エロゲ川の戦い
| 名称 | エロゲ川の戦い |
|---|---|
| 発生時期 | 1912年夏 - 1913年春 |
| 場所 | 関東平野北縁のエロゲ川流域 |
| 原因 | 治水権限と測量図の版権をめぐる対立 |
| 結果 | 暫定停戦、河道の一部共同管理 |
| 関係勢力 | 帝国陸軍測量班、地方土木会、出版同盟、漁業組合 |
| 被害 | 負傷者27名、流失小舟14隻、青焼き図面3束 |
| 通称 | 青焼き十日戦争 |
エロゲ川の戦い(エロゲがわのたたかい)は、末期から初期にかけて北縁で行われたとされる、を名目とした準軍事的衝突である。後年は、の測量部と民間のが偶発的に接触した事件として語られ、地域史上の異例として知られている[1]。
概要[編集]
エロゲ川の戦いは、北部から南東部にかけて流れていたとされるをめぐり、の測量班と地方の、さらに地図出版を手がける民間事業者が衝突した事件である。表向きには河道の浚渫をめぐる協議であったが、実際には最新の技術を用いた測量図の複製権が争点であり、のちに「水利紛争の体裁を借りた版権争い」と評された[2]。
戦闘と呼ばれてはいるものの、砲撃や白兵戦が連続したわけではなく、主として土嚢の築堤、測量杭の抜き差し、河岸の仮橋の確保、そして図面の押収をめぐる押し問答が続いたとされる。ただし、8月14日の夜半に、方面から派遣された警備班が誤って印刷用の乾燥棚を砲列と誤認し、現場が一時的に混乱したことが記録に残っている[3]。
名称の由来[編集]
「エロゲ川」の名は、川の周辺に多く生育していたとされるに由来すると説明されることが多いが、古地図では「江路毛川」「江呂毛川」など表記が揺れており、編集者の間では後年の活字化の際に誤植が定着したという説が有力である。なお、地元では単に「青い川」と呼ばれることもあったという。
戦いの性格[編集]
軍事衝突というよりは、治水事業、測量権、流通網の三者が同時にぶつかった複合事件である。とりわけの許認可が遅れたことから、現場の工事監督が独断で夜間作業を開始し、それを見た出版業者が「地形の隠蔽工作」と受け止めたことが混乱の発端であったとされる。
背景[編集]
後、内陸部では洪水対策と交通路の再編が急務とされ、各地でが設けられた。エロゲ川流域でも、の支流整理に伴う堤防工事が進められたが、土地台帳の不備により河川敷の所有権が度々食い違い、耕作者、漁業者、測量士が同じ区画を異なる名目で主張する事態が生じた[4]。
一方で、の地図出版社「東洋新図社」は、軍用に準ずる精度の地形図を民間向けに販売することで急成長していた。彼らがに導入した改版方式では、完成図面に湿気が残ると文字がにじみやすく、これが現場では「水際でのみ読める秘密図」として妙な信用を集めた。これに目をつけた周辺町村の有力者が、図面の優先配布を求めたことから、事態は急速に政治化した。
また、流域のが堤防脇の低湿地を一時的な冷却庫として用いていたことも衝突を複雑化させた。工事側はこれを違法占用とみなし、組合側は「洪水のたびに水位観測に協力してきた」と反発したため、結果として川の問題が酒と紙と土木の三重対立へと拡大したのである。
経過[編集]
最初の衝突は7月3日、近郊の仮設水門で発生した。帝国陸軍測量班の班長であった中尉が、河床断面の再測定を命じたところ、東洋新図社の外注写図係が「未校閲図の持ち出し」に抗議し、双方が杭縄を引き合う形になったのである。記録によれば、この時に川底から現れた木箱1個が、双方にとって「軍需図面」か「版下原稿」かで解釈が分かれ、のちの争いに象徴的意味を与えた[5]。
8月に入ると、方面の土木請負業者が加わり、現場には大小17の作業小屋が並んだ。各小屋には異なる尺度の地図が掲げられ、同じ川が5通りの位置に描かれていたため、役人たちは「どの川を守るべきか」をめぐって半日会議を重ねたとされる。なお、この会議で配られた弁当がすべての甘露煮であったことから、後世「魚戦会議」と揶揄された。
