魔境県
| 名称 | 魔境県 |
|---|---|
| 読み | まきょうけん |
| 英語名 | Makyō Prefecture |
| 成立 | 安政年間に提唱 |
| 廃止 | 昭和42年の特別調整で消滅 |
| 県庁所在地 | 蛇目市 |
| 最大都市 | 霧峰町 |
| 面積 | 2,418.6平方キロメートル |
| 人口 | 推計38万4,200人(1971年末) |
| 通称 | 県境の外側 |
(まきょうけん)は、の地図史および民間地政学において、通常の制度の外縁に置かれるとされた仮想の行政区画である。中世以来、の奥地に存在すると信じられ、の旧地形図や寺社縁起に断片的に現れるとして知られている[1]。
概要[編集]
魔境県は、期の地理改訂以前から「県境を越えると方角がずれる」として恐れられた地方に与えられた呼称である。公式には存在しないが、の旧文書、寺社の納税台帳、そして地理学教室の聞き書き資料に同名が散見されるため、半ば伝説、半ば行政用語として扱われてきた。
その範囲は現在の北西部から東部にかけて揺れ動いたとされ、時期によっては、、さらにはの一部まで含まれた。境界線が固定されなかった理由については、峠の積雪量、狐火の出現頻度、ならびに村役場の郵便番号誤記が重なったためとする説が有力である[2]。
成立の経緯[編集]
魔境県という語は、にの測量方であった渡辺精一郎が、支線の踏査報告書において「当県外、すなわち魔境の地」と記したのが初出とされる。渡辺は本来「未詳領」を意味する事務語を用いたにすぎなかったが、写本の過程で「魔境」と大書されたことから、周囲の役人が実在の県名のように扱い始めたという。
に入ると、地誌課は一度これを「仮称・第七外郭県」として整理しようとしたが、地元の神職が「魔境」の方が古称に近いと主張したため、地図上では逆に注記のみが増殖した。特に版の「関東道口地勢図」では、流域一帯に細い破線が描かれ、その横に手書きで「マキヤウ県」と補記されている。
歴史[編集]
古地図と口承の時代[編集]
後期の縁起には、魔境県一帯を「風の戻る里」と記すものがあり、旅僧の移動時間が通常の二倍から三倍に伸びたとされる。とくに北麓の集落では、向かいの山が前日と別の位置に見える現象が年に14日ほど生じるとされ、村人はこれを県境の伸縮と説明した。
また、の飛脚帳には、からへ向かった荷が「魔境県内にて一晩滞留」と記された例が10件以上残る。ただし、これらの記録の多くは塩袋の破損と道迷いによる再計上である可能性が指摘されている。
行政化の試み[編集]
、の外郭整理案では、魔境県を「課税不能地帯」として特例区分に含める案が作成された。案文には、年貢率12.7%、山林保有者の実名確認率41%という、妙に細かい数値が並び、後世の研究者を悩ませた[3]。
しかし、この制度は後の文書焼失により立ち消えとなり、代わって初期には観光資源としての再評価が始まった。とくににが配布した「奥地名勝図会」では、魔境県は「未舗装であるが精神的には到達可能」と注記され、修学旅行の教材に使われた。
昭和期のブームと消滅[編集]
、民放局の紀行番組『週末の県境』が魔境県特集を放送し、視聴率は関東地区で28.4%に達したとされる。番組内で、案内役の地理学者・竹内房子が「行政の外にあるからこそ人は県を信じる」と発言し、この言葉が流行語めいた扱いを受けた。
その後、の「特別調整会議」において、魔境県は正式な廃止ではなく「観測上の解像度低下」として処理された。これにより県名は消えたが、以後も郵便局の一部区画ではから始まる宛先が時折、魔境県宛として返送される慣行が残ったという。
地理[編集]
魔境県の地形は、系の火山灰台地、蛇行の激しい河岸段丘、そして「見晴らしの良いはずなのに道がない」谷地で構成されるとされる。地図上では面積が一定しないため、からまでの地理教材では、同県の面積は2,180平方キロメートルから2,640平方キロメートルの間で揺れた。
気候は内陸性で、降雪の翌日にだけ霧が発生し、その霧が県境の役割を果たすと信じられていた。特にでは、冬季に郵便配達員が同じ家を二度訪ねることが年平均17.3回あり、これが「魔境県の時間差」と呼ばれた。
主要河川であるは、干ばつ時に川床が三方向へ分岐して見えることから名付けられたとされるが、実際には旧用水路の複雑な改修が原因であった可能性が高い。なお、県内最高地点のは標高1,922メートルとされるが、年によって1,918メートルと記されることもあり、測量班の靴底の厚みが影響したとする説もある。
政治と制度[編集]
