黄色い州(アメリカ合衆国)
| 名称 | 黄色い州 |
|---|---|
| 英語名 | Yellow State |
| 成立 | 1834年頃 |
| 消滅 | 1912年頃 |
| 地域 | アメリカ合衆国西部 |
| 制度 | 黄染料課税・州旗監査 |
| 中心都市 | サクラメント、カーソンシティ |
| 関係機関 | 西部州色彩局 |
| 主史料 | 黄色州憲章草案、染料台帳 |
黄色い州(きいろいしゅう、英: Yellow State)は、の西部で発達したとされる、黄染料の徴税と州旗規格をめぐる歴史的区分である[1]。から頃にかけて、からにかけての乾燥地帯で制度化されたとされる。
概要[編集]
黄色い州とは、西部において、州旗や公文書に黄色系の顔料を標準採用した諸州を、後世の研究者が便宜上まとめた歴史概念である。狭義には・・南部の三地域、広義には東部の一部まで含まれるとされる[2]。
この区分は、前半の鉱山景気と、日照の強い内陸部で褪色しにくい染料を求める行政需要から生じたと考えられている。ただし、当時の公文書には「黄色い州」という語はほぼ見えず、主としての州史編纂で定着した比較的新しい呼称であるとの指摘がある[3]。
歴史[編集]
起源[編集]
起源は、の印刷業者エリシャ・B・ウェルドが、州議会向けの地図に耐光性の高い黄土顔料を用いたことに端を発するとされる。彼の地図は雨季に濡れても比較的変色せず、臨時政庁の文書係がこれを「公印に最適である」と評価したという[4]。
その後、の金鉱熱を契機として、採掘許可証や旅券の再発行が急増し、黄色顔料が「偽造しにくい行政色」として重宝された。なお、当時のでは黄色紙は「目に優しい」とも言われたが、実際には税務係が墨をこぼしやすかったため採用されたとの説が有力である。
制度化[編集]
、の前身組織であるが、州旗・郵便袋・鉱区標識の三点について黄色系統を推奨する通達を出し、これが黄色い州の制度化とみなされることがある。とくにの山岳部では、積雪の上でも視認性が高いとして、黄地に黒縁取りの標識が急速に普及した[5]。
一方で、黄色は「高潔」「注意」「未確認」の三義を併せ持つため、州ごとに解釈が割れた。では砂漠行政の象徴とされ、では干し草税の免除札にまで応用されたが、では宗教色との混同を避けるため採用が遅れた。
黄金黄論争[編集]
には、黄色い州内部で「黄金黄」か「麦藁黄」かをめぐる通称が起こった。これは州旗の黄の濃度をで統一すべきかという、極めて行政的かつ不毛な議論であり、州務長官室は計14回の公開試験を実施したという[6]。
試験では、黄土・ケシ花・卵黄・砕いた鉱石粉末など11種の候補が比較され、最終的に「遠目に見て不安にならない色」が採択基準となった。ここで委員の一人が「州は目立つべきであるが、目立ちすぎてはならない」と述べた記録は、後世の色彩行政学の古典として引用される。
制度と運用[編集]
黄色い州の運用上の中心は、西部諸州の公印・道路標識・選挙ポスターに黄色系を含めることであった。とくにの完成以後、駅舎の時刻表に黄色の帯を入れる慣行が広まり、旅客が「ここは州境である」と誤認しやすくなったため、逆に州境線の認知率が上がったとされる。
また、州ごとの黄比率を測定するため、にと呼ばれる簡易比色器が導入された。これは豆電球の光を黄紙に通して反射率を測る装置で、後のとの色彩基準に影響を与えたという。ただし装置の多くは暑さで接着剤が溶け、実地では「だいたい黄色なら可」とされた。
社会的影響[編集]
黄色い州の広がりは、州旗文化だけでなく、学校教育、農産物検査、果樹園の収穫札にも及んだ。とくに柑橘類の等級札が州印と共通化されたことで、近郊では黄札を見ただけで「税が済んだ」と安心する風習が生まれたという[7]。
また、の万国博覧会以後、東部の新聞は西部の諸州をまとめて「yellow belt」と呼び始めたが、これは色彩政策を指すのか、土地の乾燥を指すのか、あるいは単なる見出しの字数調整なのかで長く議論された。結果として黄色い州は、政治学よりもむしろ印刷史の一部として研究が進んだ。
衰退と再解釈[編集]
の州旗統一法以後、各州は独自の黄指定をやめ、連邦標準の青・赤・白の比率へ移行したため、黄色い州は制度上は消滅したとされる。しかし実際には、の注意喚起標識やの乾燥警報で黄が生き残り、文化的慣習としては後半まで残存した。
研究史上は、黄色い州を「行政色の連合体」とみなす説と、「乾燥地帯の自己防衛的象徴」とみなす説が対立している。近年は、州の存続を実体化しすぎず、むしろ「黄をめぐる連邦西部の交渉史」として捉える折衷説が有力である[8]。
研究史・評価[編集]
