のじはた
| 氏名 | 野次旗 颯 |
|---|---|
| ふりがな | のじはた はやて |
| 生年月日 | (明治22年)9月14日 |
| 出生地 | 佐渡郡金井村(現・佐渡市) |
| 没年月日 | (昭和39年)4月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 文化行政官・民俗編集者 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 「海風民俗台帳」整備と地方史料の標準化 |
| 受賞歴 | 日本民俗学会賞(想定)ほか |
**野次旗 颯(のじはた はやて、 - )は、の文化行政官・民俗編集者である。風向きを読む編集術が「郷土記録の最前線」を築いたとして広く知られる[1]。
概要[編集]
野次旗 颯は、日本の文化行政官・民俗編集者として知られた人物である。彼は行政文書の硬さを嫌い、現地で人に「数える理由」を説明してから記録を取る方式を確立したとされる。
特に「海風民俗台帳」と呼ばれる独自の登録体系は、の漁村だけでなく、のちに全国の郷土資料館で模倣された。彼の編集現場では、聞き取りが終わるたびに“風の方向”ではなく“言い回しの癖”を分類することが運用されており、これが「読み替えの行政」として一部で話題になった[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
野次旗 颯は(明治22年)9月14日、佐渡郡金井村に生まれた。父は回船問屋の帳場で、母は石灰釜の焚き子上がりの人物として伝えられる。
颯は幼少期から「字の数え方」に異様なこだわりを見せたとされ、5歳のときに「潮の満ち引きは、文節の長さで先に来る」と言い出したことが、家の古帳に“なぜか”残っているという。このとき村の長老が即興で与えたのが、のちの愛称となったの別名「野次の旗」であったと説明される[3]。
青年期[編集]
、颯は金井村の寄宿塾からの小規模講習所へ転じた。当時の講習所は“速記を学ぶ”ことを表向きの目的としていたが、実態は「行政が扱える文章の標準幅」を身につけさせる研究会だったとされる。
颯は最初の提出課題で、同じ内容を“原稿用紙1枚の左半分だけ”に収める工夫をして満点を得た。審査員は彼に、文章の長さだけでなく「息継ぎの場所」を測定するよう命じ、以後、颯は聞き取りの際に相手の発声リズムを手帳へ記号化していくことになる。記号は全部でと決められ、颯はそれを守ることを“礼儀”として教えたと回想される[4]。
活動期[編集]
、颯は地方事務官補として採用され、のちに系の臨時記録係に転じた。彼が最初に任されたのは、漁業関係の「災害届」の整理だったが、颯はその場で“届出の文章”ではなく“届出が生まれた語り”を分類し直した。
その延長で、に発足した「沿岸伝承管理調査会」(通称:風見会)では、各村から集めた逸話の語彙を「天気」「道具」「年齢」の三軸で再編する方針が採られた。颯は会合で「風向は測れるが、言葉の向きは測れない」と述べ、代わりに“句点の位置”を統計化する提案をしたとされる。なお、翌年の報告書では句点が総計個と算出されているが、これは集計担当者の誤記が疑われつつも、そのまま採用された[5]。
第二次世界大戦前後には、彼は地方史料の散逸防止を掲げ、やの学芸員向けに「台帳の雛形」を配布した。とりわけ、聞き取りから台帳化までの所要日数を平均からへ短縮する改良に成功したと記録される。さらに彼は、現地で余った紙の裏面を“次の聞き取りの地図”として再利用する運用を広めた[6]。
晩年と死去[編集]
、颯は体調不良を理由に行政職を退き、で民俗講座の顧問を務めた。彼は講座でも例外なく、質問の順番を“上がる声→下がる声→沈黙”の順で組むべきだと説いたとされる。
(昭和39年)4月2日、颯は金井村に近い海岸沿いの宿で倒れ、満で死去したと伝えられる。死後、机の引き出しから「句点は祈りではなく呼吸である」と書かれた短冊が見つかり、これが彼の代表的な言葉として残った[7]。
人物[編集]
颯は寡黙である一方、会話の最中に突然、話者の手元を観察して「それは器の癖だ」と断じる癖があったとされる。彼によれば、人は道具を使うときにだけ“嘘のない速さ”が出るという。
また、彼は権威を嫌う反面、肩書きだけは異様に整える人物であった。地方紙の記者が「先生はどちらのお立場で?」と尋ねた際、颯は「立場ではなく版面だ」と答えたという逸話が残る。彼の原稿は必ず上からあけ、見出しの行頭には“印刷の息”が入るまで待つと記されていた。
一方で、頑固さも指摘されている。特定の地区での聞き取りが“口語の崩れ”により成立しないと判断すると、彼は翌週の聞き取りをすべて中止し、別の日程を提示するよう強く求めたとされる。この決断は現場から恐れられたが、結果として後世の史料の保存率を押し上げたと説明される[8]。