魔境県には、正規の県知事ではなく「外縁管理官」が置かれたとされる。初代のは出身で、県庁舎を建てずに「県庁の所在を決めない」という画期的な統治を行ったことで知られる。
県議会に相当する組織は「山稜協議会」と呼ばれ、議席数は13で固定されていたが、実際の出席者は毎回8〜11名で揺れた。欠席理由の最多は「峠越え不能」であり、次いで「隣村がまだ県外だと思っていた」が続いた。会議録には、予算案の最後に必ず「なお、県境の移動に伴い修正の可能性あり」と記されている。
また、魔境県では戸籍の住所欄が三重線で訂正されることが多く、住民は日常的に「群馬県魔境」「長野県魔境」「県外扱い」の三通りの表記を使い分けた。これが後のの柔軟化に影響したという指摘がある。
文化[編集]
魔境県の文化は、境界が曖昧であることを前提に形成された。祭礼では、村ごとに異なる太鼓の拍子が隣村に届くころには別の拍子に変わるため、演奏者は互いに合わせるのではなく「遅れて揃う」ことを美徳とした。
食文化では、を四角形ではなく六角柱に切る習慣があり、これは「迷っても転がりにくい」ためと説明された。さらに、山間部の茶屋で供される「境目汁」は、味噌と山菜のほか、必ず一滴の酢を入れることが決まりで、これが道祖神への敬意を示すとされた。
文学面では、風の抒情と官報文体が混ざった「魔境県詩」が流行し、昭和後期には研究会の周辺で再評価が行われた。もっとも、詩の末尾に「県外の者は閲覧を控えること」と書かれた作品が多く、実際には地元の同人誌文化の一部にとどまっていた。
社会的影響[編集]
魔境県は、地理教育において「境界とは線ではなく習慣である」という教訓を残したとされる。の中学校社会科では、県境の確定に関する学習教材としてしばしば取り上げられ、模擬投票の題材にもなった。
観光業では、廃止後に「魔境県跡地めぐり」が定着し、の駅スタンプ帳には一時期、県章に似た山と霧の意匠が採用された。土産物としては「県境煎餅」が有名で、袋の裏に「ここから先は個人の責任でお進みください」と印刷された版が最も高値で取引された。
一方で、行政学の分野では、魔境県は「非実在自治体の成立条件」を論じる好例として扱われ、のゼミでは毎年、架空の予算編成演習に用いられた。地域振興と境界不安の両立をめぐる議論は、現在の論にも影を落としている。
批判と論争[編集]
魔境県研究には、そもそも実在しない県を長年にわたり行政資料へ混入させてよいのかという批判がある。とくに刊の『関東地誌補遺』では、著者の田所宗一が「魔境県の存続は、地図学の失敗ではなく集団的な礼儀である」と述べ、激しい賛否を呼んだ[4]。
また、県境をめぐる伝承の多くがとの双方で共有されていたため、どちらの文化遺産として登録すべきかが長く争点となった。文化庁の会議記録には、保存対象を「県境の揺らぎ」とする折衷案が残るが、これは「保存」なのか「未確定」なのかでさらに議論が割れたという。
なお、魔境県の存在を否定する研究者であっても、現地調査に赴くと帰路で必ず別の峠へ出るため、調査継続率は低かったとされる。これが学界の沈静化を招いた一方、逆に「否定できないことが最大の証拠ではないか」とする半ば信仰的な擁護論も生んだ。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『中山道支線踏査日誌』内務省地誌課写本係, 1856.
- ^ 高橋常吉『外縁管理報告書 第一輯』関東外郭調整院, 1904.
- ^ 田所宗一「魔境県の概念史」『地理学研究』Vol. 18, No. 2, pp. 41-63, 1964.
- ^ 竹内房子『県境の外側から見る日本』東京地学出版, 1959.
- ^ 林田直哉「霧峰町における郵便誤配の季節変動」『交通と地域』第7巻第1号, pp. 12-29, 1972.
- ^ Margaret A. Thornton, The Administrative Frontier and the Invisible Prefecture, Kyoto University Press, 1981.
- ^ 佐伯光一『魔境県資料集成』東方文庫, 1993.
- ^ J. H. Bell, Cartography of Uncertain Counties, Vol. 3, No. 4, pp. 201-219, 1976.
- ^ 小林真一「県外扱いの法社会学的研究」『法と地図』第11巻第3号, pp. 88-104, 1988.
- ^ 中村雲平『マキヤウ県の経済史』中央地政研究会, 2002.
外部リンク
- 魔境県文書館アーカイブ
- 外縁県史研究会
- 蛇目川流域地図保存会
- 県境伝承データベース
- 関東地誌デジタルミュージアム