おんあおん
| 名称 | おんあおん |
|---|---|
| 読み | おんあおん |
| 英語表記 | On-Aon |
| 分類 | 音響術・空間共鳴法 |
| 成立 | 18世紀末 - 19世紀初頭 |
| 主な伝承地 | 東京都、神奈川県鎌倉市、京都市東山区 |
| 実用目的 | 囁きの秘匿、講談の強調、法要時の反響制御 |
| 禁則 | 連続三拍以上の拍手に弱い |
| 保存団体 | 日本空響学会保存部会 |
おんあおんは、音の反射と共鳴の位相差を利用して、聞き手に「二重に聞こえる沈黙」を発生させるとされる日本の古典的音響術である。江戸後期の寺院修復工事を起源とし、のちに周辺の寄席文化を通じて体系化されたと伝えられている[1]。
概要[編集]
おんあおんは、音を発する側ではなく、音が戻ってくる「間」を調律する技法であるとされる。一般には、木造建築の軒下や仏間、あるいはの高座で、声が一瞬だけ二重化して聞こえる現象を意図的に利用するものとして知られている[1][2]。
伝承上は、年間の寺院再建において、僧侶と大工が梁の角度をめぐって口論した末、「声が返る位置」に墨縄を打ったことが始まりとされる。この際、偶然に生じた反響が「おん」「あおん」と二段階に分離して聞こえたことから名付けられたというが、同時代資料は少なく、後世の講釈による脚色が強いと指摘されている[3]。
起源[編集]
寺院修復と墨縄の誤差[編集]
最初期の記録としてしばしば挙げられるのは、にの下谷で行われたとされる本堂修復の覚え書きである。そこには「声の戻り、梁にて二つに裂く」とだけ記され、現代の研究者のあいだでは、これが後の用語「おんあおん」の語源ではないかと推定されている。
もっとも、当時の職人帳には同名の術式は見えず、実際には「音合音(おとあいね)」という別表記が先に存在した可能性が高いとされる。ただし、所蔵の写本の一部には、墨汁のにじみで「おんあおん」と読める箇所があり、これを決定的証拠とする研究者もいる[4]。
寄席への流入[編集]
期に入ると、おんあおんは寺院建築の技法から、周辺の寄席芸人に転用された。講談師たちは、語尾を少しだけ遅らせて発声することで、客席の後方で「もう一人が喋っている」ように感じさせることができると主張し、これを高座上の秘技として口伝したのである。
とりわけ有名なのが、三代目がに行ったとされる「二重返し」の実演で、記録では客の笑いが通常の1.7倍長く続いたとされる。ただしこの数値は後年の興行主が帳簿上で水増しした可能性があり、学術的には要出典とされることが多い[5]。
技法[編集]
おんあおんの基本は、発声そのものではなく「返りの予告」にある。術者は声を出す前に、まず喉ではなく腹部で1拍遅れの気配を作り、その後に母音をわずかに開いて発声することで、聴衆に二層の残響を錯覚させるとされる[6]。
伝統的には、畳8枚以上の座敷、天井高2.4メートル前後、柱間が910ミリメートルの空間で最も効果が高いとされる。なお、時は湿度が67%を超えると効果が増す一方で、連続した咳払いにより術式が崩れることが知られているが、これを定量化したの報告書は、試験条件に「猫1匹」を含めていたため批判もある[7]。
歴史[編集]
明治期の再編[編集]
になると、おんあおんは民間芸から準科学へと姿を変えた。の仮設講義室で行われた「木造残響と話芸の相関に関する覚書」では、という音響測定官が、竹筒を用いて「おん」と「おん」の間隔を0.8秒に揃えると聴衆の注目保持率が上がると主張した。
この研究は当初、学術界で半ば嘲笑されていたが、の改装時に実験的に導入され、上演中の私語が3割減少したとされることで一躍注目を浴びた。もっとも、減少の原因は実際には照明の眩しさだったという反論も残っている。
戦後の再評価[編集]
後、おんあおんは一時「封建的な残響操作」と見なされて衰退したが、のラジオドラマ制作において、台詞を立体的に聞かせる技術として再評価された。特に技術研究所の外部協力員だったが、放送ブースの壁に薄い杉板を1枚追加するだけで効果が改善すると報告し、以後、地方局の中継車にまで模倣が広がった。
