1392年以降を後南朝時代とする時代区分
| 適用対象 | 後半(主に日本の政治史) |
|---|---|
| 基準年 | |
| 主な主張 | 1392年以降をとして区分する |
| 関連用語 | 、、 |
| 成立時期(説) | 江戸中期の書誌学実務に由来するとされる |
| 中心機関(伝承) | を管理したとされる臨時の史料室 |
1392年以降を後南朝時代とする時代区分(1392ねんいこうをごなんちょうじだいとするじだいくぶん)は、後半を再編成するための学術的な時代区分である。とくに以降をとして切り分ける見解が、近世の史料整理実務と結び付いて広まったとされる[1]。
概要[編集]
この時代区分は、通常の区分に対し、を“区切りの終点”ではなく“区切りの再設定点”として扱う点に特徴があるとされる。
すなわち、同年以降に現れると解釈された「継続的な南朝系の政治運用」を、後代の編纂者がまとめてと呼び、そこに対応する制度・儀礼・文書様式の差分を時代指標として位置付けたものだとする説明が行われてきた。
この見解は、単なる呼称の変更にとどまらず、系譜記述の並び順、法令文の書式、さらには寺社の納入簿の分類規則にまで影響を及ぼしたとされる。もっとも、実務上の便宜として導入されたという指摘もあり、政治的意図の有無については慎重な議論がある[2]。
概要(選定基準)[編集]
区分の根拠として、編纂側では「継続率」を数値で示す慣習が採られたとされる。具体的には、(1)儀礼暦の運用、(2)勅書写の伝達経路、(3)地方の判物(はんもの)の文頭定型の一致度、(4)守護代の署名形(署名印の字体)という4指標を用い、合計で60%以上が一致すれば“後南朝期”とみなす、というルールが記録に残っているとされる[3]。
ただし、この「合計60%」は後から付け足された可能性もあるとされ、ある編集者は「数字は踊るが、紙は踊らない」と書き残しているという。結果として、同じ史料でも分類担当の机(=蔵書庫の番号)によって、区分結果が変わるケースがあったとも説明される[4]。
さらに、京都の特定の写経所(後述のではない、別の“写経所整理班”)で、紙の繊維方向と墨の滲みを指標化したという逸話がある。これを裏付ける“繊維角度台帳”が残るとされるが、検証は進んでいない[5]。
歴史[編集]
起源:書誌学者の「再区切り」計画[編集]
この区分は、江戸時代の書誌学が“分類学”へと発展する過程で生まれたとする説がある。発端は、系の整理手法を参照したという架空の共同研究「禁裏周辺史料の縦覧計画(通称:縦覧13号)」であり、縦覧13号はの前後で文書の“系統ラベル”が崩れることに着目していたとされる[6]。
計画担当の一人として、の書肆出身の史料係、渡辺精一郎(わたなべ せいいちろう)が名を挙げられることが多い。彼は実務者であり、分類にこだわるあまり「年号を止めるより、棚を止めるべきだ」と言い張ったとされる。結果として、棚番号体系に合わせる形で、1392年を“南朝ラベルの再採番年”にする提案が出たと説明されている[7]。
また、区分の導入には「後南朝期にだけ許される文書の末尾語彙」を見つける作業が伴ったとされる。そこでは「奉仕」「継続」「延引」という語が、同じ機関名の文書群に偏って現れることが報告されたという。ただし、偏りがどれほど意図的だったかは不明である[8]。
発展:寺社と守護の“文書様式レース”[編集]
区分が広まった背景には、寺社と地方行政が、受領証・納入簿・勧進帳の“書式統一”を争うようになった社会的事情があったとされる。特に奈良周辺の寺院では、年貢米の搬送記録を「南朝様式」「北朝様式」に分けて保管する運用が進み、その途中で1392年以降の扱いが不統一になったという[9]。
この混乱を収束させるため、興福寺の写字係に雇われた臨時の鑑定員、が、文書末尾の“敬語の句読点”を統計化したとされる。玄路の報告書では、句読点の出現頻度が「平均3.2回/通」であり、後南朝ラベルが付された文書ほど「3.2±0.4」に収束する、と記されていたという[10]。
ただし、別の研究者は「句読点は筆癖であって時代の証拠ではない」と反論している。にもかかわらず、制度設計をする側は“収束する数字”に救われたため、区分は学術と行政の双方で利用されるようになったとされる[11]。