黄色い州の研究は、の色彩史研究者マーガレット・L・ソーン卿らによって体系化されたとされる。彼女はの論文で、黄色い州の本質を「視認性を政治に変換した最初の米国西部制度」と定義し、以後の研究の出発点となった[9]。
一方で、以降の批判的研究では、黄色い州の統一性そのものに疑義が呈されている。資料に残る「州黄規格」は郡ごとに濃淡が異なり、実態は連邦官僚と印刷業者の妥協の産物だった可能性が高い。ただし、妥協の産物にしてはやけに細かいので、逆に本当にあったのではないかという声も根強い。
脚注[編集]
1. ^ ローレンス・P・ミルズ『西部行政色彩史序説』フィラデルフィア大学出版会, 1974年, pp. 41-58. 2. ^ エミリー・R・ハース『黄土と連邦: 19世紀アメリカ州旗の制度化』スタンフォード歴史叢書, 1988年, pp. 112-119. 3. ^ James H. Calder, “The Invention of the Yellow States”, Journal of American Territorial Studies, Vol. 12, No. 3, 1996, pp. 201-227. 4. ^ ウィリアム・G・ペリン『サクラメント印刷工房史料集』カリフォルニア州立歴史局刊, 1961年, pp. 9-15. 5. ^ アリソン・M・クラーク『砂漠の公印と郵便袋』ネバダ州公文書館研究報告, 第8巻第2号, 2004年, pp. 73-81. 6. ^ Harold K. Vance, “On the Munsell Dispute in Western State Flags”, The Western Color Review, Vol. 7, No. 1, 1971, pp. 4-19. 7. ^ 佐伯直人『柑橘等級札の近代史』東京西部史研究会, 2002年, pp. 90-104. 8. ^ Patricia D. Lowell, “Rethinking Yellow Statehood”, Southwest Historical Quarterly, Vol. 88, No. 4, 2015, pp. 333-359. 9. ^ Margaret L. Thorn, “Visibility and Governance in the American West”, Harvard Journal of Territorial Color, Vol. 1, No. 1, 1937, pp. 1-24. 10. ^ 中村鏡子『州旗の色と税務の関係に関する覚書』京都比較制度史研究所, 1998年, pp. 17-26.
関連項目[編集]
脚注
- ^ ローレンス・P・ミルズ『西部行政色彩史序説』フィラデルフィア大学出版会, 1974年.
- ^ エミリー・R・ハース『黄土と連邦: 19世紀アメリカ州旗の制度化』スタンフォード歴史叢書, 1988年.
- ^ James H. Calder, “The Invention of the Yellow States”, Journal of American Territorial Studies, Vol. 12, No. 3, 1996, pp. 201-227.
- ^ ウィリアム・G・ペリン『サクラメント印刷工房史料集』カリフォルニア州立歴史局刊, 1961年.
- ^ アリソン・M・クラーク『砂漠の公印と郵便袋』ネバダ州公文書館研究報告, 第8巻第2号, 2004年.
- ^ Harold K. Vance, “On the Munsell Dispute in Western State Flags”, The Western Color Review, Vol. 7, No. 1, 1971, pp. 4-19.
- ^ 佐伯直人『柑橘等級札の近代史』東京西部史研究会, 2002年.
- ^ Patricia D. Lowell, “Rethinking Yellow Statehood”, Southwest Historical Quarterly, Vol. 88, No. 4, 2015, pp. 333-359.
- ^ Margaret L. Thorn, “Visibility and Governance in the American West”, Harvard Journal of Territorial Color, Vol. 1, No. 1, 1937, pp. 1-24.
- ^ 中村鏡子『州旗の色と税務の関係に関する覚書』京都比較制度史研究所, 1998年.
外部リンク
- 西部色彩史アーカイブ
- 連邦州旗研究会
- サクラメント印刷遺産データベース
- ネバダ公文書色票館
- 黄色い州口述史プロジェクト