せっじゅす
| 分類 | 民間信仰、手技、港湾儀礼 |
|---|---|
| 成立 | 19世紀前半 |
| 起源地 | 蝦夷地沿岸部と越後北部 |
| 主要材料 | 麻紐、木製の骨札、塩を含ませた布 |
| 目的 | 潮の逆流を避け、作業の手順を整えること |
| 関連人物 | 渡辺精一郎、エレナ・ハート、佐伯宗玄 |
| 現代の伝承地 | 函館市、柏崎市、佐渡島 |
| 別名 | 節寿図、接授巣 |
| 儀礼日 | 旧暦の霜月十三日 |
せっじゅすは、後期の港湾測量と寒冷地保存の技術が融合して成立したとされる、日本の民間信仰兼手技体系である。からにかけて広まり、のちに祭礼用の器具操作法としても知られるようになった[1]。
概要[編集]
せっじゅすは、細長い木札を一定の角度で束ね、の向きとを同時に判定するための慣習的技法であるとされる。沿岸の船大工や荷揚げ人夫のあいだで共有され、のちに寺社の奉納具や漁具の点検法に転用された。
名称は「接(つなぐ)」「授(さずける)」「巣(集まる場)」の三語を合わせたものと説明されることが多いが、の『沿岸小技法ノート』では、実際には年間に書き手が読み違えた符牒が定着した可能性が高いとしている[2]。ただし、この見解にも異論があり、函館の古書店主・三浦定蔵は「せっじゅすは音で覚えるもので、字義は後から付いた」と述べている。
今日ではの一部地域において、正月飾りの分解順序や網のたたみ方を指す言い回しとして残るほか、地方研究会では「日本最古級の作業儀礼」として紹介されることがある。もっとも、実証的な資料は少なく、現存する文献の多くが末期の郷土誌に集中している。
語源[編集]
せっじゅすの語源については、少なくとも四つの説がある。最も広く知られるのは、の倉役・佐藤九兵衛が荷札の結束に使った掛け声「せっ、じゅ、す」に由来するという説である。
一方で、札幌の民俗学者・は、これを由来の海岸地名が転訛したものとみなし、特に「セツ・ジュ・ス」という三つの岩礁名の連結表現だったと主張した。彼の論文は『北方儀礼研究』第14巻第2号に掲載されたが、採集帳の半分に似た筆跡での地名が書き足されているため、後世の研究者からは慎重な扱いを受けている[3]。
なお、函館港の年寄りのあいだでは、せっじゅすは「接珠巣」と書いて、真珠のように物を揃える作法を意味したともいわれる。もっとも、この表記は期の広告看板にしか見えず、実在性は低いと考えられている。
歴史[編集]
成立期[編集]
成立は年間とされる。北前船の寄港地であるとのあいだで、冬季に濡れた縄を急速に乾かす必要から生まれたと説明されることが多い。とりわけ11年の大吹雪ののち、港ごとに異なっていた結束法を統一するため、商人たちが「三回巻いて二回ほどく」手順を定めたことが起点とされている[4]。
この時期のせっじゅすは、宗教色よりも実務色が強かったらしい。記録上、の商家「森屋」の蔵帳には、米俵を結ぶ職人が「せっじゅすの手で置くべし」と書かれた箇所があり、後世の解釈ではこれが最古の一次資料とされる。ただし蔵帳の墨色が他の項目より著しく濃く、後補の可能性も指摘されている。
寺社への流入[編集]
からにかけて、せっじゅすは沿岸のに取り入れられ、航海安全の祈祷と結びついた。特に北部の社家が、漁網の結び目を神前でほどいてから再度結ぶ「解結再授式」を始めたことにより、儀礼化が進んだとされる。
という僧侶がこの作法を体系化し、1858年に『接授抄』を著したと伝えられる。そこでは「結びは力でなく順である」との一句が有名で、現代の作業療法の先駆とも解釈されているが、原本はの複製室でしか確認されていない[5]。
明治以降の再発見[編集]
20年代、内務省の地方博覧会政策により、せっじゅすは「失われた漁村の技」として再発見された。とくにで開催されたの周辺展示では、木札を組む実演が人気を集め、1日あたり平均3,800人が立ち止まったという記録がある。
このとき実演を担当したのが、青森出身の女性技手・である。彼女は英国商館で手袋の検品を学んだ人物とされ、せっじゅすの結束角を「17度から23度の範囲に保つと潮気を逃がしやすい」と説明した。数字の出典は不明であるが、後年の郷土資料では妙に頻繁に引用されている[6]。
技法[編集]
せっじゅすの基本は、麻紐を三重に回し、骨札を左から右へ「授・接・守」の順で差し込むことにある。熟練者はこれを30秒以内に行うことができ、冬季の強風下では片手のみで結束する「片掌せっじゅす」が用いられた。
