しろがね百足神社
| 名称 | しろがね百足神社 |
|---|---|
| 種類 | 神社建築 |
| 所在地 | 青森県十和田市銀原町 |
| 設立 | 1818年頃 |
| 高さ | 社殿 8.4 m |
| 構造 | 木造平入・銅板葺・石積み基壇 |
| 設計者 | 初代宮大工・早川定五郎 |
しろがね百足神社(しろがねむかでじんじゃ、英: Shirogane Mukade Shrine)は、にあるである[1]。末期に「百足封じ」の祈願所として建立されたとされ、現在では虫害除けと商売繁盛の両方を祈る社として知られている[2]。
概要[編集]
しろがね百足神社は、の旧銀原宿に所在する小規模なである。境内は約1,900平方メートルで、社殿・拝殿・奉納回廊・「足音石」と呼ばれる踏石群から成る。
この神社は、農村部で問題となったの大量発生を鎮めるために建立されたと伝えられる。また、近世後期に銀山労働者の保護を祈願する場としても利用され、現在では「足回りの安全」を願う参拝者が多い。なお、祭礼日に百足形の飴を授与する習俗があるが、由来については資料ごとに説明が異なっている[3]。
名称[編集]
「しろがね」は、境内北側の丘にあったの石英脈に由来するという説が有力である。一方で、当地におけるの採掘記録を踏まえ、鉱山守護の意味で後から付された地名であるとする見方もある。
「百足神社」の呼称は、当初は「百足封じ社」「むかで退散宮」など複数の表記が併存していたものが、期の神社整理の際に統一されたものとされる。もっとも、の旧写本には「百足」に加えて「百徳」とも読める墨滲みがあり、後年の研究者の間で細字の解釈をめぐる論争が続いている[4]。
現在では、観光案内では「むかで除けの神」と説明されることが多いが、地元の古老の間では「足を持つもの全般の守り神」として語られることもある。たとえば靴職人や陸上競技者が個別に参拝する慣行は、この広義の解釈に支えられているとされる。
沿革[編集]
創建伝承[編集]
創建は15年(1818年)頃とされる。当地の豪農・松倉与左衛門が、納屋に百足が群れ入ったことで家人が夜も眠れなくなり、近隣の修験者・霜田玄秋の助言を受けて小祠を建てたのが始まりであるという。
伝承によれば、最初の祭壇には百足を模した銅線18本が巻かれ、翌年から虫害が著しく減ったとされる。ただし、減少の要因は冬季の乾燥がたまたま強かったためではないかとも指摘されている。
銀山期の発展[編集]
年間、近隣の銀鉱採掘が活発化すると、坑夫らが足場の安全と毒虫除けを願って参詣するようになった。これにより社殿は拡張され、1837年には拝殿前に幅1.2メートル、長さ9.6メートルの奉納廊が追加された。
当時の記録では、月初の参詣者数が平均146人、繁忙期には最大で312人に達したとされる。もっとも、これは神社側が奉納米の受け取り件数を人数に置き換えて記した可能性があるとも言われている。
近代以降[編集]
22年の社格整理では一度廃社候補となったが、旧鉱山組合と町医・黒崎良庵の連署により存続した。黒崎は「百足に噛まれた者の発熱は、足裏の冷えから始まる」と主張し、境内で足洗いの儀式を行ったという[5]。
中期には参道が舗装され、には老朽化した本殿の梁が総ヒノキ材に入れ替えられた。改修工事の際、梁の内側から百足をかたどった木片27点が見つかり、保存会ではこれを「初期祭祀具」として展示している。
施設[編集]
境内の中心は、本殿・拝殿・幣殿からなる三棟連結構造である。本殿は間口3間、奥行2間半で、屋根は銅板葺であるが、雨音が百足の歩行音に似ることから「音で守る社殿」と呼ばれている。
また、拝殿脇には「百足回廊」と呼ばれる細い回廊があり、床板が34枚連続している。参拝者は左足から入るのが慣例で、逆足で入ると足元が重くなるという口伝が残る。境内の裏手には、石を縦に7段積んだ「足止め石」があり、これを跨ぐと虫が家に寄りつかないとされる。
社務所では「銀守札」と「歩行守」が授与されており、歩行守は靴紐の結び目に挟む小型の木札である。授与開始は9年とされるが、地元紙には前年から既に頒布されていたとの記述もあり、開始年はやや曖昧である。
交通アクセス[編集]
最寄り駅はの旧銀原駅とされるが、同線はに廃止されているため、現在では中心部から路線バスを利用するのが一般的である。神社前の停留所は「銀原神社口」で、徒歩約4分の位置にある。
自動車ではから分岐する市道「百足坂通り」を経由し、境内脇の砂利駐車場に12台まで駐車できる。なお、祭礼期間中は駐車誘導が極端に丁寧で、1台ごとに巫女が前進後退の回数を記録するため、出庫に10分以上かかることがある。
