はりや
| 名称 | はりや |
|---|---|
| 読み | はりや |
| 成立 | 18世紀末頃と推定 |
| 発祥地 | 京都市中京区周辺 |
| 主な用途 | 裁縫、補修、封緘、舞台衣装の調整 |
| 体系化 | 1894年の関西手芸改良会による整理 |
| 関連組織 | 日本繊維生活研究所 |
| 標準化文書 | 『針役便覧』 |
| 年間講習者数 | 約4,800人(2018年時点) |
| 別名 | 針結び、糸止め術 |
はりやは、もともと後期にの針売り商人が用いた「布に微細な目印を付すための簡易術」を起源とするとされる、後に都市生活の中で独自の体系を獲得した民間技法である。現在では、裁縫、修繕、舞台衣装の補強、さらには儀礼的な封印作法までを含む広い意味で用いられている[1]。
概要[編集]
はりやは、針と糸を用いた補修技法の総称であるが、単なる縫製法ではなく、布の張力を読み、縫い目の「気配」を整えることを重視するとされる。大阪や京都の旧家に残る帳面では、破れを「塞ぐ」のではなく「納める」と表現しており、この言い回しが後の流派分化の端緒になったとみられている[2]。
名称の由来については、道具の針を扱う人々を指した呼称が転じたとする説と、掛け声「張りや」に由来するとの説がある。もっとも、10年代にの生活改良調査へ断片的に記録されるまでは、地域ごとに規則が異なり、実践者の多くは自らを「はりや師」ではなく「手当て人」と呼んでいたという[3]。
歴史[編集]
成立期[編集]
最初期のはりやは、の呉服商と仕立屋のあいだで生まれたとされる。元は輸送中に傷んだ反物へ施す応急処置であったが、年間には、目立たせない補修と意匠としての補修を使い分ける二層構造が確立したとされる。なお、『針を三度抜く者は仕事が長引く』という禁忌があり、現場では必ず二回で止める慣行があった[4]。
明治期の整理[編集]
、の民芸研究家であるが、の依頼を受け、各地のはりやを14類型に分類した。彼は特に、縫い目の間隔を前後に保つ「定針型」と、あえての長さで糸を遊ばせる「余白型」を対立概念として示し、これが後の講習所の教科書に採用された。もっとも、渡辺本人は「実地には例外が多すぎる」と記しており、標準化には最後まで懐疑的であった[5]。
大衆化と舞台文化[編集]
初期になると、はりやは舞台衣装の即席補修術として広まり、や地方巡業の楽屋で重宝された。とくににで行われた巡業公演では、開演30分前に裾が裂けた衣装を、当時19歳の補修係・が7分で直し、以後「七分のはりや」と呼ばれる流派が生まれたという。こうした逸話は講習会で繰り返し語られたが、同時に「速さを誇る者ほど失敗する」とも教えられた。
技法[編集]
基本の三手[編集]
はりやの基本は、留める、逃がす、整えるの三手であるとされる。まず針を布の表層に浅く通して張りを測り、次に糸を完全には締めず余裕を残し、最後に縫い目の角度を以内へ整える。この角度管理は、が1958年に実施した模擬破断試験でも再現率を記録したとされ、家庭向け技法としては異例の数値である[6]。
封緘はりや[編集]
近代以降に派生した封緘はりやは、書類袋や米袋の口を「ほどけにくく、しかし破壊しやすい」状態に保つための処置である。の周辺文書には、輸送中の封の再検査率を低下させたとの記録がある。だが、実務者の間では「完璧に閉じると中身の主張が強すぎる」とされ、わざと一針だけ緩める作法が尊ばれた。
儀礼化[編集]
一部の地方では、はりやは裁縫ではなく儀礼として継承された。たとえばの旧家では、婚礼前夜に新婦の袖口へ白糸を一本通し、家名の断絶を防ぐとされた。この習俗はの調査記録にしばしば登場するが、調査対象者の証言が毎回微妙に異なり、研究者のあいだでは「同じ儀礼名で別物が語られている」と指摘されている[7]。
流派[編集]
はりやには大きく三つの流派があるとされる。京都系の「細目流」は見えない縫いを理想とし、系の「張戻流」は修繕後の反発力を重視し、系の「露糸流」は糸端を意図的に少し見せることで補修痕を意匠化した。
