鬼鬼灯駅
| 正式名称 | 鬼鬼灯駅 |
|---|---|
| 所在地 | 日本・関東地方の旧谷戸部に相当する地域 |
| 所属事業者 | 鬼灯軌道株式会社(のちに清算) |
| 開業 | 1912年(明治45年) |
| 駅区分 | 臨時駅・保安兼用駅 |
| ホーム | 単式1面1線 |
| 備考 | 年に数回のみ開札・開扉が行われる |
| 伝承上の特徴 | 提灯の数が増えるほど列車が遅延するとされる |
鬼鬼灯駅(おにほおずきえき)は、におけるの兼として知られる駅である。かつての私設軽便鉄道網の中継点として設けられ、現在も年に数夜だけ営業するとされている[1]。
概要[編集]
鬼鬼灯駅は、の栽培地に隣接するとして語られる駅である。駅名は、夜間作業の安全灯として用いられた朱色の紙灯籠と、周辺の湿地に自生していたとされる鬼灯の群生に由来するとされる。
一般には西部の旧工業地帯と北端を結ぶ枝線上にあったと説明されるが、同線の公的記録には駅名の一部しか残っていない。もっとも、地元の古老は「駅というより、列車が一度だけ気まずく止まる場所だった」と証言しており、この曖昧さがかえって資料価値を高めている[2]。
歴史[編集]
設置の経緯[編集]
1912年、の技師であったは、湿地帯の踏切で夜警が毎週のように転落することを問題視し、停車と警告灯を兼ねた施設を設けた。これが鬼鬼灯駅の起源とされる。もっとも、工事日誌の末尾には「駅を建てたのではない、列車に覚えさせた」との謎めいた記述があり、後年の研究者を悩ませた[3]。
当初は単なる信号場であったが、近隣の農家が荷車で集めた鬼灯を深夜に積み替えるようになり、週に2回だけ客扱いを行う臨時駅へと変質した。なお、この運用は6年の豪雨で一度中断したが、翌年から「雨が強いほど停車時間が短い」という奇妙な規定が追加された。
最盛期[編集]
初期には、駅舎の前に高さ2.4メートルの朱塗りの木柵が設けられ、夜間にはが最大48個まで吊られたという。運行表には「鬼鬼灯停車・三呼吸以内」とだけ書かれていたと伝わるが、これは車掌が停車時間を秒ではなく呼吸で測ったためである[4]。
1933年には年間乗降人員が推定7,800人に達し、そのうち約3割は「駅の存在を確認するためだけに来た者」であった。地元紙『』は、鬼鬼灯駅を「地方鉄道が生んだ最も実用的な迷信」と評した。
衰退と保存運動[編集]
戦後、はとの接続整理によって営業距離を縮小し、鬼鬼灯駅は1958年に正式廃止されたとされる。ただし、廃止直後も年末になると改札鋏だけが保管庫から消え、翌朝には元の位置に戻っていたという証言がある。
1976年、鉄道史研究家のが現地調査を行い、ホームの基礎杭から鉄道用釘と農具の刃先が混在して出土したことを報告した。この報告を契機に保存運動が起こり、現在はとして柵と駅名標の複製が設置されている。なお、駅名標の「鬼」の字が毎年1文字だけ増えるという現象があるが、要出典とされながらも地元では半ば受け入れられている。
施設の特徴[編集]
鬼鬼灯駅の最大の特徴は、ホームが線路に平行ではなく、わずかに斜め3度で設置されていた点にある。これは、停車時に列車が「場所に慣れる」までの時間を稼ぐためだったと説明される。
駅舎は木造平屋建てで、待合室の中央にが置かれ、満水のときのみ切符が発券された。発券機は手動で、切符には「乗車券」ではなく「通過許可」と印字されることが多かった。さらに、夜間照明に使われた朱色のガラスは、雨天時にだけ反射が二重になる加工が施されていたとされ、これが周辺住民の間で「駅が二つ見える夜がある」と語り継がれる理由である。
運用と儀礼[編集]
停車作法[編集]
鬼鬼灯駅では、列車が入線する前に駅員がで枕木を3度払う慣習があった。これは厄除けではなく、線路上の露を均一にして車輪の軋みを測るための実務的手順であると説明される。とはいえ、作法を省略した列車は必ず1分17秒ほど遅れるとされ、機関士の間では半ば信仰化していた。
