つきなみのほとり
| 名称 | つきなみのほとり |
|---|---|
| 分類 | 民俗地理学・沿岸儀礼・準地形用語 |
| 成立 | 18世紀末 - 1930年代 |
| 提唱者 | 白川 宗澄、長谷部 霧子ほか |
| 中心地 | 九十九里浜、琵琶湖沿岸、旧東京水路研究所 |
| 関連儀礼 | 朔待ち、潮返し、月影渡し |
| 用途 | 水位観測、航行祈願、共同体の境界再確認 |
| 現在の位置づけ | 学術上は否定的、民俗文化では半ば伝承化 |
つきなみのほとりは、という語の意味を一時的に「周期的な水際現象」を指す専門用語へ転用した、の民俗地理学上の概念である。主に末期の沿岸儀礼と、初期の湖沼測量技術の接点から成立したとされる[1]。
概要[編集]
つきなみのほとりとは、満月と新月の前後にのみ現れるとされた「可変の水際」を指す概念である。実際にはや浅瀬の観察記録を寄せ集めたものであるが、古い記録では「岸が月の位相に応じて一尺二寸ほど呼吸する」と説明されている。
この語は学術用語としては短命であったが、、、さらには港町の口承にまで広く入り込み、からにかけて独自の解釈が派生した。なお、1938年の『沿岸変形暦試案』において初めて定義が固定されたとされるが、同書の校正刷りには「ほとり」が「ほころび」と誤植されていたという指摘がある[2]。
名称と定義[編集]
「つきなみ」は本来、月次・月並み・月の周期を意味する複数の語源が混線した表現である。これに「ほとり」が結びついたことで、単なる湖畔や川岸ではなく、周期的に意味を変える境界帯を指すようになった。
白川宗澄によれば、つきなみのほとりは「見える岸」ではなく「共同体が岸として認める帯」であり、同じ場所でも祭礼の日だけは岸、平日はただの湿地とされた。こうした定義の揺らぎが、後の研究者を長く悩ませたとされる。
成立の経緯[編集]
江戸後期の浜番記録[編集]
起源は年間の房総沿岸にあるとされ、漁村の浜番が月齢ごとに「岸の出入り」を記した帳面に由来する。とくに大網村の庄屋・小林伝右衛門家に残る『潮目日録』には、からまでの5年分、計412回の観測が載り、そのうち37回で「ほとり移る」と記されている。
この記録は後世、実際の潮位変化ではなく、夜光虫の発光範囲を岸の移動と見なしたものではないかと解釈されたが、地元では「月が浅瀬を縫う日」として語り継がれた。
東京水路研究所での再発見[編集]
7年、臨時水路研究班に配属されていた長谷部霧子が、旧幕府資料の整理中にこの語を発見した。長谷部は当初、用語の奇妙さを笑い飛ばしたが、同年9月の暴風雨後に沿岸の旧運河で水際の形が異常に変わる現象を観測し、これを「つきなみのほとりの近代的再現」と論じた。
この報告書は所内では半ば珍論として扱われたものの、付録図版がやけに精密であったため、翌年の『水路彙報』に要約転載された。なお、転載時に図5の凡例だけがなぜか逆さまで印刷されている。
民俗的展開[編集]
の琵琶湖沿岸では、つきなみのほとりは「境の保養」とも呼ばれ、満月の夜にだけ浜へ出て、舟の鎖を一度だけ緩める慣行があったとされる。これにより、翌月の漁場の不作を避けるという信仰があったが、実際には船番同士の交替確認の儀式であった可能性が高い。
またの宍道湖周辺では、子どもが泥に残した足跡の数で翌年の干満を占う「ほとり踏み」が行われたという。1930年代の聞き書きでは、最も長く続いた年で足跡が84個記録されたが、同じ証言者が別頁では「数え切れぬほど」と述べており、研究者の間でしばしば議論の種になっている[3]。
学術化と標準化[編集]
1920年代後半からおよびの一部で、つきなみのほとりを正式な観測単位として採用しようとする動きがあった。特に測量士の山根三千雄は、岸線を「固定線」「半固定線」「月齢随伴線」の3種に分け、そのうち後者をつきなみのほとりと定義した。
しかし1936年の討議では、研究者17名中11名が「概念としては美しいが測れない」と回答し、残る6名も「測れなくても現場では便利」として意見が割れた。結局、標準化は見送られたものの、港湾計画の内部文書では1960年代までひそかに用いられたとされる。
社会的影響[編集]
つきなみのほとりは、単なる学術用語にとどまらず、沿岸の自治や共同体意識にも影響を与えた。とくにの漁協では、月に一度、堤防の内外を入れ替えるような象徴的な掃除を行い、「岸を更新する」と呼んだ。
また商業面では、1954年にの土産菓子店が「つきなみのほとり餅」を発売し、売上が初月で2,840箱に達したという。もっとも、実際には普通の求肥菓子であり、箱の内側にだけ「満潮時にお召し上がりください」と印刷されていたため、観光客の間で小さな話題となった。
批判と論争[編集]
この概念に対しては、早くから「詩的比喩を地理学に持ち込んだだけである」との批判があった。とくにの地形学者・西園寺隆は、1958年の論文で「つきなみのほとりは、観測対象ではなく観測者の郷愁である」と述べ、学界に波紋を広げた[4]。
一方で擁護派は、沿岸部の口承や生活実感を無視した硬直的な地理学こそ問題であると反論した。なお、1972年の公開討論会では、議論の最中に会場の照明が月齢表示に切り替わり、参加者の半数が一時的に賛成票を投じたという逸話が残るが、これは会場係の誤操作とみられている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 白川宗澄『月次の岸辺——つきなみのほとり論』海鳴書房, 1939.
- ^ 長谷部霧子「沿岸可変帯における月齢差」『水路彙報』Vol. 18, 第3号, 1933, pp. 211-229.
- ^ 西園寺隆「比喩としての地形学」『地理学評論』Vol. 31, 第2号, 1958, pp. 77-94.
- ^ 山根三千雄『月相と岸線の標準化』日本測量協会出版部, 1941.
- ^ 小林伝右衛門家文書編纂委員会『潮目日録影印本』房総民俗資料刊行会, 1967.
- ^ Margaret A. Thornton, "The Edge That Moves: Lunar Littoral Concepts in East Asian Folk Hydrography," Journal of Comparative Hydrology, Vol. 7, No. 4, 1974, pp. 301-318.
- ^ 佐伯辰夫「宍道湖周辺における足跡占の記録」『民俗と水界』第12巻第1号, 1961, pp. 44-59.
- ^ Kazuo Inoue, "Boundary Worship and Tidal Memory," Transactions of the Pacific Folklore Institute, Vol. 2, No. 1, 1965, pp. 5-21.
- ^ 長谷部霧子・山根三千雄『水際の呼吸——観測不能なものの測り方』東京帝国大学出版会, 1937.
- ^ 西園寺隆『ほとりの哲学』岩波書店, 1960.
- ^ 田宮一郎『月並みと月次の交差史』古今書院, 1988.
外部リンク
- 国立沿岸民俗資料館デジタルアーカイブ
- 東京水路研究所旧蔵図版庫
- 月齢地理学会会報
- 房総潮目史料プロジェクト
- 境界民俗研究ネットワーク