弾の総称 |
| 起源 | 1978年の雪中推進実験 |
| 主な研究機関 | 防衛省技術研究本部、陸上自衛隊富士学校、北見冬季通信研究所 |
| 運用概念 | 高高度滑空と低出力終末修正 |
| 特徴 | 尾部の三日月翼と姿勢保持用の磁気縁板 |
| 関連事案 | 2003年の浜松湾偏向試験 |
高速滑空弾(こうそくかっくうだん、英: High-Speed Glide Projectile)は、を用いて高高度まで運動させた後、上層を長距離にわたり滑空するよう設計されたの総称である。もともとはの雪上通信試験から派生したとされ、現在では準軍事・測量・儀礼発射の各分野で知られている[1]。
概要[編集]
高速滑空弾は、との中間に位置するとされる特殊な弾体である。通常の飛翔体と異なり、上昇後に再加速を繰り返すのではなく、薄い空気層を利用して長時間にわたって高度を維持しつつ進む点に特徴がある。
この概念は周辺で行われた冬季観測を起点に成立したとされるが、当初は通信装置を運搬するための「気流乗り試験体」にすぎなかったという。のちにの内部報告書で「滑空による着弾時刻の攪乱効果」が注目され、兵器としての側面が強調された[2]。なお、初期の担当者の間では「飛ぶ砲丸」と俗称されていたという記録もある。
一般には軍事技術として語られることが多いが、実際には、、さらには冬山救難時の信号投射にまで応用が広がったとされる。とくにの麓実験では、弾体が風向の急変を受けながらも予定高度を27秒間維持し、試験班が歓声を上げたという逸話が残る[3]。
歴史[編集]
雪中推進試験の時代[編集]
高速滑空弾の原型は、の旧航空観測場で実施された「積雪上推進試験」に求められる。これは本来、向けの積雪密度計測器を山間部へ投下するための試験であったが、試作弾体が斜面風を受けて想定より2.4km遠方に着地したことから、研究者の関心を集めた。
中心人物とされる技官は、当時の試験日誌に「落ちるというより、逃げる」と記したと伝えられる。これが後年、滑空制御理論の端緒になったとする説が有力である。もっとも、同日誌の原本はの庁舎書庫移転時に紛失したとされ、要出典の状態が続いている[4]。
富士学校での定式化[編集]
からで行われた一連の演習では、弾体外形が急角度の再突入時に不安定化しないよう、尾部に三日月状の補助翼を付ける案が採用された。これを提案したのが、後に「滑空屋」と呼ばれる准教授であったとされる。
彼はの宿舎で、味噌汁の表面に浮く油膜を見て「境界層は割れない」と着想したという。以後、研究班では味噌汁観察が毎朝の儀式となり、1985年度の試験経費に「食堂消耗品・観測用」として年間48万円が計上された記録が残る。結果として、弾体の姿勢安定性は従来比で約17%改善したと報告された[5]。
浜松湾偏向試験と社会的拡散[編集]
には沖で「浜松湾偏向試験」が行われ、海上の湿潤気流を利用して弾体の航跡を意図的に湾曲させる実験が実施された。この試験では、予定航路から約11.6km外れたにもかかわらず、着弾点がなぜか旧灯台の真後ろに一致したため、地元では「海が弾道を覚えた」と語り継がれている。
この事件以降、高速滑空弾は単なる兵器ではなく、航法の不可解さを象徴する存在として一般紙にも取り上げられた。なお、当日の報道では「高速滑走弾」と誤植されたため、以後しばらくは駅売店の弁当名と混同される現象が起きたという[6]。
技術的特徴[編集]
高速滑空弾の最大の特徴は、弾体中央部に設けられた「低抵抗維持腔」と呼ばれる空隙である。これはの観測班が、雪原を転がる空き缶が風で急に進路を変える現象に着目して考案したとされる。
また、尾部の磁気縁板は、地磁気ではなく「地域の方位感覚」を拾うと説明されることがある。これは当初、の漁師から「船は潮ではなく港で曲がる」と言われたことをヒントにしたもので、試験担当者の間では半ば迷信として扱われていた。にもかかわらず、1988年の実験では、弾体が三度にわたり自律的な微修正を行い、観測員が「港を探している」と記録している。
一方で、加速段階の燃焼時間が短すぎると滑空に移行する前に失速するため、開発班は「燃やしすぎても、燃やさなくてもだめ」という独特の設計哲学を採用した。これにより、実務上は性能評価よりも試験員の勘と天候の相性が重視されるようになった。
運用と派生[編集]
軍事運用[編集]
軍事面では、の非公開訓練で、島嶼部の上空を長距離にわたって通過させる模擬追尾演習に用いられたとされる。もっとも、実戦配備前から「配備するほど量産できない」という致命的事情があったため、実際には各方面隊の教育展示用が中心であった。
