しろがね人、りっつ
| 氏名 | 白金 立津 |
|---|---|
| ふりがな | しろがね りっつ |
| 生年月日 | 1897年4月18日 |
| 出生地 | 東京都神田区(現・東京都千代田区) |
| 没年月日 | 1964年9月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 都市民俗学者、翻訳家、随筆家 |
| 活動期間 | 1918年 - 1963年 |
| 主な業績 | 『しろがね人概論』の提唱、銀座歩行調査、夜間階段礼法の体系化 |
| 受賞歴 | 帝都文化懇話会奨励賞(1938年)、東京歩行学会特別章(1959年) |
白金 立津(しろがね りっつ、 - )は、の都市民俗学者、翻訳家、街歩き記録家である。近代都市における「白銀階層」の実地観察と、独自の歩行儀礼「しろがね人論」を唱えた人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
白金立津は、末期から中期にかけて活動した都市民俗学者である。彼は、、周辺に見られる「銀色の身振り」と「過剰に整った生活様式」を観察し、それらを総称してと呼んだことで知られる[1]。
立津の研究は、当時の周辺の若手研究者の間で半ば学問、半ば都市伝説として扱われた。なお、本人は「しろがね人は階級ではなく、歩幅と財布の開閉角度で決まる」と述べたとされるが、これを裏づける一次資料は少ない[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
白金立津は、の表具職人の長男として生まれた。幼少期から商家の帳場で聞こえる銭勘定の音に強い関心を示し、母の言葉を借りれば「子どもなのに、釣銭の出し方ばかり眺めていた」という。
附属中学に進んだのち、夜になるとからまでの街灯の色を記録し、青白い電灯の下で往来する人々を「顔色の薄い実務家」と呼んだ。この頃のノートは後年『初期歩行帳』としてまとめられたが、現存数は7冊のみである。
青年期[編集]
、立津はの聴講生としてとを並行して学んだ。特に系の口承研究に影響を受けた一方で、街路の観察を重視する独自路線を採った。
の後、復興中ので「瓦礫の間に新しい礼節が生まれる」と記したことが転機となった。以後、焼け跡の角地で立ち止まる人々、仮設店舗で帽子を脱ぐ角度、復興金融の借用書を折りたたむ指先などを調べ、これらを総合して「しろがね人」の原型を抽出したとされる。
活動期[編集]
に私家版の小冊子『しろがね人概論』を刊行すると、の喫茶店文化との包装技術を結びつける大胆な議論が注目を集めた。とりわけ「白銀階層は所得ではなく、紙袋の持ち替え回数で判定される」という一節は、同時代の新聞で「妙に説得力がある」と評された[3]。
にはの奨励賞を受けたが、授賞式で立津は「しろがね人は賞状を額装しない。額装すると階層が固着するからである」と述べ、会場を静まり返らせたという。この逸話は後年まで繰り返し語られ、都市民俗学の象徴的場面として扱われている。
晩年と死去[編集]
戦後はの貸本屋に身を寄せ、主に「階段と手袋」に関する断片的研究を続けた。には特別章を授与され、晩年の代表作『階段の上の沈黙』を発表している。
9月2日、の自宅で心臓発作のため死去した。享年67。葬儀には研究者のほか、かつて調査対象となったの商店主や、彼の著作を愛読していたというタクシー運転手ら約180人が参列したとされる[4]。
人物[編集]
立津は寡黙で、対人関係よりも観察を優先する人物であったとされる。会話中に相手の靴紐が二重結びかどうかを確認する癖があり、これが「しろがね人判定」の実務的手法に転化したという。
一方で、極端に几帳面なだけの変わり者として扱われることも多く、の学生の間では「歩くときだけ丁寧語になる男」として知られた。本人はこれを否定せず、むしろ「都市は敬語でしか渡れない場所がある」と書き残している。
逸話として有名なのは、の三丁目交差点で雨宿りしていた際、見知らぬ紳士に傘を借りたが、返却の礼状を翌朝ではなく三日後の午後3時ちょうどに送った件である。立津は「謝罪の速度は文化の温度を示す」と説明したが、近隣の郵便局員には単なる変人として記録された。
業績・作品[編集]
立津の業績は、都市の中間層を「経済」ではなく「動作の洗練」として読む方法を示した点にある。特に、の包装紙、路面電車の降車位置、喫茶店での砂糖の取り方を一つの文化圏として扱った点は、後のに影響した。
