おここ
| 領域 | 生活作法・音環境・衛生規範 |
|---|---|
| 主な用途 | 通話/接客の前後に行う「短い調律」 |
| 実施時間 | 平均 2.7〜4.1秒(地域差があるとされる) |
| 起源とされる時期 | 江戸後期末〜明治初期 |
| 代表例 | 「おここ(=喉頭の準備)」→ 発声 |
| 関連概念 | 吸気整声法・間拍呼吸・調音衛生 |
おここ(おここ)は、音と衛生の両方を「調律」するという趣旨で普及したとされる、日本の微小な日常規範である[1]。口語では「おここしてから話せ」などの形で用いられ、特に市井の接客や通話の作法に関係づけられてきた[1]。
概要[編集]
おここは、会話や挨拶の直前に行うとされる短時間の所作(主として声の発出前の呼吸・口腔姿勢の“整え”)である[1]。音響工学や衛生学の文脈では「調律された発声が、聞き手側の聞き取り負荷を下げる」という説明が付されることが多い[2]。
成立の経緯は、明治期の電話交換網の増設と、都市部での咽頭刺激(乾燥・粉塵)に対する経験則が結びついたことに求められるとされる[3]。もっとも、学術的には測定が難しく、用語の運用は地域・業種ごとに変形してきたと指摘されている[2]。このため、おここは「一つの動作」というより「説明のされ方が共有された型」として扱われることが多い。
なお、昭和後期には専門誌で「おここ指数」と呼ばれる擬似指標が流通し、街の接客講習や企業研修にも取り入れられた[4]。その結果、用語は一見すると便利な標語として定着したが、同時に“儀式化”による反発も生んだとされる[5]。
語源と用語[編集]
語源については複数の説があり、最も流布したのは「口腔の位置を“おく”→“ここ”で固定する」という方言的な言い回しを元にしたという説である[6]。この説では、おここは子音の出し方(とくに破裂音の前後の息継ぎ)を整える合図だったと説明される[6]。
一方で、音響業界では「O(口の形)-Koko(一定の共鳴点)」の略ではないかとする説も見られる[7]。ただし語源辞典の側では、この略語説は後世の“説明付け”である可能性があるとして慎重に扱われることが多い[7]。また、通信機器の保守現場では「おここ」は検査時の合図(“異常ここ無し”)が転じたという俗説も紹介されている[8]。
用語の運用例としては、「おここしてから失礼します」「おここ無しの謝罪は通らない」など、接客文の前に置く定型化があったとされる[5]。この定型は、聞き手側の“違和感”を減らすための実務的な工夫として受け止められたとされる。
歴史[編集]
江戸末期の“咽音”対策と電話時代の合流[編集]
おここが生まれた背景として、江戸末期の役所・商家で行われた「咽音(いんおん)点検」がしばしば挙げられる[9]。当時の帳簿では、朝の営業開始前に「声が籠らぬか」を筆記で照合する習慣があったとされる[9]。この照合は、湿度や粉塵の影響を“経験的に”見ていたもので、実際の手順としては「息を短く整え、口唇の形を同じ角度に保つ」といった内容が含まれたと説明される[9]。
明治に入ると、の電話交換所の増設により、乾燥した室内での通話が増えたとされる[10]。交換手の失声・咽頭痛が問題化し、衛生向け講習の中で「発声直前の整え」の必要性が、経験則として整理された[10]。この講習の最終章で“短い調律”を合図する言葉として「おここ」が用いられたとする記録が、後年の回想文に残っているとされる[11]。
さらに、当時の交換所はにも多数の分室があったため、手順は同じでも言い回しが微妙に揺れたと推定されている[10]。この揺れが後の“方言化”の土台になったと見る説がある。
研修制度化と「おここ指数」の流行[編集]
大正末期から昭和初期にかけて、企業の顧客対応が標準化される流れの中で、おここは「声の立ち上がりを揃える作法」として再解釈された[12]。特にやの前身組織に近い講習で“一定の秒数”を目安にする試みがあったとされる[13]。
そこで生まれたとされるのが「おここ指数」である。ある研修記録では、平均2.7秒で発声した場合は“聞き手の復唱率”が14.3%上昇した、といった数値が書かれている[4]。ただし当該記録は小規模調査で、母集団が20名程度だった可能性があると後年の編者が注記している[4]。この注記の存在こそが“嘘っぽさ”を生む要因でもあると指摘される。
一方で、指数は過度に運用され、店舗やコールセンターでスタッフが互いの声を測るようになったとされる[14]。この結果、おここが「相手のため」から「自分が正しく見えるため」へと変質した、という批判が生じた[5]。それでも制度は残り、「通話前のおここは守るべき」といった校則のような扱いが広まったとされる。
社会的影響[編集]
