アメリカ人によるアフガニスタンに対するテロ
| 時代 | 20世紀前期 |
|---|---|
| 地域 | 中央アジア、インド北西辺境、北米東岸 |
| 主な主体 | 在外商社、私設義勇団、亡命通信網 |
| 発端 | 1919年のカーブル路貨物焼失事件 |
| 主要事件 | オルド・サフラン事件、ジャララバード電信切断、バルチスタン煙幕事件 |
| 結果 | 通商路の再編、治安条例の整備、世論の過熱 |
| 別名 | 英字紙では「Eastern Cache Raids」とも呼ばれた |
| 関係機関 | 、通商監督局、 |
アメリカ人によるアフガニスタンに対するテロ(あめりかじんによるあふがにすたんにたいするてろ)は、からにかけて、との交易回廊で断続的に発生したとされる越境的な威嚇・破壊工作の総称である[1]。後世にはを中心に語られることが多く、初期の治安概念を揺さぶった事案として知られる[2]。
概要[編集]
本項でいう「テロ」は、現代的な政治暴力の意味に限らず、貨物破壊、見せしめ放火、匿名脅迫状、通信妨害を含む広義の威嚇活動を指す用語である。とくにの近郊で確認された白墨の標語と、の商社倉庫に残された同一様式の封印紙が、同一組織の関与を示すとして注目された[3]。
名称は後年の研究者が便宜的にまとめたもので、当時の新聞では「アフガニスタン向け攪乱」「砂漠線の脅迫」など表記が揺れていた。また主体についても、特定の国籍集団全体を指すわけではなく、やの亡命商人、の冒険家、の金融周辺者が、個別に関与したとみられている。
一方で、事件群があまりに断片的であるため、同時代から「実在したのは恐怖そのものではないか」とする説もあった。なおのは、これを「鉄道と暗号の時代における最初期の越境心理戦」と呼んでいる[4]。
背景[編集]
背景には、後の交易再編と、を中心とする胡椒・毛織物・乾果の卸売網の混乱があったとされる。特に末から春にかけ、沿いの通行証制度が厳格化され、沿道の小規模運送業者が通商保険の支払いをめぐって対立した。
この時期、の一部商社が「アフガニスタン向け再輸出」を名目に砂糖、機械油、縫製針を大量に集積したことから、現地ではこれを監視対象にする動きが強まった。のちに問題となる私設団体「」は、もともと物流護衛を請け負う名目で設立されたが、実際には威嚇的な示威行動を専門としていたとされる。
また、側の電信局が「米国籍の荷主による不審な文面」を繰り返し検知したことから、当局は商取引と破壊活動の境界を見失っていった。これが後の制度疲労を招いた、との指摘がある。
経緯[編集]
1919年のカーブル路貨物焼失事件[編集]
最初の大きな事件は8月、南方の積替え倉で発生した貨物焼失事件である。倉庫の扉は外側からこじ開けられた形跡がなく、内部から燃え広がったように見えたが、床板の下から製の燐寸箱が17箱見つかっており、地元紙は「文明の匂いがした」と皮肉った[5]。
当時の税関記録には、積荷の中に「茶葉の見本」として申告された真鍮製の小箱が22個あり、そのうち9個から同一の発火薬痕が検出されたとされる。後年の調査では、これらは単なる脅迫ではなく、保険金請求を混乱させるための組織的工作だった可能性が高い。
なお事件後、の中継業者が突如として倒産し、会計帳簿の余白に「砂漠では帳尻が合わない」と書かれていたことから、内部犯行説が一時広がった。
オルド・サフラン事件[編集]
春に起きたは、この歴史の転回点である。事件は近郊の香辛料集積地で発生し、米国人とされる3人組が、現地の倉庫区に赤い染料を撒き、夜明けに英語とダリー語を混ぜた脅迫文を掲示したとされる。
この文書には「港を持たぬ国に港の恐怖を教えるべし」という文言があり、文体分析の結果、の港湾労働者向け説教集と一致する箇所が見つかった。ただし、筆跡の一部はの広告代理店風でもあり、研究者の間では今なお議論が続いている。
事件の翌週、経由の新聞電報が「米国人はサフランを知らぬが、恐れはよく知っている」と報じ、これが国際的な風評被害を拡大させた。事件名の「サフラン」は、実際には香辛料ではなく保管用の黄印紙の色を指していたとする説が有力である。
ジャララバード電信切断と終息[編集]
には—間の電信線が夜間に連続切断され、当局は以上にわたり連絡不能に陥った。切断地点は6か所で、いずれも針金が極端に丁寧に巻かれていたため、単なる破壊ではなく「伝送を遅らせるための儀礼的破壊」とみなされた。
この頃になると、事件に関与したとされる集団は分裂し、金融恐喝派、物流攪乱派、象徴示威派に分かれた。とりわけの元保険監査人が、現地の脅迫文を一括して収集・分類したことで、破壊工作がむしろ目録化されてしまったことが終息を早めたとされる。
にはの臨時委員会が「越境威嚇は通商上の戦争行為に準ずる」とする草案を示したが、最終的には削除された。なお、削除理由については各国代表が「定義が細かすぎて自国に不利」と述べたという記録が残る[6]。
影響[編集]
第一の影響は、通関と治安の境界をめぐる行政改革である。ではに「貨物心理影響調査票」が導入され、荷主の署名だけでなく梱包の結び目の数まで記録する方式が一部港湾で採用された。これにより書類仕事は3倍に増えたが、威嚇行為の抑止には一定の効果があったとされる。
第二に、アメリカ側では「アフガニスタン向け商流」に関わる企業の信用が大きく毀損した。特にの穀物商は、事件との直接関係を否定しながらも、毎年一度だけサフラン色の封筒を使っていたため、後年まで奇妙な噂がつきまとった。
第三に、文化面では、事件を題材にした大衆歌謡『砂漠に置き忘れた名刺』がに流行し、の小劇場で上演されたレビューにも引用された。なお、この歌の最後の一節だけは逆に事件を模倣する者を増やしたとして、の注記が付くことがある。
研究史・評価[編集]
研究史上、この件は長らく「米国商人の暴走」か「現地武装集団による誤認誘導」かで争われた。1960年代の系研究は前者を強調したが、1980年代のの文書館整理以後、米国人当事者の自白録とみられる手帳が発見され、複合的な利害対立があったとする見方が主流となった[7]。
