1932年世界多発戦艦消滅事件
| 発生日時 | 1932年1月18日 - 1932年11月29日 |
|---|---|
| 発生地点 | 北大西洋、北海、太平洋、地中海 |
| 原因 | 測位誤差、電波屈折、軍港内儀礼燃料の混入 |
| 被害 | 戦艦11隻喪失、行方不明乗員約4,800名 |
| 影響 | 各国海軍の航法規定改正、対消失灯の制定 |
| 調査主体 | 国際海軍航法特別委員会 |
| 通称 | 十三隻の霧 |
| 関連項目 | 戦艦、航法、電波屈折、軍港 |
1932年世界多発戦艦消滅事件(せんきゅうひゃくさんじゅうにねんせかいたはつせんかんしょうめつじけん)は、に・・などで同時多発的にが消息を絶ったとされる一連の海難・軍事混乱である。のちに各国海軍のとの不整合が引き金になった事件として研究され、海軍史と気象学の境界領域で広く知られている[1]。
概要[編集]
1932年世界多発戦艦消滅事件は、、、、の主力艦が、互いに無関係な海域で相次いで失踪したとされる事件である。公式には個別の事故として処理されたが、後年の文書公開により、いずれも同一周期のとの再校正失敗が重なっていたことが示唆された[2]。
この事件は、単なる軍事史上の迷宮としてではなく、初頭の海軍技術が抱えていた「巨大化した艦体ほど、海よりも記録に沈む」という逆説の象徴として扱われることが多い。また、事件後にの下で航法安全基準案が急造されたことから、のちの制度の原型をなしたともされている。
もっとも、当時の海軍関係者の証言には著しい食い違いがあり、消失した艦の一部は実際には秘密演習に転用されていたとする説も根強い。特に沖で「第七号艦のみが灯火をつけたまま薄明の中へ消えた」とする証言は有名であるが、現存する報告書の写しはすべて同じタイプライターで打たれており、後世の研究者を困惑させている[3]。
背景[編集]
戦艦拡張競争と測位制度の限界[編集]
後、各国海軍では戦艦の巨艦化が進み、はしばしば3万トンを超えた。一方で航法は依然として、、および艦橋当直士官の経験に依存しており、晴天以外では誤差が急増したとされる。
特にからにかけて、北半球では観測史上例のない「薄膜状の高層霧」が多発し、これが艦隊の位置推定を数海里単位で狂わせた。海軍文書ではこれを「現象」と呼び、艦船が海図上では無傷でも、実際には別の海峡へ流れていくように見えたという。
軍港儀礼燃料の流通[編集]
事件前夜、いくつかの軍港では儀礼用の黒色燃料「」が導入されていた。これは艦礼砲の発火安定化を目的とするもので、と軽質油を混ぜたものとされるが、成分比は省庁文書ごとに異なる[4]。
、、では、この燃料が通常の補助ボイラーに誤って注入された記録があり、煙突から出る蒸気が夜間の無線電波を反射・散乱させたと考えられている。このため、艦は「見えているのに、位地だけが消える」状態に陥ったという説が有力である。
経過[編集]
北海での最初の失踪[編集]
最初の事例は、近海で発生したとされる。の戦艦「HMS Valiant II」は、曳航演習に向かう途中で突然レーダー以前の方位記録から消失し、最後の電信には「舷窓に星が入る」とだけ残されていた[5]。
同艦は翌朝、の浅瀬に無人で座礁しているのが発見されたが、艦内の食堂には温かい紅茶が三杯分残っていたという。なお、艦橋時計は13分進んでおり、この「13分」という数字がのちの通称の由来になったともいわれる。
太平洋と東アジア海域の連鎖[編集]
にはで2隻が同時に失踪した。所属の練習艦と、方面へ向かっていた米戦艦が、ほぼ同時刻に無線沈黙へ入ったのである。日本側の記録では、艦長が「海面に格子が浮いた」と述べた直後、羅針儀が全方位を示したまま停止したとされる。
米側の報告書には、艦尾から放たれた探照灯が雲底ではなく「低い霧の裏側」に吸い込まれたとあり、これがの初観測例として引用されることもある。ただし、現代の研究者の多くは、当時の通信係が電波雑音を過剰に文学化しただけだと見ている。
地中海での終局[編集]
事件の終盤、ではフランスの戦艦「FNS Marianne-Sud」が沖から出港後、半日で所在不明となった。翌週、その船体の一部にあたるとみられる鋲列が港の防波堤で発見され、新聞各紙は「海が船を返した」と報じた。
しかし、引き揚げられた鋲は実際には艦の外板ではなく、軍楽隊の譜面台を固定するための補助金具であったことが後に判明した。この誤認が事件全体の混乱を象徴しているとされる。
調査と解明[編集]
事件後、はで臨時会合を開き、各国の記録を照合した。その結果、消失したとされた11隻のうち4隻は秘密演習、3隻は港外での通信試験、2隻は単純な座礁、残る2隻は記録庫の焼失により存在自体が確認不能であると結論づけられた[6]。
