ちげーしの馬
| 分野 | 民俗学・祭礼工学 |
|---|---|
| 伝承地域 | 北東部の旧開拓地(口承上) |
| 成立時期 | 18世紀末〜19世紀前半の口承化とされる |
| 中心要素 | ・合図太鼓・行列軌道 |
| 関連組織 | 村の常会・系の勧農家連絡網(後世の噂) |
| 社会的役割 | 年作の見立てと、共同作業の段取り確認 |
| 論争点 | 起源が「祈雨」なのか「厄払い」なのか |
(ちげーしのうま)は、の農村祭礼に伝わるとされる「踊る馬」の作法体系である。口承ではやと結び付けられ、地域の結束や年作(としぶり)判断に用いられたとされる[1]。
概要[編集]
は、祭礼の最中に参加者が一定の軌道で進み、馬形の道具(幣や仮設棚)に対して決まった回数だけ敬礼する、という手順の総称であるとされる。外部者には「奇妙な行列遊戯」に見える一方、当事者の説明では「共同体の時間を整える技法」であるとされてきた[1]。
成立の経緯については、農作業の繁忙期に人員配置が崩れた年、夜間の段取りを口伝だけで回す必要が生じたことが契機であると語られる。具体的には、合図太鼓の間隔を厳密に固定し、誰がどの地点に立つかを“馬の位置”として覚え直したことで、事故や手戻りが減ったと主張されている[2]。ただし、これらの説明は後述するように、複数の系統で数字の扱いが微妙に異なり、異説も多い。
名称と形式[編集]
「ちげーし」とは何か[編集]
「ちげーし」は、方言音写の一種であり、合図の“ズレ”を直す所作を指したとする説がある。農閑期に余った縄を編み直す作業を「ちげる」と呼び、それが音楽的テンポへ転用されたという説明が、最も整って聞こえる解釈として流通している[3]。一方で、同名の鉱山町があったという伝承もあり、そちらでは「坑内の帰路を示す合図」の転訛とされることがあるため、単純な方言説には収まりきらないとも指摘される[4]。
馬形の幣と“行列軌道”[編集]
馬形の幣は、木枠に紙片と布を交互に貼り、触れると音が鳴るよう細工したものとされる。加えて、行列は円ではなく“楕円に近い二点間軌道”で組まれ、参加者は楕円の片側に立つと敬礼回数が1回増える、といったルールが口承で語られる[2]。
特に有名なのが「合図太鼓の三層反響」である。太鼓の胴は直径を、打面の張力を相当とする説明が残っており、祭礼の技術書に準じた語り口になっている。ただし、当然のことながら当時の測定器具がどこまで整備されていたかは曖昧であり、のちの研究者が“それっぽい工学値”に整えた可能性もあるとされる[5]。
歴史[編集]
成立前史:雨乞いと農事暦の二重化[編集]
の起源は、祈雨儀礼と農事暦の運用が混線した時期に求められる、とされる。すなわち、乾きが続いた年に神職が外部から呼ばれたが、到着が遅れ、代替として村人が“儀礼の時間割”を自作する必要が生じた、という筋書きが語られている[1]。
このとき、当番は「馬」を名乗ることで責任範囲を固定したとする。面白いのは、“馬”は動かさない点である。馬形の幣は常に同じ場所に据えられ、参加者の立ち位置だけが移動することで、暦のズレを身体化したと推定されている[2]。
村落連絡網と「札幌農学校」組の噂[編集]
18世紀末の口承は記録に乏しいとされるが、後世になって系の勧農家が村の常会記録を整理し、“作法を工程表にする”試みがなされたという噂がある[6]。その整理の結果、合図太鼓の間隔が「短・中・長」で固定され、所要時間は全部でに収束した、とする説明が残る。
ただし、このは、複数の地方伝承を平均して“それっぽく丸めた数字”ではないかという批判もある。一方で、丸めたはずの平均値がなぜ素数で終わるのか、という疑問から、むしろ現場では複数回の試行があったのではないかと逆に擁護されることもある[7]。
明治期の再編:厄払い説の拡大[編集]
明治期には衛生観念の流入があり、祭礼は厄払いの色も帯びたとされる。具体的には、馬形の幣に触れた者が帰路で水を汲む儀が組み込まれ、往復でだけ足踏みする必要が生じたと説明される[3]。
この再編は、地域の(当時の管轄圏という後世の推定)で“行事の届出”を巡る調整があったからだとする語りもある。祭礼を形式化するほど行政の目が通りやすくなり、その結果、手順が増えたという筋書きが採られている[8]。ただし、行政文書の直接証拠が示されたことはなく、記憶の整形が進んだ段階で生まれた物語である可能性もあるとされる。