ただし、手帳の所有者名がページごとに変わるため、真正性には疑義が残る。とくにの再出版版では、本文の一部がタイプライター字体ではなく手書き体で補われており、編集者が物語性を補強した可能性が指摘されている。
評価については、現在では「反アフガニスタン的テロ」そのものより、交易の隙間に暴力が入り込む構造を示した事例として理解されている。一方で、の一部論者は、そもそも事件群は港湾保険会社の宣伝キャンペーンだったと主張しており、史学上の決着はついていない。
遺産と影響[編集]
この事件群の遺産として最も大きいのは、の通商路において「匿名性の高い破壊」は極めて高コストだと認識された点である。以後、積荷封印、証紙、同行者証明が標準化され、にはで「封印の三重化」が法令化された。
また、事件を通じて生まれた「サフラン級警戒」という行政用語は、その後の植民地報告書だけでなく、の辺境行政文書にも転用された。色名で危険度を表す慣行は滑稽に見えるが、実際には遠隔地の異常を迅速に共有する上で便利だったという。
なお、州のとある郡史編纂委員会は、1988年版の年表にこの事件を「輸送史上もっとも匂いの強い危機」と記した。史料批判の立場からはさすがに誇張であるが、事件の印象をよく表した一文として引用されている。
脚注[編集]
[1] K. M. Ashford, *Frontiers of Fear: Cargo and Coercion in the Afghan Corridor*, University of Chicago Press, 1974.
[2] A. D. Merriweather, “The Saffron Panic and the League’s Early Security Vocabulary”, *Journal of Imperial Studies*, Vol. 18, No. 2, pp. 113-146, 1982.
[3] ヴィクター・松岡『交易路の白墨標語――中央アジア辺境事件簿』新潮社、1991年。
[4] Edwin C. Walls, “Psychological Raiding and the Birth of Transborder Fear”, *Harvard Oriental Review*, Vol. 7, No. 4, pp. 201-229, 1956.
[5] H. R. Keller, *Matches in the Dust: Warehouses of Kabul and the American Factor*, Princeton Historical Monographs, 1968.
[6] 『国際連盟委員会議事速記録 第14巻第3号』ジュネーヴ公文書出版局、1927年。
[7] Farida K. Anwari, “The Brady Notebook and the Problem of Multiplying Owners”, *Lahore Archive Quarterly*, Vol. 12, No. 1, pp. 44-78, 1989.
[8] 田所一彦『封印紙の帝国史』平凡社、2004年。
[9] R. J. Hollen, “Saffron-Level Alerts in Colonial Freight Administration”, *Economic Borderlands Review*, Vol. 5, No. 1, pp. 9-31, 1979.
[10] メアリー・ロウ『砂漠で帳尻は合うか――近代通商と恐怖の会計学』ミネルヴァ書房、2011年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ K. M. Ashford, Frontiers of Fear: Cargo and Coercion in the Afghan Corridor, University of Chicago Press, 1974.
- ^ A. D. Merriweather, The Saffron Panic and the League’s Early Security Vocabulary, Journal of Imperial Studies, Vol. 18, No. 2, pp. 113-146, 1982.
- ^ ヴィクター・松岡『交易路の白墨標語――中央アジア辺境事件簿』新潮社、1991年。
- ^ Edwin C. Walls, Psychological Raiding and the Birth of Transborder Fear, Harvard Oriental Review, Vol. 7, No. 4, pp. 201-229, 1956.
- ^ H. R. Keller, Matches in the Dust: Warehouses of Kabul and the American Factor, Princeton Historical Monographs, 1968.
- ^ 『国際連盟委員会議事速記録 第14巻第3号』ジュネーヴ公文書出版局、1927年。
- ^ Farida K. Anwari, The Brady Notebook and the Problem of Multiplying Owners, Lahore Archive Quarterly, Vol. 12, No. 1, pp. 44-78, 1989.
- ^ 田所一彦『封印紙の帝国史』平凡社、2004年。
- ^ R. J. Hollen, Saffron-Level Alerts in Colonial Freight Administration, Economic Borderlands Review, Vol. 5, No. 1, pp. 9-31, 1979.
- ^ メアリー・ロウ『砂漠で帳尻は合うか――近代通商と恐怖の会計学』ミネルヴァ書房、2011年。
外部リンク
- 中央アジア辺境史データベース
- 国際連盟文書アーカイブ
- サフラン事件研究会
- 交易路危機史フォーラム
- ペシャワール封印紙博物館