おなのら
| 名称 | おなのら |
|---|---|
| 読み | おなのら |
| 英称 | O-Nora |
| 分類 | 礼儀行為・都市習俗 |
| 起源 | 1908年頃 |
| 提唱者 | 渡辺精一郎、メアリー・E・グラント |
| 主な地域 | 東京、名古屋、京都、大阪 |
| 関連機関 | 帝都風俗研究会、内務省道路局 |
| 衰退 | 1974年以降 |
| 現代の残存例 | 観光案内、町内会行事 |
おなのらは、末期のとの境界で生まれたとされる、女性が長距離移動時に用いる「礼儀的方向宣言」を指す概念である。現在ではの一部商店街や沿線の観光案内で半ば儀礼として残っているとされる[1]。
概要[編集]
おなのらは、移動の開始前に行き先を音声で短く宣言し、周囲の者に「方角の共有」を求める慣行であるとされる。もともとはの路面電車利用者の間で、混雑時の衝突を避けるために生まれたという説が有力である[2]。
名称は「女のらり」から転訛したものとも、「御名の路」から生じた雅語とも説明されるが、の古文書班は、実際には車内広告の誤植を学生が誤読したことが発端であると報告している。この誤読は、のちに期の新中間層に広まり、礼儀と自己主張を両立させる珍しい作法として整えられた[3]。
起源[編集]
路面電車と女学生の往復[編集]
1908年、の下宿街で女学生たちが「上野方面です」「浅草へ参ります」と互いに言い合いながら歩いた記録が残る。これを見たは、移動先を先に言葉にする習慣が群衆の流動を滑らかにすると考え、に提出した報告書で初めて「おなのら」の語を用いたとされる[4]。
一方、の印刷所で働いていたメアリー・E・グラントは、荷車に乗る女性たちが「御名の路、御名の路」と唱える民間信仰を採集したとしており、これが学界で長く対立した。なお、両説は1912年の関東鉄道局主催「通行作法懇話会」で、議長が誤って両者を混ぜた資料を配布したことで、かえって統一理論に近い扱いを受けるようになった。
この時期のおなのらは、単なる言葉ではなく、右手を軽く胸に当てて進行方向を示す仕草を伴っていた。特にの百貨店前では、9割以上の女性客が入店時に実行したとする調査があり、1914年の『東京日報』には「おなのらをせぬ者、電柱に頭をぶつく」と極端な表現まで見える[5]。
制度化と普及[編集]
初期には、が安全標語として半公式に採用し、駅や橋の欄干に「一礼して、行先を言うべし」と書かれた木札を掲げた。木札は全国で約18,400枚作成されたが、実際に設置されたのは13,000枚に満たず、残りは地方の小学校で凧の材料に転用されたという。
1933年にはの一部車両で「おなのら優先席」と呼ばれる前方立席区画が設けられ、そこでは乗車前に行き先を告げると車掌が進路を簡略化してくれた。これにより、繁忙時の乗降時間が平均で11秒短縮したとされるが、同時に「宣言が大きい者ほど先に着く」という不公平が批判された。
また、1938年のでは、花街の案内役が観光客に向けて「北へおなのら、南へおなのら」と唱える練習帳を配布していた。これは後年の観光ガイドブックの原型とされ、旅館の女将が地域の景観を説明する際の定型句にもなった。
実践方法[編集]
おなのらの基本手順は、1. 目線を進行方向へ向ける、2. 右手で衣服の裾を軽く整える、3. 目的地を名詞で述べる、4. 近くの者が同方向なら短く応答する、の4段階である。1927年版『東京女性旅行便覧』では、発声は「三拍以内、声量は蚊の半分よりやや大きく」と細かく規定されていた[6]。
上級者は、からへ向かう際に「海沿い」、からへ向かう際に「山越え」といった地形的婉曲表現を用いたという。これは直接的な行先表示がはしたないとされた時代の名残であり、同時に道に迷った際の責任を周囲に分散させる巧妙な仕組みでもあった。
なお、1930年代後半には、百貨店のエレベーターガールが「三階へおなのら、四階へおなのら」と唱える独自様式を編み出し、これがの礼式講習に取り入れられた。ただし、講習録の一部には「毎回の宣言後に必ず会釈をすること」とあるが、実際の現場で守られたかは不明である。
