さよなら人生
| 名称 | さよなら人生 |
|---|---|
| 別名 | 終別主義、退場学 |
| 起源 | 1920年代末の東京下町 |
| 提唱者 | 長谷川 朔太郎、斎藤 ミネ |
| 中核施設 | 東京別離記録館 |
| 主な領域 | 文学、都市儀礼、心理療法、送別会文化 |
| 流行期 | 1934年 - 1958年 |
| 象徴色 | 薄墨色 |
| 標語 | 終わりは礼儀である |
さよなら人生は、において20世紀前半に成立したとされる、別離の感情を儀礼化・記録化するための思想兼実践体系である。の下町を中心に広まり、のちにやの文芸界にも影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
さよなら人生は、人生における別れや中断を単なる喪失ではなく、記録可能な出来事として扱う独特の文化現象であるとされる。後の都市復興期に、職場の転属、家族離散、夜逃げ、恋愛の破綻などを「退場」と総称して扱う習慣から発展したという説が有力である。
この思想は、当初はの演芸場周辺で使われた隠語に過ぎなかったが、初期の文芸誌がこれを取り上げたことで広まったとされる。なお、初期の実践者の中には、別れの場面で必ず湯呑みを九十度だけ回すべきだと主張した一派もあり、後年の研究者はこれを「角度主義」と呼んでいる[2]。
歴史[編集]
成立期[編集]
さよなら人生の原型は、1928年頃にの古書店主・長谷川朔太郎が、常連客の転職や転居を帳面に書き留めた「退場簿」に見出されたとされる。長谷川はこれを単なる記録ではなく、人生の別れを美学化する実験として整理し、1931年に私家版小冊子『さよなら人生入門』を12部のみ印刷した[3]。
同時期、看護婦であった斎藤ミネがの診療所で行っていた「帰らぬ患者の送り文」の実践と接続され、さよなら人生は健康管理と情緒調整の双方に効くと宣伝された。この段階で既に、送別会の最後に必ず黒砂糖を一片だけ配るという奇妙な作法が加わっていた。
普及期[編集]
1934年から1939年にかけて、の出版社「浪花生活社」が月刊誌『終別通信』を刊行し、さよなら人生の定式化を進めた。誌面では、退職、失恋、下宿解消、劇団解散などを点数化する「別離点数表」が掲載され、年間平均で1人あたり7.4回の退場が理想とされたという[4]。
この数値は後に「過剰な別れの奨励」と批判されたが、実際には読者投稿をもとに編集部がかなり雑に算出していたらしく、昭和11年版と12年版で基準が1.8点も違う。にもかかわらず、当時の若年層のあいだでは「人生は三度までならやり直せる」と解釈され、就職試験の不合格通知を額縁に入れる風習まで生まれた。
戦後の再編[編集]
後、さよなら人生は一度衰退したが、1952年にの外郭団体とされる「生活再出発協会」が、職業転換支援の一環として一部の実践を採用したことで再評価された。ここで初めて、別れの言葉を三回ではなく二回に減らす「二礼二退」の方式が標準化されたとされる。
また、の詩人・高瀬静男が、別離を詠む短詩を集めた『人生、左へ退く』を発表し、さよなら人生を前衛芸術として読み替えた。高瀬は、別れの瞬間に時計を逆回しにする舞台演出で知られたが、実際には手回し式の懐中時計しか持っていなかったという証言もある。
理論と実践[編集]
退場三原則[編集]
さよなら人生には、一般に「退場三原則」と呼ばれる規範がある。第一に、別れは突然であっても礼儀を失ってはならない。第二に、残された側は相手の荷物のひとつを必ず引き受ける。第三に、別れの直後24時間は未来の話をしてはならないとされる。
この三原則は、認定の教育指導要領に採用されたことはないが、1950年代の一部夜学では道徳教材として用いられた。特に第三原則は、会議の長文化を防ぐための実務ルールとして重宝されたという。
別離帳と記録術[編集]
実践者は「別離帳」と呼ばれる小冊子を携行し、年月日、場所、別れの理由、相手の靴音の回数を記録した。靴音の回数は5回、8回、13回が吉とされ、11回は「未練が残る数」として避けられた[5]。
の文具店では、別離帳専用の薄青い罫線紙が販売され、1956年の売上は推定で月間3,400冊に達したとされる。もっとも、当時の帳簿の半分以上は喫茶店の伝票に流用されたらしく、研究者の間では「用途不明の書式美」として扱われている。
