さぬきずどん
| 名称 | さぬきずどん |
|---|---|
| 発祥地 | 日本・香川県西部 |
| 考案時期 | 1920年代後半 |
| 主な材料 | 小麦粉、塩、瀬戸内海水、白だし、炒りいりこ |
| 料理区分 | 麺料理、港湾労働食 |
| 別名 | 押し出し丼、ずどん麺 |
| 関連人物 | 久米田栄次郎、三宅ハル、Dr. Margaret A. Thornton |
| 主な普及地 | 高松市、丸亀市、坂出市、神戸市の一部 |
さぬきずどんは、西部を中心に伝承される、麺を高圧で押し出しつつ丼状に整形して食す独自の麺料理である。もともとは周辺の製麺業者が、余剰生地の廃棄を避けるために考案したとされるが、その成立には初期の港湾労働と帰りの技術者が関与したという説がある[1]。
概要[編集]
さぬきずどんは、西部で成立したとされる麺料理で、極太の麺を丼の底で一度圧着し、上からだしを少量かけて食べるのが特徴である。一般的なと異なり、麺が丼の形そのものを「記憶する」と説明されることが多く、地元の製麺業者のあいだでは半ば機械的な工程を伴う料理として扱われてきた。
この料理は、3年から8年にかけて周辺の荷役作業員の間で広まったとされる。特に、夜明け前の短時間で高カロリーを摂取できることから重宝され、1杯あたりの標準重量が410グラム前後に固定されたという記録が残る[1]。ただし、初期の記録には「丼をひっくり返すと麺が座っているように見える」との記述があり、当時から料理というより実験的な儀礼に近かった可能性が指摘されている。
歴史[編集]
成立期[編集]
さぬきずどんの起源は、ごろにの製麺所「久米田商店」の二代目・久米田栄次郎が、蒸気圧の管理に失敗して生じた厚生地を救済したことにあるとされる。栄次郎は生地を細く切る代わりに、銅製の筒から直接丼へ押し出す機構を試作し、これが「ずどん」と落ちる音から名称が定着したという[2]。
一方で、から戻った元鉄道技師・三宅ハルが、配給用の圧搾機を改造して麺圧出装置を作ったとする説も有力である。三宅は内の共同炊事場で試験を行い、湯切りを省くことで塩分濃度が一定になりやすいことを発見したとされるが、これを裏付ける一次資料は少なく、現在も「要出典」の扱いが避けられていない。
港湾食としての普及[編集]
の荷役組合が1931年に導入した「朝五分食」制度により、さぬきずどんは急速に普及した。通常のうどんよりも深い丼を必要とすることから、港の周辺には専用食器を貸し出す食堂が増え、最盛期には航路の待合所まで提供区域が拡大した。
当時の新聞『』には、麺の表面を軽く焼いてから出す「焦がしずどん」が紹介されており、これを好んだ荷役夫は1日3杯を食したという。なお、栄養学的には明らかに過剰であるが、1940年の労働安全委員会は「短距離運搬に限り合理的」とする妙な結論を出している。
戦後の再編[編集]
後、さぬきずどんは一度衰退したが、にの協力を得て再定義された。ここで導入された「二段圧延法」により、麺の内部に微細な空洞を作り、だしの吸収率を27%前後に抑えることができるようになったとされる[3]。
この改良は、地元の飲食店だけでなく学校給食にも波及し、では1961年度に試験導入が行われた。もっとも、児童の7割が麺の落下音を面白がって食事どころではなかったため、3か月で中止されたという記録が残る。
全国化と再評価[編集]
1970年代以降、さぬきずどんはやの瀬戸内フェアで紹介され、観光土産としての側面を強めた。特に関連の周辺企画で、来場者が自分で麺を押し出す体験型展示が実施され、1日平均で2,800人が参加したという[4]。
1980年代には、の食文化研究者であるDr. Margaret A. Thorntonが「麺の重力的記憶」という概念を提唱し、さぬきずどんを単なる郷土料理ではなく、工業化時代の身体技法として位置づけた。これにより料理評論の分野で注目が集まり、以後はの亜種としてではなく、独立した食文化として扱われることが多くなった。
特徴[編集]
さぬきずどんの最大の特徴は、麺が丼に対して垂直に沈むように配置される点である。食べる際には箸ではなく、木べら状の「ずどん匙」を用いることが推奨され、麺の中央を崩さずに周辺から食べ進めるのが作法とされる。
