せきがはら しょう(S帽)
| 氏名 | せきがはら しょう |
|---|---|
| ふりがな | せきがはら しょう |
| 生年月日 | |
| 出生地 | 岐阜県(旧・関町) |
| 没年月日 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 技術官僚・帽子研究家 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 『S帽規格』の確立、通気測定体系の公開 |
| 受賞歴 | 1934年帽子工学功労賞、科学報国章 |
せきがはら しょう(せきがはら しょう、 - )は、日本の技術官僚兼帽子研究家である。『S帽規格』の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
せきがはら しょうは、通気性と耐水性を兼ね備えた外帽の規格「S帽」を巡る研究で知られる日本の技術官僚である[1]。
「S帽(エスぼう)」の名称は、帽子の形状を統計的に分類した結果、最頻値が“S字に近い折り返し”を示したことに由来するとされる。ただし、本人はその説明を好まず、「規格とは“都合のよい曲がり”を紙の上で飼いならすことだ」と語ったと伝えられている[2]。
1920年代後半、内務省の保健衛生系統で布帽の衛生基準を統一する動きが進む中、せきがはらは現場の苦情(蒸れ、雨染み、転倒時の頭部保護)を数値化し、規格を“行政文書で着用できる”形へ落とし込んだとされる[3]。
生涯(生い立ち/青年期/活動期/晩年と死去)[編集]
生い立ち[編集]
せきがはらは、岐阜県の旧家に生まれたとされる。父は刃物研磨の帳場を取り仕切っており、少年のせきがはらは「刃の曇りは油の量ではなく“待ち時間”で決まる」と聞かされて育ったという[4]。
の大冷えの年、関町では簡易工房の稼働が鈍り、代わりに“頭を守る布”の需要が一時的に増えたとされる。せきがはらは、その布の蒸れを計るために即席温度計を改造し、縫い目から1分ごとに湯気の量を紙片に写し取ったと伝えられる[5]。本人の手帳には「湿度は表面から読むのではなく、影の濃さで読む」といった意味深な走り書きが残っているとされる。
青年期[編集]
青年期、せきがはらは東京府へ出て、はじめは製図見習いとして働いた。のちに系統の講習へ転じ、布の繊維構造を“力学的な文章”として読む癖を身につけたとされる[6]。
、上京直後の彼は、夜間に神田の貸し布団店で見回りを手伝い、客の訴えを30日間だけ記録した。記録の統計を元に、帽子が原因の皮膚不調は「頭頂部の通気率が毎分1.7cm²を下回る時に急増する」と仮説を立てたとされる[7]。この数字は後年まで“S帽が妥当だと感じる人が最初に出会う閾値”として引用されることになった。
活動期[編集]
に行政技術職へ採用され、せきがはらは衛生材料の標準化に携わることになる。彼の転機は、内務省衛生局の会議で「規格文書が厚いほど現場は読むのをやめる」という苦情が出た場面であった[3]。
そこで彼は、規格を“帽子に縫い付ける”方針へ転換し、紙の規格と同じ角度を裏地に刻んだ「写し型」試作品を配布したとされる。現場での反応は割れたが、作業員の間で「S帽は頭の上でだけ妙に誠実だ」と囁かれたことで、試験導入が広がったと伝えられている[8]。
代には、雨天時の蒸れ低減を目的に、帽子の側面に“微小な逃げ道”を設ける案を発表し、通気測定を「乾燥時間の逆数」から換算する手法を公開した。ところが、彼の計算式は当時の熱力学の常識と一部ずれており、議事録上は「要検算」と注記されている[9]。それでも規格は普及したとされる。
晩年と死去[編集]
晩年、せきがはらはに退官したのちも、規格の“読みやすさ”を巡る講演を続けた。講演ではしばしば「帽子は頭を守るが、頭は“理解を守らねばならない”」と語ったとされる[10]。
、病気のために死去した。享年はと記録されることが多いが、別資料では69歳とされており、数え方の揺れが当時の彼の主張(“数字の皮だけ合わせると破れる”)を皮肉にも体現したとも評されている[11]。
人物[編集]
せきがはらは、几帳面であると同時に、規格の“物語性”を軽視しない人物として描かれている。彼は試作品を褒めるとき必ず「この布は、雨のあとに人格が変わらない」と言ったという[12]。
また、性格面では“怒るが長く怒らない”とされる。帽子職人が説明を求めても彼はすぐに式を出さず、まずは現場の匂い(油、汗、洗剤の混ざり方)を嗅ぎ分けることから始めたとされる[13]。
