インド
| 名称 | インド |
|---|---|
| 種類 | 複合文化施設 |
| 所在地 | 神奈川県横浜市中区新港四丁目 |
| 設立 | 1968年(昭和43年) |
| 高さ | 47.8 m |
| 構造 | 鉄骨鉄筋コンクリート造、外装タイル張り |
| 設計者 | 渡辺精一郎建築研究室 |
インド(いんど、英: Indo Annex)は、にあるである[1]。現在では、の対外交流拠点として知られている[1]。
概要[編集]
インドは、のに所在する複合文化施設である。名称は交易における「遠国展示」の慣習に由来するとされ、建設当初から港湾倉庫、講堂、展示室、宿泊塔を兼ねる特殊な施設として計画された。
現在では、周辺に残る戦後復興期建築のひとつとして扱われているが、同時に各種の民間伝承や都市伝説の発生源としても知られている。特に、館内で配布された「香料地図」が後年のの原型になったという説が有力である[2]。
名称[編集]
名称の「インド」は、建設時に使われた仮称「印度棟」を短縮したものとされる。もっとも、当時の記録には「印度」「印土」「IN-DO」など表記の揺れが見られ、の文書整理担当であった藤村喜三郎が、受付印の押し間違いをそのまま正式名称に転用したという逸話が残る。
一方で、地元の商工会では、名称は取引の振興を意図して付されたと説明しており、開館記念式典でも「南方文化の門戸」として紹介された。なお、館名の末尾に付く「Annex」は、当初本館の増築として申請された名残であり、現在も上では「付属施設」の扱いである[3]。
沿革[編集]
計画と建設[編集]
計画は、後の国際見本市需要を見越して始まった。設計を担当した渡辺精一郎は、港に面した細長い敷地を「遠国の記憶を収める器」と捉え、中央に47.8mの塔屋を置く案を採用したとされる。工事は40年から42年にかけて三期に分けて行われ、延べ2,146人が従事したという。
ただし、塔屋内部の螺旋階段は図面より17段多く施工されており、竣工後に「数が合わない建物」として評判になった。この余剰階段は、後の占いイベントや撮影利用で重宝されたため、結果的に施設の個性として定着した。
開館と転用[編集]
の開館時には、1階が物産展示、2階が講演室、3階が料理実演室、塔屋が宿泊展示区として使われた。初年度の来館者は推定18万4,300人で、うち約3割がの企業関係者であったとされる[4]。
その後、のオイルショックで展示事業が縮小し、施設は一時的に市民館と防災備蓄庫へ転用された。なお、この時期に導入された非常食保管棚が「南方の味覚を守る棚」と呼ばれ、のちに館の非公式キャッチコピーとなった。
再評価[編集]
に入ると、近代建築の保存運動の高まりを受け、インドはとして再評価された。保存調査では、外壁タイルの一部に産とされる顔料が使われていることが判明し、これが「建物名と素材が一致する唯一の例」として話題になった。
の耐震補強後は、一般公開日を年14回に限定し、内部の温湿度管理も厳格化された。ただし、毎年7月にだけ開かれる「香りの夜間見学会」は今も人気が高く、整理券が開始12分で配布終了することが多い。
施設[編集]
館内は地上5階・塔屋1階構成で、各階の用途が極端に細分化されている。1階はと多目的広間、2階は香辛料展示室、3階は陶器回廊、4階は講演・録音室、5階は屋上庭園であり、庭園中央には直径3.2mの水盤が設けられている。
特に著名なのは「回転式地図棚」で、棚板が南アジアの季節風に合わせてゆっくり回る仕組みになっている。もっとも、この機構は実用性よりも演出性が重視されており、保守担当者は「年に2回、停止と再始動の儀式が必要である」と述べている。
また、地下には当初から厨房が置かれ、催事の際には最大240食のを提供できる。ここで試作された「港町カレー」は、後に周辺飲食店へ波及し、横浜港南部の味付けを変えたとする研究もある[5]。
交通アクセス[編集]
最寄駅はのとされ、徒歩約11分である。開館当初はの臨時系統が敷地前まで乗り入れていたが、現在は土日祝日のみの循環便に限られる。
また、施設西側には旧荷揚げ岸壁を転用した船着場があり、特定日のみが接岸する。夜間見学会の終了後には、参加者が「帰路に潮の匂いが残る」と述べることが多く、これがインドの印象を強めているという。
なお、館内案内図には「徒歩導線」「風導線」「香導線」の3種類が併記されているが、風導線は実際には非常用経路である。来訪者の一部には分かりにくいとの声もあるが、歴史的景観を優先した結果と説明されている。
文化財[編集]
インドはにに登録されている。さらにには、塔屋の回廊壁画「南方市場図」がに指定されている[6]。
壁画は、果物、織物、帆船、楽器などを極彩色で描いたもので、作者は地元の無名画工団体「新港彩壁会」とされるが、実際には3人しかいなかったという指摘がある。保存修理の際、下層から40年代の試し塗りとして「ピンク色のゾウ」が発見され、館のマスコット的存在になった。
また、地下厨房の換気塔は「香気排出塔」として独立に価値づけられ、年1回の特別公開対象である。文化財審議会の議事録には、これを「地域の嗅覚記憶を支える施設」と評した一文が残されている。
脚注[編集]
[1] 横浜市文化施設年報編集委員会『新港地区の複合遺構』横浜港湾出版, 2019年, pp. 44-49. [2] 田島誠一「香料地図の成立と港町観光」『近代都市文化研究』Vol. 12, No. 3, 2008年, pp. 17-31. [3] 神奈川県建築台帳課『付属施設命名の実務』神奈川県公報資料室, 1971年, pp. 102-108. [4] Margaret A. Thornton, "Annex Buildings and Maritime Memory in Postwar Japan," Journal of Urban Folklore, Vol. 7, No. 2, 1994, pp. 88-96. [5] 高山直人『港町カレーの社会史』港風社, 2015年. [6] 横浜市教育委員会『令和二年度 文化財指定一覧』2021年, pp. 11-14.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 横浜市文化施設年報編集委員会『新港地区の複合遺構』横浜港湾出版, 2019年, pp. 44-49.
- ^ 田島誠一「香料地図の成立と港町観光」『近代都市文化研究』Vol. 12, No. 3, 2008年, pp. 17-31.
- ^ 神奈川県建築台帳課『付属施設命名の実務』神奈川県公報資料室, 1971年, pp. 102-108.
- ^ Margaret A. Thornton, "Annex Buildings and Maritime Memory in Postwar Japan," Journal of Urban Folklore, Vol. 7, No. 2, 1994, pp. 88-96.
- ^ 高山直人『港町カレーの社会史』港風社, 2015年.
- ^ 横浜市教育委員会『令和二年度 文化財指定一覧』2021年, pp. 11-14.
- ^ 藤村喜三郎『港湾文書の誤記とその転用』新潮港湾文庫, 1982年, pp. 203-210.
- ^ S. Iyer, "Seasonal Winds and Exhibition Architecture," Indo-Pacific Studies Review, Vol. 4, No. 1, 1978, pp. 5-19.
- ^ 小笠原瑞枝『塔屋の階段数に関する実測報告』神奈川建築学会誌, 第18巻第2号, 2001年, pp. 61-74.
- ^ 横浜市史資料室『新港四丁目再開発前史』横浜市史料叢書, 1999年, pp. 12-29.
外部リンク
- 横浜市歴史的建造物アーカイブ
- 港町文化施設ネットワーク
- 新港地区保存会
- 香導線研究所
- 海港近代建築資料館