社会的影響[編集]
交通安全への寄与[編集]
1941年から1944年にかけて、はおなのら実施地区での歩行者接触事故が約12.6%減少したと発表した。もっとも、この数値には夜間の交通量減少分が混ざっている可能性があるとして、後年の研究者からは慎重な扱いが求められている。
一方で、方向を言葉にする習慣は「迷いにくいが、迷っていることが周囲に即座に分かる」という副作用も生んだ。これにより、通勤者の半数近くが、実際には確信がなくても自信満々に目的地を告げるようになったとされる。
女性の公共空間への進出[編集]
おなのらは、女性が公共空間で移動の主導権を持つことを示す行為として解釈され、戦前の女性雑誌では「声のある道徳」と呼ばれた。の講演記録では、これが「遠慮の文化」を逆手に取った都市的自己表現であると評価されている。
ただし、同時に「行先を宣言しない女性は無作法」とする圧力も生み、地方では婦人会の指導が過剰化した地域があった。1948年の市内調査では、店先で目的地を言えなかったために買い物を断念した例が27件報告されている。
批判と論争[編集]
おなのらには、創始者問題をめぐる長い論争がある。渡辺精一郎派は学術的な整理を重視したのに対し、グラント派は現場の口承を優先したため、両者の資料はしばしば互いに食い違う。特に1921年の講演草稿に「女学生は東へ、私は西へ」とある箇所は、地理的整合性を欠くとして今なお注釈争いの対象である[7]。
また、戦後には「おなのらは女性にのみ要求される古い抑圧ではないか」とする批判が高まった。これに対し、保存派は「性別ではなく、公共の場で自分の動線を言語化する技術である」と反論したが、1974年の特集以降、日常習慣としては急速に姿を消したとされる。
近年では、観光復興の文脈で「令和おなのら」を復刻する動きがあり、の一部宿場町では、案内所で「東海道方面です」と唱えると記念札がもらえる。もっとも、2022年の実地調査では、参加者の約3人に1人が宣言の途中で笑ってしまい、儀礼としての厳格さは保ちにくいことが示された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『都市歩行と女学生の声』帝都風俗研究会出版部, 1911.
- ^ Mary E. Grant, The Oral Directional Customs of Eastern Tokyo, Journal of Imperial Ethnography, Vol. 3 No. 2, 1914, pp. 41-68.
- ^ 佐々木篤『おなのら考:通行礼式の成立』東京民俗学会, 1928.
- ^ 内務省道路局編『街路作法標語集』官報局, 1934.
- ^ 平山照子『車内礼儀と女性移動圏』日本交通文化叢書, 第2巻第4号, 1937, pp. 112-139.
- ^ K. Nakamura, The Institutionalization of O-Nora in Prewar Urban Japan, Kyoto Review of Social Forms, Vol. 9 No. 1, 1952, pp. 5-29.
- ^ 小野寺ミツ『行先を告げる女たち』新潮社, 1961.
- ^ 石原宏之『おなのらと公共空間の再編』都市文化評論, 第14巻第6号, 1975, pp. 201-226.
- ^ Margaret A. Thornton, Notes on the Misprinted Poster Theory, Bulletin of the Society for Urban Folklore, Vol. 12 No. 3, 1988, pp. 77-83.
- ^ 『令和おなのら実践ハンドブック』静岡宿場保存協会, 2021.
外部リンク
- 帝都風俗研究会デジタルアーカイブ
- 東京歩行儀礼資料室
- おなのら保存会
- 東海道礼式再興委員会
- 民俗交通文化研究センター