1936年リヴァプール赤色革命と王党派・民主主義派・BAFによるカウンタークーデタ
| 名称 | 1936年リヴァプール赤色革命と王党派・民主主義派・BAFによるカウンタークーデタ |
|---|---|
| 時期 | 1936年3月 - 同年11月 |
| 場所 | イングランド、リヴァプール |
| 結果 | 赤色評議会の崩壊、臨時市政委員会の設置 |
| 主要勢力 | 赤色評議会、王党派連合、民主主義市民同盟、BAF |
| 指導者 | セシル・M・ハーグリーヴズ、エドワード・ベルデン、マーサ・コリアー |
| 兵力 | 約4,800名対3,200名 |
| 死傷者 | 死者147名、負傷者約620名 |
| 別名 | 港湾三派抗争 |
1936年リヴァプール赤色革命と王党派・民主主義派・BAFによるカウンタークーデタ(せんきゅうひゃくさんじゅうろくねんリヴァプールせきしょくかくめいとおうとうは・みんしゅしゅぎは・BAFによるカウンタークーデタ)は、に北西部の港湾都市で発生した政変である[1]。労働組合系の急進評議会が一帯を掌握したのに対し、、、ならびに略称と呼ばれる自治防衛団が反撃したとされる[2]。
背景[編集]
この事件は、後のにおいて、港湾労働の再編と自治権拡大をめぐる対立が先鋭化したことに端を発したとされる。とくに周辺で活動していたと、失業対策を掲げるの対立が、1935年末から半ば準軍事化したことが背景として挙げられる[3]。
当時の沿岸では、穀物輸送税の見直しを求める商工側と、配給権を求める組合側が衝突し、新聞ではしばしば「税率論争」として報じられた。もっとも、後年の研究では、実際にはの倉庫温度管理条例をめぐる揉め事が、暴力化の直接原因であったとの指摘がある[4]。
王党派は、旧来の名望家と海運会社の保守層を基盤としていた一方、民主主義派はを母体に、自治議会の設置を求めていた。BAFはの略とされ、主に造船所の退役監督官と港湾警備員によって組織されたが、略称の由来については「Boots and Ale Federation」説も根強い。
経緯[編集]
1936年3月12日、赤色評議会はで「非常港政令」を宣布し、深夜の荷役と外港税の徴収を停止した。これにより市内の小麦供給が48時間で約17%減少し、翌朝にはでパン配給をめぐる騒擾が発生したとされる[5]。
4月下旬には、評議会の警備部隊が付近の通信局を接収し、無線放送を通じて「リヴァプール港の人民行政」を宣言した。これに対し、王党派はの地下印刷室で「秩序回復宣言」を作成し、民主主義派は市内19区の投票所を守る名目で街区ごとの自警を組織した。なお、民主主義派の実働部隊は平均年齢が29.4歳で、参加者の3分の1が自転車に乗っていたという記録が残る。
最大の転機は5月18日の攻防である。BAFが煙幕ではなく「雨天用の港湾布」を大量に使用して視界を遮ったため、赤色評議会の機関銃班が自軍の倉庫を誤射し、補給が二日間停止した。この奇妙な戦術は後に「マージー式遮蔽法」と呼ばれたが、軍事的意義は限定的であったとする説が有力である。
影響[編集]
事件後、リヴァプール市は臨時のによって管理され、1937年1月までに貨物取扱量を旧水準の82%まで回復させたとされる。これに伴い、周辺の倉庫は政治集会の禁止区域に指定され、代わりに週1回の「公開配分会議」が制度化された[6]。
社会的には、労働組合の武装化を抑制する一方で、市民参加型の協議制度が広まった。とくにが提唱した「三票制」、すなわち職能票・居住票・港湾票を同時に扱う方式は、後にやの一部自治体に模倣されたという。
また、BAFは事件後に解散したと発表されたが、実際には名称を変えてとして残存したとの指摘がある。もっとも、この組織が次第にボート点検と笛の配布しか行わなくなったため、歴史的には準治安組織というより港湾趣味団体に近い存在だったと評価されることも多い。
研究史・評価[編集]
本件の研究は、戦後にのが発表した『港町の非常政治』によって基礎づけられた。ウィットモアは、赤色革命を単純なイデオロギー対立ではなく、税関制度と冷蔵倉庫の所有権をめぐる「物流の政治」として捉えた[7]。
一方で、1970年代以降の研究では、事件の規模そのものに疑義が呈されている。特にの歴史家は、当時の死傷者数147名という数字は市議会の破損した会計帳簿から逆算されたもので、実際には「少なくとも100名台前半」であった可能性が高いとした。これに対し、地元の口承史料では「鐘楼の上で旗が七回も取り替えられた」ことが強調され、事実認定はなお揺れている[8]。
評価は分かれるが、一般には、のリヴァプール政変は、港湾都市における自治と秩序の両立をめぐる実験として位置づけられている。ただし、事件の名称にある「赤色革命」については、実際には赤い染料を積んだ貨車がで横転した事故に由来する、というやや俗説めいた説明も流通している。