社会的影響:教育用の年表が先に走った[編集]
この区分は、研究論文より先に教育用の年表で普及したとされる。理由として、藩校の教科目が「政治史の理解」より「史料の読み方」に寄っていたため、先生側が区分の理由づけを短く説明できる言い回しを求めた点が挙げられる。
その結果、の藩学で採用された簡易年表では、1392年以降を「後南朝の継続運用」として3行で説明し、残りを「どう見分けるか(分類の手順)」に割く形式が採られたとされる[12]。
さらに、年表が刷られた過程で一部の版に誤植が入り、を後南朝の“開始補正年”と誤って扱う版が出回ったという。この誤植版は200部限定だったとされるが、どこから200という数字が来たのかは記録がない。なお、その誤植版を所持していた学者が“正しい誤り”として後に再版の口実にしたという逸話が残っている[13]。
批判と論争[編集]
批判の中心は、「以降をとする区分が、史実の連続性よりも書誌分類の都合を優先しているのではないか」という点である。とくに、文書の“棚番号”に追随した区分は、時代像を固定化しやすいとして警告されている[14]。
一方で擁護側は、区分は史実をねじ曲げるためではなく、読解の再現性を上げるための道具であると主張する。ここで擁護者の一人として、東京の史料学講座に在籍していたが引用されることが多い。彼は「分類とは、時間を“割り箸”にする技術である」と述べ、割り箸に見えても実は温度を測る器具である、と続けたとされる[15]。
論争は、やがて「数字の根拠」へと移った。たとえば、句読点の平均3.2回/通に対して、再計算では2.7回/通になったという指摘が出た。ところが、その再計算に用いられた資料群が“別の棚番号体系”であることが後から判明し、論点は再び迷子になったとされる[16]。このように、区分の妥当性よりも運用の揺れが焦点化しやすいという批判がある。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『縦覧13号に見る史料ラベル再採番の実務』勉誠史料館, 1714年.
- ^ 結城玄路『敬語句読点統計と後南朝期分類の収束』大和文書叢書, 1742年.
- ^ 三浦季澄『時間を割り箸にする方法:年表編集の再現性』東京史学院, 1831年.
- ^ Kiyoshi Tanaka, “Shelf Number Effects in Late Medieval Periodization,” Journal of Archival Classification, Vol.12 No.3, pp.44-63, 1998.
- ^ M. A. Thornton, “Document Morphology and Era Labels,” International Review of Palaeography, Vol.7 No.1, pp.101-132, 2005.
- ^ 林忠矩『禁裏周辺史料の縦覧計画(通称縦覧13号)の全容』京都学芸出版, 1760年.
- ^ 佐藤涼介『“後南朝”という道具:教育年表の普及と誤植の連鎖』史窓叢書, 1908年.
- ^ The Nanchō Continuity Committee, “On the Alleged 1392 Onward Later Nanchō Period,” Journal of Speculative Historiography, Vol.3 No.2, pp.1-29, 1977.
- ^ 山崎英之『誤植200部限定説の検証と棚番号の論理』史料会議叢刊, 1939年.
- ^ A. B. Calder, “Punctuation as Evidence: Re-estimating the 3.2-per-Document Claim,” Proceedings of the Unreliable Metrics Workshop, Vol.2 No.4, pp.210-239, 2011.
外部リンク
- 禁裏周辺史料データベース(架空)
- 縦覧13号アーカイブ(架空)
- 後南朝分類ワークベンチ(架空)
- 句読点メタデータ倉庫(架空)
- 年表誤植コレクション(架空)