送別会文化への影響[編集]
さよなら人生は、現代の送別会文化に少なからぬ影響を与えたとされる。花束の代わりに紙袋を渡す、主賓の席札を最後まで裏返しにしておく、締めの挨拶で必ず窓の方向を見る、などの慣習はその名残であるという。
ただし、の一部飲食店では、さよなら人生の影響を受けた送別会が過熱し、別れの歌を歌い終わるたびに新規加入者が3名増える「循環型歓送迎」が問題化した。これについては、地域の商店街連盟が1958年に注意喚起文を出しているが、本文の最後がなぜか俳句になっている。
社会的影響[編集]
さよなら人生は、失業、転居、離婚、転校などを恥ではなく整理の機会として扱う点で、戦前・戦後を通じて一定の支持を得た。特に都市部では、職を失った者に「今月の退場は良い退場である」と書かれた紙片を渡す習慣があったとされる。
一方で、別れを美化しすぎるあまり、実際の支援を軽視する傾向も指摘された。1957年には社会学研究室が「感情の清算が先行し、生活の再建が後回しになる」とする覚書を発表したが、同時に「それでも記帳の精度は高い」とも評価しており、議論は収束しなかった[6]。
批判と論争[編集]
さよなら人生に対する最大の批判は、別離を数値化する態度が冷たく、また階層差を見えにくくするという点にあった。特に「退場点数表」は、貧困による離別と自発的な旅立ちを同列に扱うとして、系の論壇でたびたび論争の対象となった。
また、創始者とされる長谷川朔太郎の実在性についても疑義がある。1959年に発見されたとされる長谷川家の名簿には、同姓同名の人物が三人記されていたが、いずれも住所欄がの同じ番地であり、研究者の間では「一人で三役を演じていたのではないか」とする説が根強い。なお、この問題は未解決のままである[7]。
現代における位置づけ[編集]
21世紀に入ると、さよなら人生は実用思想としてはほぼ消滅したが、アーカイブ芸術やライフログ研究の文脈で再評価されている。の特別閲覧室では、別離帳の複製版が研究資料として閲覧できるとされ、若い研究者のあいだで「退場の民俗学」として人気がある。
また、SNS時代には、フォロー解除や退会通知のタイミングをめぐって「現代版さよなら人生」と呼ぶ用法が一部で定着した。ただし、元来の思想にあった沈黙と間合いの重視が失われ、告知文が長文化しすぎる傾向があると批判されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 長谷川 朔太郎『さよなら人生入門』私家版, 1931.
- ^ 斎藤 ミネ『送り文と看護の実際』浪花生活社, 1936.
- ^ 高瀬 静江『別離帳の民俗誌』東京書林, 1954.
- ^ M. Thornton, "The Etiquette of Exit in Early Shōwa Urban Culture," Journal of Japanese Social Forms, Vol. 12, No. 3, 1961, pp. 44-79.
- ^ 渡辺 精一郎『終わりの作法――都市における退場儀礼』青葉社, 1968.
- ^ 田中 由里子『送別の心理と記録術』生活文化研究所, 1972.
- ^ K. Hayashi, "A Quantitative Study of Farewell Points," Proceedings of the East Asian Anthropology Society, Vol. 8, No. 1, 1979, pp. 101-118.
- ^ 宮下 恒一『退場点数表の編纂史』文潮社, 1983.
- ^ S. Nakahara, "Sayonara as a Civic Technology," Urban Ritual Review, Vol. 5, No. 2, 1991, pp. 9-27.
- ^ 小林 眞理『人生、左へ退く――戦後詩における別離の形式』京都現代出版, 2004.
- ^ 佐伯 直人『薄墨色の社会学――さよなら人生再考』新曜社, 2015.
外部リンク
- 東京別離記録館アーカイブ
- 終別通信デジタル版
- 別離学研究会
- 生活再出発協会資料室
- 都市儀礼民俗データベース