160点セット
| 名称 | 160点セット |
|---|---|
| 英語名 | 160 Point Set |
| 分類 | 標準化評価資材 |
| 起源 | 昭和初期の東京市内の試験制度改編 |
| 主管 | 文部省標準計量局 |
| 点数体系 | 160点満点 |
| 構成 | 16項目×10点、または8項目×20点 |
| 普及地域 | 日本、朝鮮半島、旧満州の一部 |
| 関連施設 | 東京高等試験倉庫 |
| 初出記録 | 1931年頃 |
160点セット(ひゃくろくじゅってんセット、英: 160 Point Set)は、のおよびにおいて用いられる、160点満点の総合評価を前提とした標準化資材一式である。もともとは初期の技術官僚が、採点のばらつきを抑えるために考案したとされる[1]。
概要[編集]
160点セットは、採点表、封緘袋、校正用の青鉛筆、誤差補正カード、携行用の木箱などをひとまとめにした制度上の標準単位である。点数の合計が160点に収まるよう設計されたことからこの名が付いたとされ、当初は内の中等学校での試験監督に用いられた。
のちにの防災備品やの検札資材にも転用され、単なる採点具ではなく「数を合わせるための行政思想」として理解されるようになった。なお、文献によっては「160点」は実際の点数ではなく、木箱の内側に刻まれた16個の目印を十倍した暗号的表現であるともされる[2]。
成立の経緯[編集]
1929年、の試験改正会議では、各学校で採点基準が異なることが問題視されていた。会議録によれば、当時の主任技師・は「百点では足りず、二百点では多すぎる」と述べ、途中案として存在した「128点制」を退けている[3]。
その後、の民間製図所で試作された木箱に、採点票、朱肉、頁番号札、計算尺、折り畳み定規を詰めたものが原型となった。1932年の試験監督講習では、受講者48名中31名が箱の蓋を逆向きに閉めたため、補助金額が当初見積もりの1.7倍に膨らんだとされる。
この失敗を受け、の監査官であったが「持ち物の数ではなく、点の数で管理すべきである」と提言し、以後の制度名称として160点セットが定着した。もっとも、同年の官報にはこの名称が一度も現れず、実務文書だけで流通していた点はしばしば指摘されている。
構成[編集]
標準構成[編集]
標準的な160点セットは、10点単位で16項目に分かれていた。内訳は、採点票一式が18点、校正用具が14点、封緘用品が12点、携行箱が34点、予備札が8点、照合帳が22点、緊急修正具が16点、その他の雑具が36点である。合計はちょうど160点となるが、実際の重量は約7.4kgから9.1kgまで個体差があった。
とくに携行箱はの家具職人が製作した柾目材を用いることが推奨され、箱の角に丸みがあるものは「監督者の判断を鈍らせる」として不採用になったという。
派生型[編集]
1940年代には、向けの簡略型として「96点半セット」が作られ、戦時下の供出事情から紙類が極端に減らされた。これに対し、の寒冷地学校ではインクの凍結を防ぐため、革袋と湯たんぽを追加した「176点増補型」が独自に編成されている。
また、の一部中学校では、点数が偶数であることを嫌う校長の方針により、最後の4点分を「礼節」として口頭評価に置き換える運用が行われた。これが後の「非物品化セット」運動の端緒になったとする説もある。
点数計算法[編集]
160点の算出方式には複数の流派が存在する。文部省系は「物品の価格」ではなく「配布時の安心感」を基準に点を与える方式を採っていたのに対し、地方学務局系は「机上に並べた際の整然度」を重視した。両者の差は最大で23点に達したとされ、1935年にはで採点誤差を巡る小規模な集会が開かれた。
この集会では、参加者の一人が「120点では紙が不足し、180点では箱が重い」と発言し、会場の拍手が17秒続いたという記録が残る。ただし、この記録は当日の速記録と講演者の回想で拍手時間が異なっており、要出典とされることが多い。
普及と影響[編集]
160点セットは、戦前日本の学校行政において「同じものを配れば同じ結果が出る」という幻想を象徴する制度として機能した。実際には、箱の仕入れルートや紙質の違いが採点速度に影響し、の学校では1回の検査に要する時間が平均で11分短縮された一方、では逆に8分延びたという。
戦後は制度自体が廃止されたが、セットに付属していた番号札と封緘の美意識だけが残り、の事務用品や民間企業の内部監査キットに影響を与えたとされる。また、1960年代には一部の進学塾が「160点換算」を宣伝文句に用い、受験生の間で「百六十を切ると箱が閉まらない」といった俗説が広まった。
批判と論争[編集]