この三流派は互いに排他的ではなく、実際にはひとつの家内で併用されることが多かった。とくに戦後の集合住宅では、週末は細目流、月末は張戻流、来客時のみ露糸流という折衷運用が一般的であったとされる[8]。
社会的影響[編集]
はりやは、戦前から戦後にかけて「直す」という行為の倫理を支える技法として広く受け入れられた。新品を買うより、既存の物を半日かけて整えることが上品とされ、には内の家庭科講習で受講希望者が定員のに達したという。
また、商家では帳簿の破れをはりやで補修することが信用維持の象徴とされ、ある系の生活史資料では、補修済み帳簿を「赤字よりも立派」と評する記述が見られる。もっとも、補修が巧すぎると改ざんと誤認されるため、見え方の加減が社会的技能として重視された。
批判と論争[編集]
はりやに対する批判として最も多いのは、体系化が進みすぎた結果、かえって家庭の自由な補修を縛ったというものである。特にの『針役便覧 改訂第4版』では、糸の出し方をに細分化したため、実地で「作法が細かすぎて、破れを前にすると手が止まる」との声が上がった[9]。
一方で、地方の実践者からは「本来のはりやは失敗を美化する技法ではなく、失敗を事故にしない技法である」との反論も出た。なお、の公開講習会では、講師が「一針で世界は変わらないが、二針目でだいたい収まる」と発言し、後にこの一節だけが独り歩きして名言集に掲載された。
資料と研究[編集]
はりや研究は、民俗学、服飾史、生活工芸史の交差領域に位置づけられている。とが共同で編んだ『都市補修文化目録』には、からまでの道具類が収録されている。なかでも、先端がわずかに曲がった「逆針」は、糸を引く力よりも布目を読む力を重視する証拠として注目された。
ただし、資料の多くは現物よりも口伝に依存しており、同じ道具が地域によって「お守り」「計測具」「忘れ針」と三通りに呼ばれる。研究者の間では、この曖昧さこそがはりやの本質であるとみなす立場もある[10]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『針役便覧』関西手芸改良会, 1896年.
- ^ 青木ミツ『楽屋補修七分録』京都演芸出版社, 1938年.
- ^ 田所静子『都市補修文化の成立』生活工芸研究叢書 Vol.12, 第3号, 1961年, pp. 41-68.
- ^ Margaret A. Thornton, “Needle Ethics in Urban Japan,” Journal of Applied Textile History, Vol. 8, No. 2, 1974, pp. 112-139.
- ^ 三好久一『はりやの地域差と封緘慣習』民俗技藝学会誌 第22巻第4号, 1980年, pp. 9-33.
- ^ Hiroshi Kanda, “The Elasticity of Repair: Hariya Schools of the Kansai Corridor,” Kyoto Studies in Material Culture, Vol. 5, 1987, pp. 201-226.
- ^ 日本繊維生活研究所編『模擬破断試験報告書』内部資料, 1958年.
- ^ 関西手芸改良会『針役便覧 改訂第4版』, 1972年.
- ^ 小林さやか『袖口儀礼と家名継承』日本民俗年報 第31巻第1号, 1992年, pp. 77-94.
- ^ 『都市補修文化目録』京都府立総合資料館・日本繊維生活研究所共同刊, 2004年.
- ^ 山根一郎『なぜ糸は余るのか――はりやの美学』生活史評論 第18巻第2号, 2011年, pp. 5-21.
外部リンク
- 日本繊維生活研究所デジタルアーカイブ
- 関西手芸改良会資料室
- 京都補修文化保存協会
- 都市補修史オンライン年報
- 針役便覧公開索引