特筆すべきは、隊員の間で弾体を「投げた後に思い直す矢」と呼んでいた点である。これは技術的説明としては曖昧であるが、試験記録の語感だけは妙に説得力があるため、内部文書にも長く残った[7]。
測量・救難への転用[編集]
一方で、系の委託研究では、山岳地帯に測量用反射板を投射する手段として応用が試みられた。とくに周辺では、谷風を利用して目標地点の誤差を30cm以内に収めた事例があり、これが民間への転用可能性を示したとされる。
さらに、冬山救難では赤色発煙体を搭載した簡易型が使われ、視認距離が通常の発煙筒の1.8倍に達したという。ただし、雪庇に当たって横滑りした結果、救助隊より先に観光客が発見した例もあり、運用マニュアルには「喜ばれるが信用しすぎないこと」と記されている。
社会的影響[編集]
高速滑空弾は、期の防衛技術語彙の中でも珍しく、一般社会に「高性能なのに説明が雑」という印象を残した。新聞各社はこれをきっかけに、軍事技術記事でも図解と専門用語を増やす傾向を強めたとされる。
また、の模型店では、尾翼形状を模したプラモデル風工作キットが短期間で流行し、学校の自由研究で「なぜ飛ぶのか分からない飛翔体」として提出される事例が相次いだ。教育現場では、気流・重心・角度の授業に使いやすい反面、児童が「落ちない飛行は正義ではないのか」と哲学的疑問を抱く副作用も指摘された。
なお、2010年代以降は「高速滑空弾」という名称が先行し、実際の弾体よりも先に商品名やゲーム内兵器名として拡散したため、研究者の中には「概念が実装を追い越した稀有な例」と評する者もいる。これは概ね正しいが、同時にかなり都合のいい言い方でもある。
批判と論争[編集]
高速滑空弾をめぐっては、当初から「滑空しているのか、ただ遅く落ちているのか」という根本的な論争が存在した。の航空力学講座では、1991年にこの問題をめぐる公開討論会が開かれたが、結論は「観測者の納得度に依存する」で一致し、かえって混乱を深めた。
また、内部では、研究費の名目が年によって「氷雪対策」「高層風観測」「標的曳航」へと変わっていたことから、書類上の存在意義が揺らいでいたとされる。会計監査では、同じ弾体に対して3つの異なる台帳番号が振られていたことが判明し、担当者が「それぞれ用途が違う」と説明したものの、誰も納得しなかったという[8]。
さらに一部の市民団体は、滑空弾の試験音が「冬の静けさを壊す」として反対運動を行ったが、実際には試験日がすべて吹雪だったため、聞こえたのは音ではなく雪の不満だったという記録もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『積雪上推進体の滑空挙動に関する基礎研究』防衛技術庁研究報告, Vol.12, 第3号, 1979, pp. 44-61.
- ^ 大槻一也『低抵抗維持腔の概念的設計』航空力学季報, Vol.8, 第2号, 1985, pp. 113-129.
- ^ S. Kuroda and M. Thornton, “On the Boundary Layer Ethics of High-Speed Glide Projectiles,” Journal of Cold Region Dynamics, Vol.19, No.4, 1992, pp. 201-228.
- ^ 『浜松湾偏向試験記録集』海上気流研究会編, 東海出版会, 2004.
- ^ 佐伯真理子「富士学校における滑空弾教育展示の変遷」『軍事教育史研究』第7巻第1号, 2007, pp. 9-33.
- ^ H. Nakamura, “Magnetic Edge Plates and Local Heading Sense,” Proceedings of the North Pacific Trajectory Symposium, Vol.5, 1989, pp. 77-95.
- ^ 『北見冬季通信研究所年報 1981-1988』北見冬季通信研究所, 1989.
- ^ 山岸和夫『弾体は港を覚えるか』日本測量学会誌, 第41巻第6号, 1996, pp. 302-318.
- ^ C. Bell, “The Weapon That Learned to Glide Before It Learned to Fall,” Defense Studies Review, Vol.27, No.1, 2011, pp. 1-22.
- ^ 『高速滑走弾と地域経済』静岡地方産業史料センター, 2014.
外部リンク
- 防衛技術史アーカイブ
- 冬季試験場資料室
- 浜松湾偏向試験データベース
- 北見滑空研究会
- 気流と弾体の博物誌