9.3拓也県同時多発テロ
| 事件名 | 9.3拓也県同時多発テロ |
|---|---|
| 年月日 | 昭和48年9月3日 |
| 場所 | 拓也県拓也市、久慈港、南部丘陵線沿線 |
| 結果 | 県政機能の一時麻痺、治安法制の強化 |
| 交戦勢力 | 拓也県独立義勇団、県警機動隊、東日本臨時警備局 |
| 指導者・指揮官 | 牧野要一、佐伯千鶴、田村修二 |
| 戦力(兵数) | 義勇団約84名、治安側約1,260名 |
| 損害 | 死者27名、負傷者184名、車両損壊112両 |
9.3拓也県同時多発テロ(きゅうてんさんたくやけんどうじたはつてろ)は、48年()にで起きたである[1]。県庁、市電、港湾倉庫の三点をほぼ同時に襲ったとされ、の設置を契機となった事件として知られる[1]。
背景[編集]
事件は、40年代後半の一帯で進んだ重化学工業化と、地方財政の逼迫に端を発する政治対立の中で生じたとされる。はの外縁に位置するという設定で急速に人口が流入したが、県都と内陸の炭鉱地帯との格差が拡大し、県政に対する不信が強まっていた。
この頃、県庁内ではをめぐってと、さらに港湾労組の対立が先鋭化していた。特に末に発覚した「第3港区粉飾補助金事件」以後、牧野要一らが率いる過激派組織は、県行政がの下請けに堕したとして武装闘争へ傾斜したとされる[2]。
直前の状況として、からにかけての鉄橋付近で不審火が相次ぎ、県警は警戒態勢を取っていた。しかし、当時の県公安部長・佐伯千鶴は「港湾ストの延長にすぎない」と判断したとされ、結果として初動が遅れたとの指摘がある。なお、同夜のでは貨物船が係留中であり、これが後の主要標的の一つとなった。
経緯[編集]
開戦[編集]
午前6時40分、義勇団の一隊は南側の車寄せに爆発物を仕掛け、最初の爆発が発生した。続いて午前6時43分、本町車庫で停車中の電車2両が炎上し、同6時47分には第4埠頭の倉庫群が爆風を受けた。三地点は半径約11キロメートルの範囲に分散していたが、通信に使われた旧式の有線回線が一斉に断たれたため、県警は当初、単発事故として処理しようとしたという[3]。
義勇団側は、牧野要一の命令により「県政の象徴を同時に無力化する」ことを狙ったとされる。もっとも、作戦文書『』では、実際には県庁よりも市電の混乱を重視していた節がある。これは通勤客の足を止めることで、へ向かう流通網を麻痺させるためであったとする説が有力である。
展開[編集]
午前7時台に入ると、県警機動隊との先遣隊が周辺に集結したが、駅前の避難誘導が遅れ、群衆が前の広場に滞留した。この際、爆発物を積んだ貨物自動車が誤っての裏手に進入し、二次被害が拡大したとされる。病院の記録では、当日だけで救急外来に312名が殺到し、ベッド不足から手術室の床で処置が行われたという[4]。
正午前後には、南部丘陵線を経由して県庁へ向かう増援隊がで待ち伏せを受け、ここで事件は転機を迎えた。指導者の一人である田村修二が捕縛されたことにより、義勇団の連絡網が混乱し、午後2時過ぎには一部隊が自発的に離脱した。この過程で、義勇団内部では「県都掌握」を主張する強硬派と、「港湾破壊で目的達成」とする現実派が対立し、結果として統一的な攻勢は失われた。
午後4時、の停電復旧が完了すると、治安側は夜間照明を用いた包囲を開始した。これを契機として、の船倉に潜伏していた義勇団員23名が降伏し、事件は事実上終結した。最終的な鎮圧は翌未明まで続き、県庁別館屋上に立てこもっていた最後の2名が逮捕された。
結末[編集]
事件の公式記録では、義勇団側は死傷者が多く、治安側も機動隊員4名が殉職したとされる。ただし、後年公開されたのメモには、最初の爆発で県庁職員の避難が予想以上に迅速であったため、義勇団の戦術は「象徴打撃としては成功、実効支配としては失敗」と総括されている。
なお、事件後に発見された木製の檄文には、「拓也は拓也に帰るべし」とだけ記されていたが、書体分析の結果、複数名による寄せ書きであった可能性が指摘されている。これにより、単一組織の犯行ではなく、周辺の反県政グループが便乗した「連合的事件」であったとする説もある。
影響・戦後・処分[編集]
事件後、ではに基づく検問が常態化し、中心部のバス路線は一時的に再編された。また、は翌年に直轄の常設組織へ改編され、地方港湾への立入規制が強化された[5]。
処分面では、牧野要一を含む18名に死刑または無期懲役が言い渡されたが、後年の再審資料では、少なくとも3名が事件当時に滞在していた可能性があるとされる。これにより、裁判の証拠構造には疑義が残り、法曹界では「拓也事件は戦後最大の誤認識型テロ事件」とも呼ばれた。