業績・作品[編集]
颯の業績は、行政が扱う記録と、村が守る語りのあいだに“翻訳できる形”を作ったことにあると評価される。彼は「海風民俗台帳」を自らの構想として整備し、聞き取り結果をとの組み合わせで索引化した。
作品面では、『海風民俗台帳式手引(稿)』が代表的である。これは単なる台帳の仕様書ではなく、現地調査の導線、質問文の温度、紙の匂いまで扱ったとされる。同書の第三章には、質問の間に入れる沈黙の長さを秒で測る方法が記されているが、具体的には「以上の沈黙が続いたら、相手の“語り口”が変わった合図」と書かれていたと伝えられる[9]。
そのほか、地域向けの小冊子として『灯台の見取り図と物語のつなぎ方』『句点を数える年中行事』などがある。特に『句点を数える年中行事』は一部で“教育用の怪本”として流通し、学校の副読本として扱われた時期があったとされる。なお、当該副読本の初版部数はとされるが、どこにも在庫が見当たらず、数だけが残ったといった噂もある[10]。
後世の評価[編集]
颯の評価は、民俗学者から行政史研究者まで広く分かれている。民俗学側は、彼の方法が「語りの形式」を残した点を評価した。一方、行政史研究側は、分類体系があまりに整いすぎていたために“現地の揺れ”が切り落とされた可能性を指摘している。
特に議論となったのが、風見会で採用された句点統計の扱いである。統計自体は合理的だが、元データの筆者が「自分は数えていない」と語っていた証言があり、編集工程のブラックボックス性が問題視されたとされる[11]。もっとも、颯の仕事が契機となって、多数の地域史料が“散逸する前に”保存されたことはほぼ共通して認められている。
また、文化行政官としての彼は、記録の標準化が後の政策へ与えた影響も評価される。たとえば、のちの系の研修カリキュラムに「聞き取りのリズム記号」という項目が取り入れられたとする説がある。ただし、この接続を一次資料で確認できないため、「ある時期に似た表現が流行した」程度にとどめる見解もある[12]。
系譜・家族[編集]
颯の家系は、母方が佐渡の石灰業に関わり、父方が帳場職として文書を扱っていたことが特徴とされる。彼自身、家業を直接継がなかったが、帳場の作法だけは徹底して身につけたと伝えられる。
妻は内の織物工房出身の「深萩 てる」とされる。深萩は颯の台帳に、布の織り目を模した補助記号を追加した人物として知られ、これにより“道具の説明”が増えたと説明される。二人の間には子がいたが、長男は早世し、次男は港の測量補助に回り、長女は図書館で貸出カードの整理を担当したとされる[13]。
また、颯の死後、次男が残した手帳に「本当の分類は、紙ではなく声の温度で行う」という一文があるとされ、家族の間では彼の“編集哲学”が口伝で引き継がれたと語られている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 野次旗颯『海風民俗台帳式手引(稿)』風見書房, 1934年.
- ^ Margaret A. Thornton「Administrative Folklore Indexing: A Case Study from Sado」『Journal of Regional Recordkeeping』Vol.12 No.3, pp.41-69, 1951年.
- ^ 田辺綾乃『沿岸伝承管理調査会の記録運用』文書工学叢書, 1960年.
- ^ 鈴木鶴之『句点と呼吸の統計学』暁出版社, 1957年.
- ^ 江口研治「記録媒体の匂いと聞き取り成果」『日本社会文書学会誌』第7巻第2号, pp.101-118, 1948年.
- ^ Kazuhiro Nakamura「Rhythm Coding in Oral Archives: Notes on the Nojihata Method」『Transactions of the Archive Society』Vol.4 pp.13-27, 1959年.
- ^ 高橋文次『灯台の見取り図と物語のつなぎ方』灯台図版局, 1938年.
- ^ 中原静夫『句点を数える年中行事』国民読本編集部, 1942年.
- ^ 要野外三『文化行政官の版面哲学』新星出版, 1971年.
- ^ J. E. Rook「Standard Width of Field Notes」『Archivistica Review』Vol.19 No.1, pp.1-19, 1939年.
外部リンク
- 風見会デジタル文庫
- 佐渡民俗資料アーカイブ
- 台帳式索引研究会
- 句点と呼吸の資料室
- 地方史料保存推進機構