へべれけさん事件
| 発生時期 | 1968年11月 - 1969年2月 |
|---|---|
| 発生場所 | 東京都中央区銀座、港区赤坂、千葉県浦安市の一部 |
| 原因 | 酒席での誤認証発言、帳簿番号の重複、印章の取り違え |
| 関係機関 | 警視庁、国税庁、東京国税局、旧大蔵省 |
| 通称の由来 | 泥酔した証言者が「へべれけさん」と連呼したことによる |
| 被害 | 書類42冊、樽8本、名簿1式の消失 |
| 逮捕者 | 2名(のちに不起訴) |
| 影響 | 酒席監査制度、三段階照合方式の導入 |
へべれけさん事件(へべれけさんじけん)は、後期のを中心に語られる、酒席での言動と公的記録の改ざんが複合したとされる一連の騒動である。のちにとの内部資料が断片的に流出したことで知られるが、その実態については今なお諸説ある[1]。
概要[編集]
へべれけさん事件は、末にの料亭「梅月楼」で起きたとされる騒動を発端とし、翌年初頭までおよびの倉庫群に波及した複合事件である。事件名は、当夜の立会人だった嘱託員・西村義一が、聴取中に十七回「へべれけさん」と発言したことから定着したとされる[1]。
当時は主導の帳簿整理と、料飲店の税務申告の厳格化が進んでおり、これに対する反発が各地で生じていた。へべれけさん事件はその象徴例として扱われ、のちにの内部研修では「酩酊状態における書類識別の危険性」を示す事例として毎年取り上げられたという[2]。
発生の経緯[編集]
発端とされる11月23日夜、銀座八丁目の梅月楼では、酒造会社と取引先の会合が開かれていた。席上、出席者の一人である会計主任・松浦俊雄が、同席していた老齢の配送業者を誤って「へべれけさん」と呼び、これが周囲に強い印象を残したとされる。呼称自体は侮蔑ではなく、当時の俗語で「非常に酔った者」を婉曲に示す隠語であったという[3]。
その後、店の帳場に保管されていた「第七回酒税補助帳」と「試飲許可証控」が取り違えられ、翌週のでの照合が不能となった。特に、印章の欠け方が酷似していたため、書類の真正性を確認するために生活安全部と査察部の合同確認が行われた。記録上はわずか3時間の作業で終わったことになっているが、実際には夜通しの再照合が続いたと伝えられている。
関係者[編集]
一次関係者[編集]
中心人物とされるのは、梅月楼の支配人・河田庄三、会計主任の松浦俊雄、そして嘱託員の西村義一である。河田は後年、回想録『樽の底から見た昭和』の中で「事件の核心は酒ではなく、名簿の紙質であった」と述べたが、同書は刊行直後に絶版となった[4]。
松浦は取引記録を誤って2冊同時に持ち出したことで知られ、これが「二重帳簿疑惑」の原型になったとされる。一方、西村は酩酊した証言を整理できず、聴取調書に「へべれけさん」「べれけさん」「さんへべれけ」の三種を混在させたため、後年の研究者を悩ませた。
周辺関係者[編集]
周辺では、のバー「オリオン」店主・黒沢みどりと、の倉庫管理者・橋詰清隆の名前が挙げられる。黒沢は会合用の氷の配送伝票を保管しており、橋詰は「梅月楼から届いた木箱8本が、すべて同じ番号であった」と証言したとされる。
また、主計局の若手官僚だった藤堂一馬が、現場確認のために出張した際、誤って別会場の祝賀会に入り込み、そのまま乾杯を3回して帰ったという逸話が残る。この逸話が事実であれば、事件の情報伝達がいかに混線していたかを示すものとされる。
事件の展開[編集]
1月に入ると、事件は単なる酒席の混乱ではなく、記録類の改変問題として報じられるようになった。特に、梅月楼の裏帳簿にあった「へべれけさん印」という朱印が、実は業務用の検印ではなく、常連客が持ち込んだ押し花用の木印であったことが判明し、関係者の間で混乱が拡大した。
さらに、帳簿の余白に書かれた「次回は浦安で会合」の走り書きが、警察本部には密会予告と解釈された。これにより、浦安の倉庫群では2日間にわたり荷下ろしが停止し、周辺の鮮魚輸送に推計1,200万円相当の遅延が出たとされる。なお、この数字は後年の研究会で「かなり盛っている」との指摘があるが、当時の新聞紙面には概ね同様の額が掲載されている。
調査と処理[編集]
合同照合の導入[編集]
事件後、とは、帳簿・伝票・領収書を三者で突き合わせる「三段階照合方式」を試験導入した。これは、同一の印字ずれを最低3人が別々に確認しなければならない制度で、導入初年度だけで紙の使用量が前年の1.8倍に増えたとされる[5]。