160点セットに対する批判は、主に過剰な標準化と重さに集中した。とくにの連載記事では、「採点の公平さを担保する名目で、教師に木箱を運ばせる制度は本末転倒である」と論じられた[4]。これに対して制度擁護派は、木箱の重さこそが「評価の覚悟」を可視化するのだと反論している。
また、1938年に内部で起きた「空箱事件」では、160点セットのうち実物が147点分しか納入されなかったにもかかわらず、帳簿上は満額扱いとされていた。監査報告書には「不足分13点は慣行により後日補填」とだけ記されており、この曖昧な処理が後年まで議論の的となった。
歴史[編集]
前史[編集]
160点セット以前にも、末期の学校現場では「七十二点包」「九十八点函」などの試案が存在した。しかし、いずれも部品数が中途半端で、監督官が数え間違えるという問題があった。そのため、整数として扱いやすく、かつ過剰に見えない160という値が選ばれたとされる。
なお、当時の教育学者は「160は人が持ち運べる最大の理性である」と述べたと伝えられているが、原稿は焼失しており確認できない。
最盛期[編集]
最盛期は9年から16年頃で、全国の旧制中学校のうち約63%が何らかの形で160点セットを採用していたと推定される。とくにでは、雨天時に箱が滑りやすいことから、底面に薄いゴムを貼る改良が進み、これが後の文具業界における「防滑処理」の原型になったともいわれる。
1937年の統計では、年間の製造数は2万4800箱、補修用部材は6万3100点に達したとされるが、内訳には軍需転用分が含まれていた可能性があり、数値はやや不安定である。
衰退[編集]
終戦後、による教育制度整理の過程で、160点セットは「過度に事務的である」として段階的に廃止された。もっとも、現場では1950年代半ばまで試験監督用の木箱だけが流用され、箱の中に赤鉛筆ではなく飴を入れていた学校もあったという。
この名残は、の古い倉庫から1978年に発見された3箱のうち1箱に、未使用の点数札が159枚しか入っていなかったことから、逆説的に研究熱を呼び起こした。研究者の間では、残る1枚は「制度の象徴としてあえて空けられていた」とする解釈が有力である。
社会的影響[編集]
160点セットは、単なる学校用品を超えて、「配ることそのものが統治である」という行政感覚を社会に浸透させた。町内会の防災訓練、会社の朝礼、さらにはの青年団の作文大会にまで模倣が及び、何でもセット化する風潮を生んだとされる。
一方で、過剰包装の象徴としても扱われ、1980年代には環境団体が「箱から出せ、点から解放しろ」と訴えるキャンペーンを展開した。これにより、紙箱の再利用率は一時的に14%上昇したが、同時に「160点型リサイクル箱」を名乗る無関係な商品の乱発を招いた。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『採点器具標準化史』教育計量社、1934年、第2巻第1号、pp. 11-39.
- ^ 高見沢宗助「160点制と封緘資材の合理化」『文政研究』Vol. 18, No. 4, 1936, pp. 201-226.
- ^ 石黒恒次郎『教育具の重量と権威』東京試験出版、1932年.
- ^ 文部省標準計量局編『160点セット配備要覧』内閣印刷局、1937年.
- ^ S. Arakawa, “The Geometry of Administrative Boxes,” Journal of East Asian Bureaucratic Studies, Vol. 7, No. 2, 1954, pp. 88-113.
- ^ 林田久美子『旧制学校と点数文化』青弓社、1988年.
- ^ T. K. Morita, “On the 160-Point Packing Doctrine,” Proceedings of the Tokyo Symposium on Educational Instruments, Vol. 3, 1961, pp. 144-159.
- ^ 大阪毎日新聞文化部『箱の重さは公平か』大阪毎日新聞社、1935年.
- ^ 佐伯千鶴『戦後事務用品の系譜』河出書房新社、2001年.
- ^ M. E. Thornton, “Excessive Standardization and the Japanese School Box,” Pacific Review of Invented Systems, Vol. 12, No. 1, 1979, pp. 5-28.
外部リンク
- 文部省標準資材アーカイブ
- 東京高等試験倉庫デジタル館
- 旧制学校文具研究会
- 封緘具史料室
- 160点制度研究フォーラム