たみさん
| 氏名 | 多見 三郎 |
|---|---|
| ふりがな | たみ さぶろう |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 出生地 | 郊外の下塩地区 |
| 没年月日 | 1981年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民間符号設計者、郷土史家、放送運動家 |
| 活動期間 | 1934年 - 1979年 |
| 主な業績 | たみ式呼称法の創案、の設立、地域送り状規格の整理 |
| 受賞歴 | (1968年)、(1975年) |
多見 三郎(たみ さぶろう、 - )は、の民間符号設計者、郷土史家、ならびに中期の地域放送運動の先駆者である。方言放送の標準化と「たみ式呼称法」の考案者として広く知られる[1]。
概要[編集]
多見 三郎は、日本の民間符号設計者である。とりわけ、から北部にかけて広まった「たみ式呼称法」を提唱した人物として知られる[1]。
この方式は、商店の呼び出し札、共同浴場の番台記録、地域放送の案内文などに用いられたとされ、戦後の地方コミュニティに独特の統一感を与えたと評価される。一方で、実際には多見自身が作成した私家版の便覧が基礎になっており、学術的には後世の編集による拡張が多いと指摘されている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
多見は、にほど近い下塩地区の農家に生まれる。家は米作に加え、冬季に木札を彫る副業を営んでおり、三郎は幼少期から地方の帳面文化に親しんだという。旧制では算術よりも文字配列の美しさに関心を示し、ノートの余白に村内の呼称一覧を延々と書きつけていたと伝えられる[3]。
青年期[編集]
、三郎はへ出て印刷工場に勤め、活字の組版と掲示文の作法を学んだ。のちにの下請け帳票整理に関わり、そこで「同じ人物を複数の呼び方で記すこと」が現場の混乱を招いていることに気づいたとされる。これを契機として、彼はの例会に出入りし、と帳票学を独学で横断するようになった[4]。
活動期[編集]
、多見は地元に戻り、内の公民館を拠点に「信越民声同盟」を結成した。同同盟は、方言の表記ゆれを抑えながらも土地の呼吸を残すことを目的とし、1952年までに内の87自治会へ便覧を配布したという。なお、彼が考案したとされる「たみ式呼称法」は、人物名・店名・役場名の三層に分けて呼び方を固定するもので、頃には一部の支所やで半ば公的に採用された[5]。
晩年と死去[編集]
に入ると、多見は視力の低下から手書きの符号表作成をやめ、口伝の整理に専念した。晩年はの海沿いに小さな書斎を構え、潮騒を聞きながら「呼称は地域の骨格である」と語ったとされる。11月3日、内の病院で死去した。享年69。葬儀では、参列者が一人ひとり異なる呼び名で彼を送ったため、式次第が3回ほどやり直されたという逸話が残る[6]。
人物[編集]
多見は寡黙で几帳面な性格であったとされるが、実際には集会のたびに時刻表や献立表まで整列させる癖があった。本人の手帳には、の濃さを5段階で管理した記録や、来客を「雨の日の客」「土曜の客」「再訪の客」に分けた索引が残っている。
また、彼はの温泉地に視察へ行った際、番台の名札が揺れて読みにくいことに腹を立て、翌朝には自費で63枚の真鍮札を持ち込んだという。これが後の「たみ札」の原型になったとされるが、本人は終生これを「たかが札」と呼び、功績を誇ることは少なかった[7]。
業績・作品[編集]
多見の業績は、符号表と地域文書の改良に集中している。代表作とされる『たみ式呼称便覧』()は、人物・商店・地名の読み方を統一するための実務書で、初版はわずか420部であったが、地方の商工会議所を中心に複写が広まった。
ほかに、『村の呼び出し方』(1958年)、『方言を売り場に戻す』(1961年)、『季節札の整え方』(1967年)などがあり、いずれも文体は地味であるが、付録の見取り図だけ妙に精密であると評された。特に『方言を売り場に戻す』は、表題と内容のずれが大きいとして、後年の研究者から「もっとも誤解されやすい地方実務書」の一つに数えられている[8]。
後世の評価[編集]
多見の活動は、、、の三つの分野で異なる評価を受けている。地域研究者の間では、戦後の町内会文化を言語面から支えた人物として再評価が進んでおり、にはの研究会が「多見文書」の目録化を行った。
一方で、彼の体系には私設ルールが多く、同一語を場面ごとに別名へ置換する手法については、現場で混乱を招いたとの批判もある。とくにの商店街アンケートでは、案内板の改善に役立ったとする回答が71%だった一方、「祭りの日に人を探しにくくなった」と答えた住民が19%を占めたという[9]。この数字の正確性については要出典とされることが多い。
系譜・家族[編集]
多見家は代々周辺で農業と木札製作を営んだ家系である。父の多見清次は村の用度係を兼ね、母の多見はるはの縁組帳をまとめる役目を担っていた。兄の多見与一はへ渡ったのち文書係となり、妹の多見ふさは戦後にで小学校教諭を務めた。
三郎はに出身の松井トキと結婚し、二男一女をもうけた。長男の多見弘は地域ラジオ局の技術職、次男の多見修は書体修復師となり、長女の多見千賀はのちに父の資料整理を担当した。なお、家族内では三郎のことを「さんさま」と呼んでいたが、近隣では「たみさん」と短縮され、その呼称が逆に本人の代名詞として定着したとされる[10]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯良平『たみ式呼称法の成立と運用』地方文化出版社, 1979.
- ^ M. Thornton, “Local Broadcast Naming Systems in Postwar Japan,” Journal of Regional Media Studies, Vol. 12, No. 3, 1984, pp. 44-67.
- ^ 多見弘一『多見三郎資料目録 第一巻』北越資料叢書刊行会, 1991.
- ^ 田中節子『越後の札と声—村落符号の近代史—』信濃川学術社, 2002.
- ^ R. H. Bell, “An Index of Communal Address in Rural Asia,” Pacific Ethnography Review, Vol. 8, No. 2, 1969, pp. 115-139.
- ^ 中村公彦『呼称の政治学』東都書房, 2010.
- ^ 渡会一郎『方言を売り場に戻す研究』長岡文化大学出版局, 2014.
- ^ Eleanor Finch, “The Tami Papers and the Problem of Stable Naming,” Transactions of the East Asian Folklore Society, Vol. 27, No. 1, 1998, pp. 5-31.
- ^ 小川澄夫『地方放送と標識の社会史』北陸メディア出版, 1987.
- ^ 高瀬由紀『季節札の整え方—多見三郎の実務思想—』越後書林, 1971.
- ^ C. W. Mercer, “Mistakenly Formal: A Typology of Civic Labels,” Civic Semiotics Quarterly, Vol. 4, No. 4, 1976, pp. 201-219.
外部リンク
- 新潟民声アーカイブ
- 越後地方符号史研究室
- 長岡郷土資料デジタル館
- 信越放送史同人会
- たみ式呼称法保存委員会