もっとも、委員会が採用した最終報告では、これらを一括して「海象・測位・艦内儀礼の三重事故」とすることで政治的整合性が図られた。とくにの気象局が提出した「海面における光の縁取りが戦艦の大きさを誤認させた」とする図版は有名で、のちの航海教本に長く転載された。
また、の教授は、事件の核心を「巨大艦は消えたのではなく、報告書の上でだけ消去された」と定式化した。これは海軍機密の文書管理があまりに複雑であったため、実艦より先に記録が失踪することが制度化されていたという、半ば諷刺的な指摘である。
社会的影響[編集]
事件は各国海軍のを大きく改めた。とりわけに採択された「対消失灯規則」により、戦艦は霧中でも前部・後部・煙突頂部の3点を点灯することが求められた。この規則は民間船舶にも波及し、結果として港湾の夜景が著しく明るくなったと記録されている。
一方で、事件をきっかけに軍艦の巨大化そのものが見直され、による艦型制限が一段と厳格化された。造船所では「消える船を作るより、見失えない船を作れ」という標語が掲げられたが、実務上はどちらも同じ予算で処理されたという。
なお、一般社会では「十三隻の霧」という語が流行し、の新聞小説や歌謡曲にまで用いられた。特にの喫茶店では、黒いコーヒーに白いミルクを一滴落とす飲み方が「戦艦割り」と呼ばれ、事件後半年で注文数が17%増えたという調査がある[7]。
批判と論争[編集]
事件の実在性そのものを疑う研究者も少なくない。彼らは、失踪したとされる戦艦群の一部に共通する航海日誌の筆跡が、いずれもの同一速記班によるものである点を問題視している。また、艦名の末尾に「II」や「-Sud」が多いことから、後世の資料編者が便宜上つけた仮称ではないかとの指摘もある。
これに対し、擁護派は、の各資料館に残る燃料サンプルと写真乾板の化学反応が一致することを根拠に、少なくとも何らかの「同時消失現象」はあったと主張する。ただし、その反応が何を意味するのかについては、今日なお一致した見解がない。
もっとも奇妙なのは、事件に関する一次資料の多くが、最初のページだけ妙に丁寧で、二ページ目以降が急に箇条書きになる点である。このため、では「消失事件とは、船ではなく記述が消えた事件だった」とする逆転解釈も提示されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ エドワード・C・ホイットビー『1932年戦艦失踪記録の再検討』Journal of Maritime Anomalies, Vol. 14, No. 2, pp. 33-71, 1958.
- ^ 三好 恒一『海鳴油と軍港電波の相互作用』海軍気象研究, 第8巻第1号, pp. 12-29, 1964.
- ^ Margaret A. Thornton, "Multiple Disappearances in Interwar Naval Records," Naval History Quarterly, Vol. 22, No. 4, pp. 201-244, 1977.
- ^ 田辺 俊作『対消失灯規則の制定過程』港湾行政史研究, 第3巻第2号, pp. 88-116, 1981.
- ^ Jean-Luc Moreau, "Le cuirassé qui s'effaça: un cas de brouillard administratif," Revue d'Histoire Maritime, Vol. 9, No. 3, pp. 145-168, 1990.
- ^ 国際海軍航法特別委員会編『1932年世界多発戦艦消滅事件 最終報告書』ジュネーヴ文書局, 1933.
- ^ 佐伯 みどり『白い海現象と高層霧の記述学』気象と海象, 第17巻第5号, pp. 9-41, 1996.
- ^ Alan P. Greaves, The Vanishing Battleships: Signal Loss and Imperial Confusion, Oxford Maritime Press, 2004.
- ^ 小田切 一郎『軍港儀礼燃料の民俗学』海風社, 2011.
- ^ Katherine L. Morrow, "When Ships Become Paper: Archival Erasure in Naval Bureaucracy," Archives and Oceans, Vol. 6, No. 1, pp. 1-26, 2018.
外部リンク
- 国際海軍航法特別委員会アーカイブ
- ジュネーヴ海事資料室
- 白い海現象研究会
- 対消失灯規則保存協会
- 海鳴油民俗博物館