最も特徴的なのは、最後に布で結び目を軽くたたく「醒まし」の所作である。これは結びの締まりを確認するという実用的な意味のほか、悪天候の到来を先に布へ移すという迷信的意味もあったとされる。関係者の回想録では、船主の中にはこの所作を怠ったために荷崩れを起こし、「せっじゅす抜け」と揶揄された者がいたと記されている。
また、地域によっては札の枚数が異なり、では7枚、では9枚、では12枚が標準とされた。これについては「塩の粒の数に合わせた」とする説があるが、実際には在庫管理の都合で増減しただけだという冷めた説明もある。
社会的影響[編集]
せっじゅすは単なる結び方にとどまらず、港町の労働組織における序列表示としても機能した。親方は木札を朱塗り、弟子は白木のまま用いる慣例があり、これがのちに町内会の役員札に転用されたという。
また、初期には女子教育の一環として「家庭整頓術」として紹介され、の外郭団体であるが、東京・の講習所で年12回の講座を開いた。受講者数は1933年時点で延べ2,240人とされ、特に弁当包みの整え方に応用した例が多かった[7]。
一方で、過度に形式化された結果、現場では「結ぶ前に会議が始まる」と批判されたこともある。港湾作業の迅速化を目的に導入されたはずのせっじゅすが、逆に手順確認のための儀礼を肥大化させたのである。この矛盾は、民俗技法が制度化される際の典型例として研究対象になっている。
批判と論争[編集]
せっじゅす研究には、資料不足をめぐる批判が根強い。特にの民俗学講座では、主要文献の多くが末から初期の回想録であり、しかも記述が互いに食い違うことから、「後世の創作が港湾実務の名を借りた可能性」が指摘されている[8]。
さらに、に刊行された『北海結束誌』の挿絵に描かれた木札が、実は製のワイン箱の留め具を模写しただけではないかという疑義もある。これに対し保存会は、「模写であっても伝承の一部である」と反論したが、議論は現在も収束していない。
もっとも、否定的な見解がある一方で、地方の祭礼や家庭内作業に残る断片的な手つきが、せっじゅすの実在を示すとする研究者もいる。実際、の一部では、網を畳む際に最後の一枚だけ外側へ出す癖があり、これを「せっじゅすの余白」と呼ぶという。
現代の継承[編集]
現在、せっじゅすはの「北方生活技術保存会」やの海辺文化研究所などで、年2回の実演が行われている。参加者はおおむね40〜60人で、見学者の半数近くが写真撮影のあとに「思ったより地味」と感想を漏らすという。
しかし、近年は教材との相性のよさから再評価が進んでいる。2022年には内の専門学校で、せっじゅすを応用した結束訓練が物流コースに導入され、テスト群の荷崩れ率が14.7%低下したと報告された。ただし、比較対象の母数が小さいため、学術的には慎重な扱いが必要である。
また、観光向けには「せっじゅす体験キット」が販売されているが、実際には紙札6枚と説明書1枚、そして妙に長い注意書きから成る。これが売れる理由について、地元の土産物店主は「結べる気がしないのに、なぜか達成感だけはあるからだ」と語っている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐藤九兵衛『北廻り荷札考』松前文化社, 1847年.
- ^ 渡辺精一郎「沿岸儀礼としてのせっじゅす再考」『北方儀礼研究』Vol.14, No.2, pp. 41-67, 1978年.
- ^ 三浦定蔵『函館港と結束作法の変遷』道南書房, 1896年.
- ^ 佐伯宗玄『接授抄』東海寺刊, 1858年.
- ^ エレナ・ハート「Angles of Knotted Labor in Northern Japan」『Transactions of the Folklore Society of Asia』Vol.7, No.1, pp. 9-28, 1909年.
- ^ 長谷川喜市『北海結束誌』北海民報社, 1921年.
- ^ 文部省外郭生活改善指導会編『家庭整頓術講習録』生活改善研究叢書第3巻第4号, 1934年.
- ^ 田村静枝『港町の手技と共同体』港湾民俗出版会, 1962年.
- ^ M. K. Thornton, “Ritualized Binding and Coastal Logistics,” Journal of Maritime Customs, Vol.12, No.3, pp. 201-229, 1988.
- ^ 北海総合文化センター編『せっじゅす図解と復元メモ』北海新書, 2004年.
- ^ 岩城真理子『札と縄の近代史――せっじゅす資料集成補遺』青波出版社, 2016年.
外部リンク
- 北方生活技術保存会
- 函館港民俗アーカイブ
- 新潟沿岸作業文化研究所
- せっじゅす復元委員会
- 港湾儀礼データベース