代表作『しろがね人概論』では、しろがね人を「金属のように冷たいのではなく、磨耗に耐える光沢を持つ生活者」と定義した。さらに、彼らが日曜の午前にだけ見せる「控えめな誇示」を5段階に分類し、、、の商圏ごとに比較している。
また、翻訳家としてはの旅行記断章を独自に再構成した『夜の街路と白い手袋』が知られる。本文には原著にない「停車場で帽子を整える一行」が挿入されていたため、のちに研究者の間で真正性をめぐる議論が起きたが、立津は「翻訳とは都市の呼吸を補う作業である」として譲らなかった。
晩年の『階段の上の沈黙』は、の石段、の遊興地、公園の夜警などを扱った短文集である。中でも「二十七段目でのみ人は本音を漏らす」とする記述は有名で、後年の通勤心理学に奇妙な影響を与えた。
後世の評価[編集]
戦後しばらくは、立津の議論は「都市の気取った観察」として軽視された。しかし以降、消費文化研究やの文脈で再評価が進み、しろがね人概念は「見えない階層を可視化する比喩」として扱われるようになった。
の古い紀要には、立津の記述が現代の分析と驚くほど一致するとする論考があり、特に「紙袋の持ち替え回数」や「傘立ての配置」への着目は先駆的であるとされた[5]。ただし、調査方法の大半が本人の徒歩と勘に依拠していたため、統計的厳密性にはなお疑問が残る。
近年ではの一部の書店が「白金立津コーナー」を設け、彼の著作を装丁デザインの資料として扱う動きもある。また、若い研究者の間では、しろがね人を「都市で最も静かな自己演出を行う人々」と読む解釈が支持されている一方、半ば娯楽的な都市神話として消費されている面も否定できない。
系譜・家族[編集]
白金家は江戸期以来の小さな表具商で、立津の父・白金庄助はで襖張りを営んでいた。母・りえは裁縫と記帳に長け、立津の「生活を記号として読む」姿勢は母方の気質を受けたものとされる。
妻の白金澄子はに結婚した女学校教師で、立津の研究ノートの清書を長年担当した。二人の間に子はなかったが、養子として迎えた甥の白金雄一が資料整理を継ぎ、現在知られる立津文庫の目録化に尽力した。
なお、立津の遠縁にはの貿易商やの帽子店経営者がいたとされるが、本人は生前「親類の多さは研究テーマを曇らせる」と述べ、家系図の公開を嫌ったという。もっとも、後年の調査で三親等以内に少なくとも2人の「やたらと手袋にうるさい親族」が確認されたとも言われる。
脚注[編集]
[1] 白金立津『しろがね人概論』初版序文。 [2] 立津日記『夜歩き帳』1932年6月12日条。 [3] 『帝都朝報』1931年11月4日付夕刊、文化欄。 [4] 立津家葬儀記録『文京区寺院会葬名簿』第18号。 [5] 東京都立大学紀要編集部「都市の白さと階層表象」第12巻第3号。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 白金立津『しろがね人概論』帝都文化研究社, 1931年.
- ^ 立津澄子『夜歩き帳とその周辺』青灯書房, 1968年.
- ^ 松岡藤一『都市民俗学の黎明』東京歩行学会出版部, 1974年.
- ^ Margaret H. Lowell, "Silver Class and Urban Gesture in Prewar Tokyo," Journal of East Asian Folklore, Vol. 18, No. 2, pp. 41-79, 1982.
- ^ 大森一彦『銀座の礼節史』日本評論社, 1989年.
- ^ 斎藤久美子『階段と手袋の文化誌』みすず書房, 1997年.
- ^ Howard V. Elgin, "The Pocket Angle Problem in Shirogane Studies," Urban Anthropology Review, Vol. 9, No. 1, pp. 110-128, 2004.
- ^ 中島義雄『昭和都市の見えない階層』岩波書店, 2008年.
- ^ 田辺里奈『しろがね人の午後三時』中央街路出版, 2015年.
- ^ Robert K. Mallow, "Walking as Etiquette: Revisiting Ritzu Shirogane," The Pacific Historical Quarterly, Vol. 61, No. 4, pp. 233-260, 2019.
- ^ 白金雄一編『白金立津資料集成 第3巻』立津文庫刊行会, 2022年.
- ^ 渡会真理『都市は敬語でしか渡れない』東都新書, 2024年.
外部リンク
- 立津文庫デジタルアーカイブ
- 東京歩行学会資料室
- 帝都文化懇話会年報索引
- 銀座近代生活史研究会
- 白銀階層研究ノート