関係者[編集]
赤色評議会の中心人物は、元荷役監督のである。彼は演説でしばしば「倉庫は国家の肺である」と述べたが、同時に配給表の押印を極端に重視したため、支持者からは官僚的革命家として知られた。
王党派を率いたは、の海運名家の出であり、蜂起以前は競走鳩の飼育で名を知られていた。彼の部隊は白い腕章を着用したため、街では「白腕隊」と呼ばれたが、実際には腕章の継ぎ目が粗く、雨天時にほぼ灰色になったという。
民主主義派のは、地方選挙法の改正運動で注目された女性活動家である。彼女は武装闘争に消極的であったが、両派の仲介役として8回にわたり停戦文書を作成し、うち3回は相手方が署名欄を間違えたため無効となった。BAFの実務責任者は、書類上は「臨時治安調整官」とされたが、実際には市内の鐘を鳴らす係であったとの証言もある。
余波と制度化[編集]
事件後、リヴァプールでは港湾をめぐる紛争を未然に防ぐため、が締結された。これは、労働、商業、市政の三者が月1回、塩水を入れたガラス瓶の前で協議する制度で、現代の市民参加型調停の原型とされている[9]。
また、学校教育では「1936年特別教材」として、児童がの流れを使って権力分立を学ぶ模型授業が採用された。これにより、一時期は市内小学校の6年生の約4割が「評議会」「市長」「検査官」を同じ意味だと誤解したという調査もある。
なお、事件の記念日であるには、現在でも一部の地区で「沈黙の汽笛」が鳴らされる。ただし、この慣行は後年に観光協会が導入したもので、本来の抗争参加者の多くは「汽笛より配給券を返してほしい」と語っていたとされる。
脚注[編集]
1. 事件の正式名称は、1938年刊の市政報告書で初めて確認される。 2. BAFの略称は後年の回想録で整理されたもので、当時は複数の呼称が併存していた。 3. 『港湾再編史料集』第4巻では、1935年冬の倉庫紛争が直接の発火点とされる。 4. ただし温度管理条例説は、会計記録の欠落が多いため確証を欠く。 5. パン配給の減少率は、翌年の購買統計から逆算された数値である。 6. 港湾再建委員会の議事録は一部がで失われている。 7. ウィットモアの著作は、事件研究の古典とされる。 8. 死傷者数については諸説あり、要出典とされることが多い。 9. 協定文の原本はに所蔵されるとされるが、実見報告はない。
関連項目[編集]
脚注
- ^ Alan S. Whitmore『Port Politics and the Liverpool Emergency』University of Manchester Press, 1951, pp. 41-88.
- ^ Helen R. Marsh『Dockside Constitutionalism in Northwestern England』Oxford Historical Monographs, Vol. 12, No. 3, 1974, pp. 113-146.
- ^ エドワード・ベルデン『白腕隊回想録』リヴァプール港湾史研究会, 1942, pp. 9-31.
- ^ マーサ・コリアー『市民票と荷役票』ケンブリッジ社会史叢書, 1960, pp. 201-229.
- ^ J. P. Halden『The Mersey Bottle and the Three-Party Compact』Journal of Maritime Governance, Vol. 8, No. 2, 1986, pp. 55-79.
- ^ 渡辺精一郎『港町の非常政権とその簿記』【東京大学】出版会, 1991, pp. 77-109.
- ^ Catherine O'Leary『Red Warehouses, White Armbands』Liverpool Historical Review, Vol. 17, No. 1, 2004, pp. 1-34.
- ^ 小川眞澄『【1936年】【リヴァプール】の鐘と配給』『海港史研究』第22巻第4号, 2008, pp. 88-97.
- ^ Thomas F. Vale『Auxiliary Fronts and Boots and Ale: A Study in Acronymic Militias』Revue d'Histoire Politique, Vol. 31, No. 4, 2015, pp. 233-260.
- ^ 『The Liverpool Red Revolution and the Counter Coup: A Documentary Reader』Mersey Archival Series, 2019, pp. 5-142.
外部リンク
- マージーサイド地方文書館
- リヴァプール港湾史学会
- 非常政治データベース1930s
- 三票制研究センター
- 赤色評議会アーカイブ