味付けは非常に控えめで、基本はだしと白醤油のみである。ただし、周辺では梅酢を数滴たらす「陰ずどん」、では焦がし葱を山盛りにする「港ずどん」など、地域差が顕著である。これらの差異は小さいようでいて、地元の人々は「麺の沈み方が違う」と真顔で論じる。
また、麺を押し出す圧力が弱いと「べたずどん」と呼ばれる失敗作になり、逆に強すぎると丼の底に亀裂が入る。このため、熟練店では毎朝8時12分に試し押しを行う習慣があり、店主が圧力計の針を見つめる姿は、港町の風景として知られている。
社会的影響[編集]
さぬきずどんは、西部の労働文化を象徴する料理として扱われ、地元の職業訓練校では「圧出と待機のバランス」を学ぶ教材に採用されたことがある。1998年にはが「郷土麺保全指針」を策定し、年間約14万食の提供を維持目標に掲げた[5]。
一方で、丼の製造業者に特殊な寸法規格が求められることから、陶磁器産業に影響が及んだ。特にの食器職人たちは、底面がわずかに湾曲した「受け皿型丼」を量産し、これが後の家庭用炊飯器の内釜設計にまで影響したという説がある。
また、さぬきずどんの普及に伴い、地域の子どもたちが擬音語で料理を分類する習慣を持つようになったとされる。「どん」「ずん」「ぺた」などの音の違いで麺の状態を見分ける遊びが流行し、教育学部の調査では、1970年代生まれの住民の約38%がこれを経験していたとされる。
批判と論争[編集]
さぬきずどんには、成立当初から「うどんの変形にすぎない」とする批判があった。これに対し支持者は、圧出工程の有無こそが本質であると主張したが、1972年の総会では、両者の議論が3時間半に及び、結論は「丼を見ればわかる」とされた。
また、1986年にはの地域特集で、製法の一部が近代的な製麺機に置き換えられていることが報じられ、「伝統の機械化」として波紋を呼んだ。もっとも、番組内で紹介された職人のひとりは「機械が押しても、最後に音を決めるのは人間である」と述べ、逆に名言として流布した。
近年では、観光客向けに極端に大型化した「観光ずどん」が登場し、本来のサイズの2.6倍にあたる直径38センチの丼で提供される例もある。これについて地元保存会は「記念写真には向くが、食事ではない」としている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 久米田栄次郎『押し出し麺の民俗誌』四国食文化研究会, 1934.
- ^ 三宅ハル『港湾炊事と圧送技術』瀬戸内技術出版, 1956.
- ^ 香川県立食品試験場編『二段圧延法報告書』第12巻第4号, 1955, pp. 41-68.
- ^ Thornton, Margaret A. "Gravity Memory in Regional Noodle Forms" Journal of Applied Food Anthropology, Vol. 8, No. 2, 1984, pp. 113-129.
- ^ 『四国日報』編集部「焦がしずどんの朝食化」『四国日報』1932年6月14日付朝刊.
- ^ 香川県庁地域振興課『郷土麺保全指針』香川県庁, 1998.
- ^ 中野芳夫『うどん史の周縁にあるもの』丸亀文化社, 1978.
- ^ Kobayashi, Reiko. "Steam, Salt, and the Bowl: Sanukizudon in the Postwar Diet" Food and Society Review, Vol. 19, No. 1, 2001, pp. 9-27.
- ^ 田所一馬『日本港湾労働と朝五分食』港湾労働史料館, 1969.
- ^ Okamoto, Dennis H. "The Bent Bowl Problem in Japanese Noodle Dishes" Proceedings of the Asia-Pacific Culinary History Association, Vol. 3, No. 1, 1992, pp. 77-84.
外部リンク
- 香川県郷土麺保存協会
- 高松港食文化アーカイブ
- 四国食文化研究会デジタル資料室
- 世界押し出し麺連盟
- 瀬戸内料理博物館