のでは、来場者誘導のための「おんあおん式アナウンス」が採用されたとされる。案内が聞き取りやすくなる一方、同じ放送が2回聞こえると誤解した来場者から苦情が12件寄せられたが、会場側は「仕様である」と説明した[8]。
社会的影響[編集]
おんあおんは、建築、芸能、教育の三分野に静かに影響したとされる。寺子屋では、師匠が一度だけ叱るよりも、二度目の残響を残して叱る方が児童の記憶保持率が上がるとして、教室の板張り位置が微調整されたという。
また、の茶屋街では、客同士の会話が外へ漏れにくい空間演出として、障子の桟の角度におんあおんの原理が取り入れられた。もっとも、実際には単に座布団が厚くなっただけではないかという指摘もあるが、地元ではいまなお「音が折れる」と表現されている[9]。
批判と論争[編集]
おんあおんをめぐっては、早くから「物理学では説明できない」とする批判があった。特にの『音響季報』掲載論文では、術者の集中力が上がった結果として聞き手が勝手に二重音を想像しているだけではないかと論じられ、の実験班との間で公開書簡の応酬に発展した[10]。
さらに、保存団体であるがに行った全国調査では、おんあおんを「見たことがある」と答えた者は全体の6.2%であったのに対し、「家の仏間でだけ起こる」と答えた者が14.8%に達した。この不均衡は、伝承の多くが各家庭の記憶補正によって増幅した可能性を示すものと解釈されている。
現代の扱い[編集]
現代では、おんあおんは主として地域文化財、舞台音響、そして一部の古民家宿における体験メニューとして保存されている。松本市の木造ホールでは、年に2回だけ「試しおんあおん」が公開され、来場者は10分間の説明のあと、わずか40秒の発声デモを鑑賞する仕組みになっている。
一方で、動画共有サイト上では「おんあおんチャレンジ」と称してマイクに向かって囁く遊びが流行したが、ほとんどの投稿は単なるエコーと区別がつかず、コメント欄では毎回「それは残響では」との指摘がつく。なお、にはが調査報告の中でおんあおんを「無形の伝承技術」として暫定掲載したが、その後の審査会で表現がやや曖昧すぎるとして保留になった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 島田重之助『木造残響と話芸の相関に関する覚書』東京帝国大学音響研究会報, Vol. 3, pp. 14-29, 1892.
- ^ 高橋瑞枝『寄席における二重返しの実地観測』芸能史研究, 第12巻第4号, pp. 201-218, 1931.
- ^ 三浦由紀夫『放送台詞の立体化と杉板一枚の効果』NHK技術研究所紀要, Vol. 18, pp. 5-17, 1959.
- ^ 佐伯光男『おんあおん伝承の地理的分布』日本民俗音響学会誌, 第7巻第2号, pp. 88-104, 1974.
- ^ Jean-Claude Moreau, “On-Aon and the Architecture of Hesitation,” Journal of Vernacular Acoustics, Vol. 9, pp. 33-61, 1988.
- ^ 渡辺精一郎『木造座敷における音の折返し現象』音響建築, 第21巻第1号, pp. 1-19, 1997.
- ^ Margaret A. Thornton, “Delayed Vowels in Edo-Period Performance Spaces,” Proceedings of the International Society for Historical Acoustics, Vol. 4, pp. 77-93, 2006.
- ^ 日本空響学会保存部会『全国おんあおん実態調査報告書 2011』, pp. 4-31, 2012.
- ^ 文化庁文化資源課『無形の伝承技術に関する試行的収録一覧』, pp. 55-57, 2023.
- ^ 小泉八千代『猫1匹を含む反響実験の再検討』東京音響試験所雑報, 第2巻第3号, pp. 9-12, 1968.
外部リンク
- 日本空響学会保存部会
- 国文学研究資料館デジタル写本目録
- 東京音響試験所アーカイブ
- 下谷寺院修復史料館
- 寄席音響文化保存ネット