インターミッション山脈遭難事件
| 名称 | インターミッション山脈遭難事件 |
|---|---|
| 正式名称 | 八ヶ岳東縁高原帯行方不明事案 |
| 日付 | 1968年10月17日 |
| 時間帯 | 18時10分ごろ - 翌日未明 |
| 場所 | 長野県南佐久郡南牧村・稜線上の無人避難小屋周辺 |
| 緯度経度 | 北緯36度03分 / 東経138度29分 |
| 概要 | 山岳映画の試写会後、移動撮影班と登山案内人3名が吹雪の稜線で消息を絶ったとされる事件 |
| 標的 | 撮影機材および現地案内用の無線記録 |
| 手段 | 視界不良下での誤誘導、雪面への誘導痕の偽装 |
| 犯人 | 不明 |
| 容疑 | 業務上過失致死、死体遺棄、証拠隠滅(いずれも推定) |
| 動機 | 試写映像に記録された地形情報の抹消を図ったとする説 |
| 死亡・損害 | 死者2名、行方不明1名、機材損失約480万円相当 |
インターミッション山脈遭難事件(いんたーみっしょんさんみゃくそうなんじけん)は、(昭和43年)に日本の長野県で発生したである[1]。警察庁による正式名称は「」とされ、通称では「インターミッション山脈遭難事件」と呼ばれる[2]。
概要[編集]
インターミッション山脈遭難事件は、東麓の架空地形「インターミッション山脈」で発生したとされる遭難事件である。山岳撮影に同行していたの記録班が、稜線上の短い休止区間、すなわち「インターミッション」を挟んだ直後に消息を絶ったことからこの名がついたとされる[1]。
事件は当初、単純なによる道迷いとして扱われたが、のちにの捜査資料から、現地で用いられていた案内図の地名が意図的に差し替えられていた疑いが浮上した。なお、遭難現場周辺は当時、の通信観測区域と重なるとされ、関係者の証言が微妙に食い違っていることでも知られている[3]。
背景[編集]
撮影計画の成立[編集]
事件の背景には、後半の山岳映画ブームがあるとされる。東京の制作会社「」は、の公開を目指して、標高の高い稜線を舞台にした記録映画『』を企画した。監督のは、撮影上の“間”を強調するため、休憩時間そのものを作品の主題に組み込む独特の演出を行っていた。
これに対し、現地の案内を担当したの古参案内人は、「山には休む場所と休んではならない場所がある」と述べたとされる。この発言は、のちに地元紙で不吉な前兆として引用されたが、実際には撮影隊の行動予定に対する単なる苦言だった可能性が高いともいわれる[要出典]。
インターミッション山脈という呼称[編集]
「インターミッション山脈」という呼称は、のが、地形の連なりの一部に細長い鞍部が多いことから便宜的に用いた内部符丁であるとされる。公式地名ではなく、撮影用の行程表にのみ記載されていたが、後年の週刊誌がこれを実在の山脈名のように取り上げたことで、事件名として定着した。
一方で、の古い測量図には同名の小字が見当たらないため、地元の一部では「編集部が山の合間に挿入した休憩時間を、そのまま地形にしてしまった」と揶揄された。これが事件名の妙な現実味を生んでいる。
経緯[編集]
10月17日午後、撮影班7名はの林道終点から入山した。午後6時過ぎ、気象観測所の記録では一時的に風速が毎秒21メートルまで上昇し、視程は50メートル未満に落ち込んだとされる。最初の通報は、麓の側にあった旅館の女将からへ寄せられたもので、無線から「中断する」「道が二重に見える」といった断片的な声が聞こえたという。
翌朝、案内人のが単独で下山し、撮影隊の一部が消えたことを通報した。現場には、折り畳み式の16ミリカメラ、雪面に引きずられたソリ跡、そして焼け焦げた地図の角片が残されていた。捜査当局は当初、雪崩による転落事故と見たが、地図片に書かれた方位線が通常より11度ずれていたことから、意図的な誘導の可能性が指摘された[4]。
捜査[編集]
捜査開始[編集]
捜査本部はに設置され、遭難事件としては異例の約120名体制が敷かれた。特に注目されたのは、のほかにの文書鑑定班が投入された点である。彼らは、現場で回収された案内図の紙繊維が、通常の登山用品店で扱われる地図用紙ではなく、製図用トレーシングペーパーに近いことを突き止めた。
また、無線記録の一部には、操作者が二人分いた可能性を示す打鍵の癖が残っていたとされる。もっとも、録音テープは湿気で3分の1ほど伸びており、音声分析は「風の音か、人の声か判然としない」と結論づけられた。これにより、事件は一気に色を強めた。
遺留品[編集]
遺留品の中でも特異だったのは、被災地から約800メートル南で発見された木箱入りの試写フィルムである。箱には「INTERMISSION 2」とだけ記され、内部には稜線の休憩場面が8コマ続いたのち、最後の1コマだけ画面が真っ白になっていた。捜査側は、これはレンズの結露ではなく、何者かが意図的にフレームを空転させたものとみていた。
さらに、革製の手袋の片方からは灯油と獣脂の混合物が検出され、これが雪上での目印消去に使われたのではないかと推測された。ただし、この鑑定結果は当時の試薬の精度が低く、後年には「山小屋のストーブに触れた際の付着物にすぎない」とする再評価も出ている。
被害者[編集]
被害者として公式に扱われたのは、記録班の(当時34歳)と、現地案内人の補助を務めていた(当時28歳)である。高瀬は翌春、沢筋で発見された骨片と所持品の照合により死亡認定され、佐伯はそのまま行方不明の扱いとなった。
ほかに、撮影助手のが一時的に姿を消したが、3日後に隣村の発電施設で保護された。彼は捜査員に対し「地図の山が、途中で休んだ」と供述したとされる。この供述は精神的混乱として退けられた一方、後年のオカルト雑誌では事件最大の証言として扱われた。
刑事裁判[編集]