社会的影響[編集]
は、祭礼そのもの以上に「共同体の段取り学」として作用したと説明される。特に、稲作や畑作の繁忙期には人が頻繁に入れ替わるため、新参者が“どこに立てば安全か”を短時間で学べる仕組みが必要とされた、とされる[2]。
また、行列軌道の比喩が“仕事の流れ”に接続された点が重要である。馬形の幣を基準にした位置関係は、そのまま収穫物の受け渡し地点や、刈り取り順の合図として流用されたとする回想が残る。結果として、儀礼が農作業の段取りを補助し、技能の継承が単に口伝ではなく身体手順として保たれたとされる[1]。
さらに、祭礼が年作の見立てにも影響したという主張がある。例えば、敬礼回数の総和が「前年より」年は霜害が遅くなる、といった“統計っぽい”因果が語られ、村の意思決定が噂で加速した側面があったとされる[5]。この種の説明は合理性を装うことで共同体の合意形成を容易にし、外部からは迷信と見られることもあった。
批判と論争[編集]
には、起源を巡る論争が複数ある。第一に、雨乞い由来説と厄払い由来説が並存し、どちらが先かが確定していない点が挙げられる[1]。雨乞い説では合図太鼓が“湿度の上昇を呼ぶ”比喩とされるのに対し、厄払い説では足踏みが“穢れの足裏を断つ”作法として語られるため、同じ所作でも意味づけが変わる。
第二に、数値の整合性が疑われている。直径や時間など、具体性の高い値ほど後世の編集が混ざっているのではないか、という指摘がある[7]。さらに、のような近代行政組織が語りに混入している点から、行政届出の記憶が祭礼の古層に“遡及”された可能性があるとする見方もある[8]。
ただし、批判側が「作法が古いなら数値も自然発生するはず」と前提にしていることへの反論もあり、実際には祭礼は後から学術的に整えられることがあるため、疑うこと自体が必ずしも証明にならないとされる[4]。結果として、真偽よりも“村が語りたい構造”が優先され、百科事典的には整理しにくい状態が続いている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『北東農村の行列儀礼と身体手順』北海道地方史研究会, 1998.
- ^ Margaret A. Thornton『Rhythms of Community: Folk Performance in Northern Regions』Cambridge Folklore Press, 2007.
- ^ 佐藤麗奈『幣(ぬさ)の形状工学と音鳴り作法』札幌文化技術学会誌, 第12巻第2号, pp. 41-63, 2011.
- ^ 高橋健次『農事暦の口承数値化—短・中・長の成立仮説』農村記録学研究, Vol. 6, No. 1, pp. 5-19, 2003.
- ^ 岡村千草『厄払いとしての足踏み:ちげーしの馬の比較史』民俗音響学会紀要, 第3巻第4号, pp. 88-102, 2016.
- ^ Yuki Matsudaira『Administrative Memory and Ritual Retrojection』Journal of Applied Mythography, Vol. 19, No. 3, pp. 210-233, 2020.
- ^ 山脇正人『祭礼時間の最適化と“素数の残り”』計量民俗学会誌, 第9巻第1号, pp. 77-95, 2014.
- ^ (やや不正確)鈴木藍『北海道開拓行政届出史の再検討』網走史料館出版部, 1987.
- ^ Ellen K. Hartwell『Temporal Engineering in Folk Rituals』Oxford Field Studies, Vol. 2, pp. 120-147, 2012.
- ^ 中村光『口承の編集過程と数字の整形—ちげーしの馬の事例』日本語社会記憶論叢, 第21巻第2号, pp. 1-23, 2009.
外部リンク
- 北東農村儀礼アーカイブ
- 合図太鼓の作法資料室
- 馬形の幣コレクション(地域展示)
- 年作数値伝承データベース
- 郷土祭礼工学ノート