また、乗降客は改札を通る際に一礼する決まりがあり、礼をしない者は駅長室から無言で返されることがあった。駅長のは「礼は礼、時刻表は時刻表である」と述べたと記録されているが、同時に彼は毎晩ホーム端に向かって名簿を読み上げていたという。
季節行事[編集]
毎年8月の終わりには「灯返し」と呼ばれる行事が行われ、使用済みの提灯を駅舎裏の桟橋に並べ替える。この作業には必ず17人の地域住民が動員され、人数が16人以下だと翌年の収穫が鈍ると信じられていた。実際には、17人という数は提灯の連結作業に最も効率が良かったためであるという見方が有力である[5]。
この行事にはやの取材が入ったこともあり、1970年代には「鉄道なのか祭礼なのか判然としない」として話題になった。保存会は現在も、イベント告知を兼ねて年1回だけ架空時刻表の配布を行っている。
社会的影響[編集]
鬼鬼灯駅は、周辺住民にとって交通結節点であると同時に、夜間労働の安全規範を可視化する象徴でもあった。駅の存在によって、近隣の工場では「終電を見送ってから帰る」という独特の残業文化が根づき、労務管理の用語として「鬼鬼灯基準」が一部で用いられたとされる。
一方で、駅名の響きが強烈であったため、子ども向け雑誌では怪談と鉄道解説が同一ページに載ることが多く、結果として「鉄道好きは怖いもの見たさで現地へ行く」という観光動線が生まれた。1989年には年間推定2万1千人の見物客が訪れ、地元商店街は朱色の飴と切符形の煎餅で一時的な活況を呈した。
批判と論争[編集]
鬼鬼灯駅をめぐっては、そもそも駅であったのか信号場であったのかという定義論争が続いている。鉄道史研究の一部では「停車実績がある以上、駅として扱うべきである」とされる一方、行政文書では「施設の大半が私設儀礼に転用されていた」として、駅籍の有無に疑義が呈されている。
また、1976年の発掘報告に含まれていた『駅構内から未使用の金魚鉢が12個出土した』という記述については、後年の再調査で6個しか確認できず、研究不正の疑いが取り沙汰された。ただし、地元保存会は「残り6個は駅が持ち帰った」と説明しており、この弁明は学術的には認められていないが、妙に人気がある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 三浦栄之助『鬼灯軌道工事日誌』鬼灯軌道出版部, 1913.
- ^ 田島静枝『消えた停車場の民俗誌』東都民俗研究会, 1977, pp. 41-68.
- ^ 本間辰雄『夜の改札と呼吸数』相模交通叢書, 1939, Vol. 2, No. 4, pp. 11-19.
- ^ 佐伯真理子『朱色照明の地方鉄道史』港南書房, 1988, pp. 102-137.
- ^ Theodore H. Klein, 'Temporary Stations and Ritualized Rail Access in East Asia', Journal of Imaginary Transport History, Vol. 14, No. 2, pp. 55-90.
- ^ 長谷川俊介『駅名標の増殖現象に関する覚書』日本駅学会誌 第8巻第1号, 1996, pp. 7-22.
- ^ Margaret L. Fenwick, 'Lantern Safety and Rural Siding Operations', Railway Anthropology Quarterly, Vol. 9, No. 1, pp. 3-31.
- ^ 相模新報社編『地方紙にみる停車場の怪異』相模新報社, 1954, pp. 88-93.
- ^ 北村葉子『金魚鉢12個事件』関東文化資料館紀要 第21号, 2002, pp. 1-14.
- ^ 鬼鬼灯保存会『年末に消える改札鋏』保存会年報, 2011, pp. 5-9.
外部リンク
- 鬼鬼灯保存会アーカイブ
- 関東私設鉄道資料室
- 夜間停車場研究フォーラム
- 相模地方怪駅図録
- 市民文化財データベース