逸話として有名なのは、彼が部下に「規格値は机で作れ、現場で育てよ」と命じた後、自分自身で裏地に余白を1.3mmだけ余分に縫い足したという事件である。部下は“その1.3mmは何の意味がある”と尋ねたが、せきがはらは「意味は後から来る。来ないなら、それも結果だ」と答えたとされる[14]。
業績・作品[編集]
せきがはらの代表的な業績は、帽子工学の衛生規格「S帽」を、行政運用に耐える形へ体系化したことにある。彼の方式では、帽子の通気性能を“測定値”として扱うだけでなく、着用者が迷いにくいように裏地の折り返し位置まで規定したとされる[1]。
主な作品(著作・報告書)としては『S帽規格の読み方』『微小逃げ道の統計化』『裏地余白の工学的倫理』などが挙げられる。『S帽規格の読み方』では、専門用語を避ける代わりに、試験手順を「一筆書き」のように説明したため、職人がすぐ再現できたと評価された[15]。
一方で、彼の研究には後年「物理の語彙より、文書の語感が勝っている」とする批判もあった。たとえば『通気率換算表(試案)』における換算係数は、出典が当初は明示されず、のちに“会議の直感”として補足されたとされる[16]。
後世の評価[編集]
せきがはらの評価は分かれている。支持派は、規格が現場に根づいた点を重視し、「行政が上から押し付けたのではなく、現場の感覚を翻訳した」と称える[17]。
批判派は、数値の根拠が曖昧な箇所があることを問題視し、特に通気率の計算方法が当時の学会の推奨から外れていると指摘している。加えて、彼が作った“写し型”の量産では、品質ばらつきが発生し、1950年代に一部で返品騒動が起きたとも伝えられる[18]。
もっとも、帽子の衛生基準はのちに別体系へ統合されていくが、「S帽」という語は通気・安全の代名詞として残り、標準化の語り口まで含めて影響を与えたとされる[19]。
系譜・家族[編集]
せきがはらの家族構成は資料により揺れている。一般に、妻は岐阜県の養蚕業家に連なる女性で、せきがはらの研究ノートの清書を担ったとされる[20]。
彼には長男と長女がいたとされるが、長男が帽子職人になったか、あるいは別の繊維機械を扱ったかで記述が異なる。ある回想記では長男が「角度の違う折り返しで事故が減る」を信じて家業を継いだとされる一方、別資料では「帳簿の読み間違いが一番怖い」として役所に就いたとされる[21]。
また、娘は図案家として紹介されることがあり、「S帽」の折り返しをモチーフにした切り紙が学校行事で使われたとも語られている。切り紙の図案は、折り目数が全部で47本であると細かく書かれているが、真偽は定かでない[22]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 関根雅彦『S帽規格の成立と運用』日本帽子衛生協会, 1937.
- ^ Margaret A. Thornton『Bureaucracy and Ventilation Standards in Early Modern Japan』Journal of Applied Fabric Metrics, Vol. 14 No. 2, 1951, pp. 33-58.
- ^ 小川朱理『通気の物差し――裏地余白の技術史』中央技術出版, 1949.
- ^ せきがはら総合記録編纂会『せきがはら しょう資料集(写し型を含む)』東雲書房, 1962.
- ^ 佐倉利光『衛生局会議録に見る帽子行政』東京行政史叢書, 第3巻第1号, 1940, pp. 101-146.
- ^ Hiroshi Tanaka『Statistical Folding and the “S-Curve” in Hat Design』Proceedings of the Textile Mechanism Society, Vol. 6, 1932, pp. 211-239.
- ^ 工学図書館『帽子工学功労賞受賞者名簿』工学図書館, 1934.
- ^ 柳沢絹子『雨天時の汗対策規格――一部返品騒動の記録』生活衛生叢書, 1955.
- ^ 田中京介『標準化文書の読みやすさ』文書工学出版社, 1939.
- ^ ※本来は異なるべきだとする見解として:K. Watanabe『A Study on Headgear Safety (Misdated Edition)』Osaka University Press, 1946.
外部リンク
- S帽資料館アーカイブ
- 帽子工学図書室(仮想)
- 衛生標準化データベース(S帽)
- 関市・旧関町人物誌サイト
- 内務省文書閲覧ポータル(非公式)