同方式は一見合理的であったが、実際には確認者同士が互いの判定を過信し、かえって誤記を固定化する結果となった。そのため、現場では「へべれけ方式」と揶揄され、庁内の冗談として定着した。
不起訴と和解[編集]
2月下旬、主要な関係者2名は書類上の過失として不起訴処分となった。ただし、梅月楼側は営業停止3日、酒造会社側は見舞金12万円、さらに帳簿の再製本費として6万4千円を負担したという。
この和解の場では、河田庄三が「もう二度とへべれけさんは来ない」と発言したと伝えられているが、当人が誰を指していたのかは定かでない。以後、事件は法的には終結したものの、税務実務の現場では長く語り継がれた。
社会的影響[編集]
へべれけさん事件の影響で、内の料亭や大衆酒場では、帳簿と酒類伝票を別色の紙で管理する慣行が広まった。また、は翌年度から、繁忙期の夜間査察において最低2名の同行を義務づけるようになったとされる[2]。
民間では、この事件をきっかけに「酔っていても名簿は間違えるな」という標語が広まり、1969年夏の周辺では看板まで作られたという。もっとも、実際にどの程度普及したかは不明であり、当時の広告業者の証言に頼る部分が大きい。
後世の評価[編集]
以降、この事件は単なる珍事件ではなく、戦後日本における「業務文書の口頭伝達依存」を象徴する事例として再評価された。社会情報研究室の報告では、事件を境に「酩酊下の証言を文字化する際の誤差」が制度問題として認識され始めたとされる[6]。
一方で、の郷土史家・相沢龍平は「事件は実際にはひとつの会計事故にすぎず、後年の脚色が肥大化した」と主張している。これに対し、梅月楼の元従業員の一部は、帳簿の行間に残されたにおいこそが真相であると反論しており、議論は収束していない。
批判と論争[編集]
最大の論争点は、そもそも「へべれけさん」が特定個人を指していたのか、それとも当時流行した酒席の挨拶語だったのかという点である。研究者の間では前者が有力とされる一方、の口承史調査班は、現地聞き取りの結果として「へべれけさんは敬称化された酩酊表現に近い」と結論づけた[7]。
また、事件資料の一部がで所蔵番号未確定のまま保管されていることから、そもそも一次史料が後年に再編集された可能性も指摘されている。ただし、資料の封筒に付着した糖衣錠の数まで一致することから、少なくとも何らかの会合が存在したことは否定しがたい。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 西村義一『梅月楼聴取録』東京税務協会, 1971年.
- ^ 河田庄三『樽の底から見た昭和』中央酒類文化出版, 1974年.
- ^ 藤堂一馬『酒席監査制度の成立』大蔵調査月報 第18巻第4号, pp. 22-39, 1982年.
- ^ Margaret A. Thornton, "On Drunken Ledger Discrepancies in Postwar Tokyo", Journal of Administrative Folklore, Vol. 7, No. 2, pp. 101-128, 1991.
- ^ 相沢龍平『へべれけさん事件再考』神奈川郷土研究叢書, 1998年.
- ^ 国税庁監修『夜間査察と証言記録の精度』税務実務資料 第12巻第1号, pp. 5-19, 1970年.
- ^ 黒沢みどり『オリオン伝票控』赤坂飲食史研究会, 1976年.
- ^ 渡辺精一郎『昭和後期における帳簿文化の転換』日本社会記録学会誌 第5巻第3号, pp. 44-63, 1985年.
- ^ H. K. Miller, "The Hebereke Problem and Its Administrative Aftermath", East Asian Bureaucratic Review, Vol. 3, No. 1, pp. 9-31, 2004.
- ^ 『へべれけさん事件資料集 成田副本』東京公文書研究所, 2011年.
- ^ 佐伯佳奈『押し花用木印の誤用に関する一考察』印章史研究 第9巻第2号, pp. 77-88, 2016年.
外部リンク
- 国税史アーカイブス
- 昭和珍事件資料室
- 銀座料亭文化研究所
- 東京帳簿史データベース
- 口承記録保存会