おここは、特定の職業(電話交換手、窓口係、病院の受付など)における“失礼の少なさ”を支える作法として機能したとされる[15]。とくに聞き返しが発生しやすい環境(強い空調、換気による乾燥)では、発声の前準備が会話の連続性に寄与するという説明が与えられた[15]。
また、おここは衛生指導とも結びつき、口腔の保湿やうがいのタイミングとセットで語られるようになった[16]。この組み合わせは「調音衛生」と呼ばれ、受付に設置された小型掲示板(いわゆる“声の衛生ボード”)に図解されたとされる[16]。掲示板には「おここ→うがい→発声」の順番が示され、所要時間を3分以内とする縛りまであったという[16]。
社会面では、おここが“丁寧さの可視化”に利用された点が大きいとされる。つまり、お客が求めるのは言葉そのものだけではなく「発声に至るまでの節度」だと考えられたのである[17]。そのため、おここは敬語の研究と並行して、接客技術の一部として教材化され、若手の“型”として定着したと説明される[17]。
実在したかのように語られるエピソード[編集]
の市立図書館で行われたとされる「読み聞かせ声道キャンプ」では、おここの実施時間を“呼吸の残り拍”で判定する独自方式が採用されたという[18]。指導員は「2.7秒の人は語りが転ぶ、4.1秒の人は間が冗長」と断言したと伝えられる[18]。この言い回しは科学的根拠が薄いにもかかわらず、参加者の間で“なぜか納得感がある”として記録された[18]。
また、の港湾関連企業では、朝礼の音頭を録音し「おここ無しの声」を赤枠で示す社内掲示があったとされる[19]。音響担当のという人物(実在の人物名とされるが、同名の別資料も混在する)が、録音波形に基づいて「ここが濁っている」と指摘し、翌月のコンプライアンス研修におここが組み込まれたという[19]。この逸話は一次資料が残っていないとする批判もあるが、研修資料の表紙に“おここは法律ではないが、守らないと通らない”といった文言があったとされる[19]。
さらに、地方局の公開番組では、司会が毎回「おここします」と宣言してから挨拶したため、視聴者投稿が急増したという[20]。投稿は「おここ無しの謝罪は不安」「おここしてから言われると安心する」といった内容が多く、言葉の説明が“感情の安全装置”として働いたと考えられた[20]。
批判と論争[編集]
批判としては、第一に“実測不能性”が挙げられる。おここは体感的な所作であり、厳密な計測法が統一されなかったため、指数や秒数が独り歩きしたとする指摘がある[4]。第二に、おここが儀式として固定化し、コミュニケーションの本筋(内容)を置き去りにしたという反論があった[5]。
一方で擁護側は、音の立ち上がりは聞き取りに影響するため、手順を持つこと自体は合理的だと述べたとされる[15]。とくにの内部報告では、「喉頭の準備に相当する短時間の姿勢変更が、聞き返しを減らす可能性」を示すとされる[21]。ただし同報告は公開版ではなく、閲覧可能性が限定されているとも記録されている[21]。
なお、最大の論争は“おここを免除する権利”の扱いである。電話交換所の一部では「体調不良時はおここ免除」と定められたとされるが、現場では免除申請が“面倒な評価”として機能してしまい、結局は全員がやってしまったという証言がある[22]。この逸話は、制度が生みがちな副作用を示すものとして引用されることがある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 鈴木朋治『声の調律文化史:おここ前夜』港北学術出版, 1987.
- ^ Margaret A. Thornton『Micro-Rituals in Urban Speech』Routledge, 1996.
- ^ 高橋修司『通話の衛生学と調音衛生』文京メディカル書院, 2001.
- ^ 佐々木玲『おここ指数の導入過程と評価』日本コミュニケーション学会誌, Vol.12 No.3, pp.44-59, 1978.
- ^ 田中万里『接客作法の定型化:標語としての声』朝潮書房, 1999.
- ^ J. Whitaker『Acoustic Onboarding Practices』Journal of Applied Phonetics, Vol.7 No.1, pp.10-22, 2003.
- ^ 山下静香『口腔姿勢と言い出しの短秒設計』東京音響叢書, 第2巻第1号, pp.101-130, 2010.
- ^ 編集部『全国受付講習記録集:第十三回』内務労働教育協会, 1932.
- ^ 加藤黎明『波形で見る礼儀:おここの“ここ”』港湾通信技術資料, 第4号, pp.1-18, 1964.
- ^ 遠藤礼『調音衛生ボードの図解史』日本博物音声学会紀要, Vol.5 No.2, pp.77-88, 1982.
外部リンク
- おここ研究会アーカイブ
- 声の衛生ボード博物館
- 都市音環境フォーラム
- 電話交換史デジタル資料館
- おここ指数の対話実験ログ