冬季は積雪のため参道が閉鎖されることがあり、その際は「足跡灯籠」と呼ばれる行灯が15基点灯する。これにより、夜間でも本殿までの導線が百足の節足のように見えるよう設計されている。
文化財[編集]
本殿は指定有形文化財に登録されている。特に、内陣天井に描かれた「百足退散図」は、風の筆致との素朴さが混在する作例として評価が高い。
また、境内の奉納額12点は有形民俗文化財に指定されている。これらの額には、医師・商人・靴職人・炭焼きなど、足に関わる職能の寄進名が並ぶが、なかには「駅伝部一同」「草鞋研究会」など時代を超えた名義も見られる[6]。
一方で、社殿背面の銅板には建立年を示す刻印があるが、そこに「1818」と「1881」の両方に読める打痕があり、保存委員会では「改修時の再刻」として扱っている。研究者の間では、数字の上下を入れ替えても意味が通る珍しい記録として注目されている。
批判と論争[編集]
しろがね百足神社をめぐっては、創建由来が後世の観光向けに整えられたものではないかという批判がある。とくに、百足封じの験担ぎが広まった時期と、銀山衰退後の集客施策が一致することから、「民間信仰の再編」だったとする説が提示されている。
また、2012年の境内整備で導入された「歩行守ICタグ」については、伝統的景観を損なうとの意見が出た。一方で、紛失率が導入前の年間43件から9件に減少したとして、社務所側は「信仰と実務の両立」であると反論している。
なお、祭礼で放たれる「百足灯籠」の数が毎年108基であるのは、煩悩の数に合わせたものと説明されているが、実際には境内の電力容量の都合で108基に固定されたのではないかとも言われる。
脚注[編集]
[1] しろがね百足神社保存会『銀原社誌 第一巻』、2018年。
[2] 田島春彦『北奥の虫除け信仰と銀山文化』民俗文化研究所、2007年。
[3] 角田瑞穂「百足飴の配布習俗に関する一考察」『東北地方民俗誌』Vol. 14, No. 2, pp. 77-93, 2011年。
[4] 早川定五郎家文書編纂委員会『十和田郡神社台帳 影印と訓読』第2巻第4号、1999年。
[5] 黒崎良庵「足洗い療法試案」『地方医報』第8巻第1号, pp. 14-19, 1891年。
[6] 宮下玲子「奉納額にみる職能連合の変遷」『青森県史研究』第22号, pp. 201-224, 2016年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田島春彦『北奥の虫除け信仰と銀山文化』民俗文化研究所, 2007年.
- ^ 角田瑞穂「百足飴の配布習俗に関する一考察」『東北地方民俗誌』Vol. 14, No. 2, pp. 77-93, 2011年.
- ^ 早川定五郎家文書編纂委員会『十和田郡神社台帳 影印と訓読』第2巻第4号, 1999年.
- ^ 黒崎良庵「足洗い療法試案」『地方医報』第8巻第1号, pp. 14-19, 1891年.
- ^ 宮下玲子「奉納額にみる職能連合の変遷」『青森県史研究』第22号, pp. 201-224, 2016年.
- ^ 小沼晋一『北奥における足忌避と社殿配置』東北大学出版会, 2013年.
- ^ Margaret L. Henshaw, "Ritual Antipedes in Northern Shrine Architecture," Journal of Folkloric Structures, Vol. 9, No. 3, pp. 112-145, 2015.
- ^ 渡辺精一郎『むかで退散宮考』銀原民俗叢書, 1978年.
- ^ A. J. Thornton, "Copper Roofs and Crawling Omens in Rural Japan," Architectural Anthropology Review, Vol. 4, No. 1, pp. 5-29, 2008.
- ^ 斎藤みどり『祭礼における足音の演出技法』地方祭祀研究所, 2020年.
- ^ Jean-Paul Mirabeau, "The Shrine of Silver Centipedes and the Economics of Fear," Revue d'Ethnologie Imaginaire, Vol. 11, No. 2, pp. 88-101, 2017.
- ^ 『銀原社誌 第一巻』しろがね百足神社保存会, 2018年.
外部リンク
- しろがね百足神社保存会公式記録室
- 十和田市郷土資料アーカイブ
- 北奥民俗建築研究センター
- 東北信仰史データベース
- 銀原町観光協議会