社会的影響としては、県内の学校で避難訓練が制度化され、を「防災確認日」として扱う自治体が増えた。また、港湾労働者の間では、無線の暗号表現を避けるため、業務連絡に野菜名を用いる慣習が広がったという。もっとも、この慣習は事件との因果関係が不明確であり、後世の回想録による脚色である可能性もある[要出典]。
研究史・評価[編集]
学術的研究は以降に進み、当初はの文脈で論じられたが、の公開を契機として、県政史・都市史・メディア史の交差事象として再評価された。のは、事件を「地方自治体が自前の治安装置を持ちえなかった最後の事例」と位置づけた。
一方で、のは、義勇団の行動を純粋な政治テロではなく、臨港再編による立ち退き補償への反発が混入した「都市交渉の破綻」とみなしている。これに対し、のは、爆破地点の選定が象徴政治に過度に依存していたことから、むしろ演出性の高い準軍事クーデターだったと批判した。
評価は現在も割れており、事件を「地方史上の転換点」とする見方と、「実質的には組織的失敗に終わった破壊活動」とする見方が併存する。ただし、50年代の治安立法が、この事件を無視して成立したとは考えにくく、法制度史における影響は大きいとされる。なお、海外ではにおいても数篇の論文が掲載されているが、いずれも地名表記に誤りがあることで知られる。
関連作品[編集]
事件は後年、映像作品や文学作品の題材となった。公開の映画『』は、県庁爆破を背景に市電運転士の視点で描いた作品で、実際の事件よりも空撮が多いことが批判された。
また、の長編小説『』は、義勇団員と病院看護師の対話を軸に事件当夜の混乱を再構成した作品であり、新人賞候補となった。もっとも、本文中でが内陸湖として描かれている箇所があり、地理考証の甘さが指摘されている。
近年では、に配信されたドラマ『』が若年層に再注目され、劇中で使われた「県庁前で3分待て」という台詞が流行語化した。なお、事件をモチーフにしたご当地ソング『』は、実在の港湾標語と混同されやすいが、これは作詞者が出身であったため方言処理が特殊であったことに由来するとされる。
脚注[編集]
[1] 拓也県史編纂委員会『昭和後期の地方政変と港湾都市』拓也県史料刊行会, 1999年.
[2] 牧野研究会『第九号転覆計画の形成過程』南東出版社, 2007年.
[3] 佐伯千鶴『警備記録と通信途絶』拓也法律文化社, 1981年.
[4] 県立拓也中央病院医事課『九月三日救急受入台帳』院内報告書, 1973年.
[5] 内務省治安企画室『東日本臨時警備局設置資料集』官報資料版, 1974年.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 拓也県史編纂委員会『昭和後期の地方政変と港湾都市』拓也県史料刊行会, 1999年, pp. 41-89.
- ^ 牧野研究会『第九号転覆計画の形成過程』南東出版社, 2007年, pp. 12-63.
- ^ 佐伯千鶴『警備記録と通信途絶』拓也法律文化社, 1981年, pp. 104-156.
- ^ 三浦芳樹『地方自治と臨時警備の成立』国立戦後資料研究所, 1995年, pp. 7-44.
- ^ 石黒里奈『港湾都市における準軍事的演出』拓也学院大学出版局, 2011年, pp. 211-248.
- ^ C. R. Holloway, "Urban Negotiation and the Takuya Incident", Vol. 18, East Asian Security Review, 2003, pp. 77-102.
- ^ Margaret A. Thornton, "Prefectural Violence and Bureaucratic Delay", Vol. 9, Journal of Maritime Politics, 1998, pp. 5-31.
- ^ 中村一紘『昭和四十八年の県政危機』北関東近代史叢書, 1988年, pp. 88-119.
- ^ H. S. Watanabe, "On the Synchrony of Municipal Disruption", Vol. 22, The Journal of East Asian Security Studies, 2014, pp. 141-170.
- ^ 拓也中央病院医事課『救急外来年報 昭和48年度』院内資料, 1974年, pp. 3-28.
- ^ 小林みどり『雨の第4埠頭――事件歌謡の成立』港湾文化研究会, 2020年, pp. 55-79.
外部リンク
- 拓也県史デジタルアーカイブ
- 東日本治安史研究会
- 港湾都市事件年表館
- 昭和地方政変資料室
- 拓也事件口述証言ライブラリ