初公判[編集]
本事件は、直接の犯人が特定されないままとの両面から審理が試みられた。被告席に立ったのは制作会社の現場責任者であり、彼は内容を全面否認した。初公判では、検察側が「稜線上の休止指示が、結果として退避経路の喪失を招いた」と主張したが、弁護側は「山で休むなという常識を法廷で争うのは不可能である」と反論した。
なお、裁判長は被害者探索の継続中であることを理由に、事件の一部を別審に付す判断を行った。これが逆に世間の関心を煽り、法廷は「遭難の公判」として連日報道された。
第一審[編集]
第一審判決では、片岡に対して2年6月、執行猶予4年の有罪判決が下された。ただし、直接的な死刑や重罰は回避され、判決理由は「悪天候下での判断ミスが主因で、故意性を認めるには証拠が足りない」とされた[5]。
一方で、判決文の末尾には、焼失した地図の出所について「第三者の介在を強くうかがわせる」との異例の一文が盛り込まれた。この部分は、のちに最高裁でも明確に争われ、判決の前提そのものが揺らいだ。
最終弁論[編集]
最終弁論では、検察が「犯人は山そのものではない。山を言い訳にした人間である」と述べ、傍聴席の一部をざわつかせた。これに対して弁護側は、現場の地図作成にの旧式記号が混在していたことを挙げ、そもそも犯行の成立要件が曖昧であると主張した。
結局、の成立と証拠不足が重なり、事件は刑事司法上の決着を見ないまま半ば伝説化した。以後、山岳遭難に関する講習では「読み替え可能な地図は地図ではない」として教材化されることになった。
影響・事件後[編集]
事件後、長野県内の山岳地帯では、案内板に“休憩地点”を明示する試みが広がった。また、国鉄の一部観光路線では、遭難防止キャンペーンとして「途中下車は計画的に」と書かれたポスターが掲示され、結果として登山客よりも鉄道ファンに人気を博した。
さらに、事件を機にの撮影手順が見直され、稜線上での撮影中断時には必ずGPS相当の代替記録を残す内規が作られたとされる。ただし、GPSは当時まだ実用化されておらず、実際にはホイッスルの回数で位置を管理していたという矛盾が残る。このため、後年の研究者からは「制度だけが未来に先行した事件」と評されている。
評価[編集]
事件の評価は、遭難事故としては異例に分かれている。山岳史の分野では、自然災害と人的誘導が重なった「複合型山岳失踪」と位置づける説が有力である。一方、映画史の側では、未完成フィルムの存在が芸術表現として再評価され、の研究紀要で特集が組まれたこともある。
ただし、事件に関する回顧録の中には、現場の風速や積雪量が資料ごとに大きく異なるものがあり、統計的整合性は低い。これに対して民間研究家のは、「この事件は、事実よりも“山に中断がある”という感覚のほうが先に広まった」と述べている。まことにもっともらしいが、やや話がうま過ぎるとの指摘もある。
関連事件・類似事件[編集]
類似の事案としては、、、などが挙げられる。いずれも、悪天候と記録媒体の不備が重なった結果、真相が曖昧化した点で共通している。
また、山岳遭難研究では、本事件を「現場の消失」ではなく「記録の消失」を中心に捉える傾向がある。これは、犯行の実体よりも、後から編集された証拠のほうが事件像を支配してしまった典型例とされている。
関連作品[編集]
本事件を題材にした作品として、『山は休まない』、映画『インターミッション・レイテンシー』、『未解決ファイル・峠の向こう』が知られている。とりわけ『山は休まない』は、事件発生からわずか11か月後に刊行され、事実確認よりも地図の折り目の描写で高く評価された。
また、の特集番組では、再現CGにおいて遭難者がなぜか三脚を持ったまま小走りで稜線を移動する場面があり、視聴者から「最も不自然なのは事件ではなく再現映像である」との感想が寄せられた。
脚注[編集]
脚注
- ^ 佐藤恒彦『稜線の中断と記録の失踪』山岳報道社, 1974年.
- ^ 長野県警察本部捜査一課『八ヶ岳東縁高原帯行方不明事案 捜査概報』長野県警察内部資料, 1969年.
- ^ Marjorie L. Benton, "Intermission Topography and Lost Footage", Journal of Alpine Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 44-67, 1982.
- ^ 片岡修平『霧の中断』東亜稜線映画出版部, 1971年.
- ^ 中村照一『登山地図記号の変遷と誤読』日本測地学会誌, 第18巻第2号, pp. 101-119, 1970年.
- ^ Elizabeth M. Crowe, "The Japanese Mountain Incident Files: A Case of Edited Terrain", Pacific Review of Historical Geography, Vol. 7, No. 1, pp. 9-28, 1991.
- ^ 渡会志郎『事件は山を休ませるか』風景社, 1998年.
- ^ 高瀬誠遺稿編集委員会『未回収フィルムと音響係の証言』山の声出版, 1976年.
- ^ Harold P. Nishimura, "On the Misplacement of Mountain Midpoints", Annals of Fictional Cartography, Vol. 4, No. 2, pp. 88-93, 1980.
- ^ 『山岳遭難と判決理由の変遷』刑事法研究叢書, 第5巻第4号, pp. 233-260, 1973年.
外部リンク
- 長野県山岳史資料館
- 八ヶ岳未解決事件アーカイブ
- 国立地形記憶研究所
- 山岳映画研究会
- 稜線証言データベース