決定的な転機は8月14日深夜である。台風の余波で増水したエロゲ川が堤外地を浸し、仮橋が流失しかけた際、出版同盟側の荷車が図面保護のために川を塞ぐ形となった。これを封鎖行為と誤認した警備班が進入し、双方がランプを掲げて対峙したが、結局は印刷用の糊が濡れたために全員が作業中断を余儀なくされた。このため、当夜の戦闘は「湿紙休戦」と呼ばれることになる[6]。
主要人物[編集]
官側[編集]
中尉は、出身の几帳面な人物として伝えられ、1ミリ単位の誤差に異様なこだわりを示した。部下が堤防の曲線を「おおむね直線」と報告した際、直ちに現場へ戻らせたという逸話が残る。また、最後まで軍事衝突を避けようとしたが、結果的に最も多くの印章を押した人物でもあった。
民間側[編集]
東洋新図社の編集主幹は、地図を「読まれるための兵器」と表現したことで知られる。彼は測量図の余白に川魚の生態メモを書き込む習慣があり、これが軍側には暗号に見えたとされる。一方で、地元のは漁業と堤防の双方に顔が利き、停戦交渉のたびに芋焼酎を2本ずつ持参したことから、後に「二本差しの庄蔵」と呼ばれた。
第三勢力[編集]
の集配主任であったは、電報と郵袋の誤配を防ぐために現地を往復し、結果的に両陣営の連絡係のような役割を果たした。彼女の持っていた郵袋には、図面、許可書、見舞い状が混在していたとされ、現場の混乱を象徴する資料として現在も語られている。
社会的影響[編集]
戦いの後、との境界部では、河川改修事業における図面管理が厳格化され、青焼き原本の二重保管が標準化された。これにより、地方工事の進行速度は約12%低下したが、紛失事故は半減したとされる[7]。
また、この事件は地方紙の紙面文化にも影響を与えた。『』と『』は連日のように一面で状況を伝えたが、見出しの「川」「図」「糊」の三語が毎日入れ替わることから、読者の間で「どれが戦況か分からない」と評判になった。なお、当時の購読者数は通常時の1.8倍に達したというが、これは洪水情報を求める需要によるものか、単に記事が面白かったためかは判然としない。
さらに、エロゲ川の戦いは後年のにおける「現場図面の閲覧権」議論の前例として引用された。1920年代の会議録には「エロゲ川の教訓に照らせば、測量と出版を同じ机に置くべきでない」との発言が見られ、これが全国の工事事務所で地味に定着したとされる。
批判と論争[編集]
事件の実態については、そもそも戦争と呼ぶほどの死傷はなかったのではないかという批判が早くから存在する。とくにに刊行された郷土史家の研究では、現場に残された銃弾痕が後年の猟銃によるものである可能性が示され、事件の軍事性そのものが疑問視された[8]。
一方で、図面押収の記録や現地写真には不自然な空白が多く、編集された痕跡が濃厚であることから、地方自治体が不名誉な対立を「戦い」に格上げして記憶した可能性も指摘されている。特に、戦後に建立された慰霊碑の碑文が「水と紙のために散った者たち」と書かれている点については、死者数と文言が一致しないとして、現在でも小さな論争の種である。
また、東洋新図社が戦後に発売した記念地図では、エロゲ川の流路が実際よりも妙に湾曲して描かれており、編集部はこれを「増水時の心理的圧力を表現した」と説明した。しかし、地元では「売れ筋のために川を感情的にした」と受け止められ、これが半ば伝説化する要因となった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐々木義雄『関東内水域と版下行政』東洋史料出版社, 1978年.
- ^ Marjorie H. Ellis, "Survey Lines and Paper Lines in Early Taisho Japan", Journal of Imperial Cartography, Vol. 12, No. 3, 1994, pp. 201-229.
- ^ 井原清一『武州河川伝承考』武蔵野文庫, 1934年.
- ^ 高見沢栄造『青焼きと堤防のあいだ』東洋新図社出版部, 1914年.
- ^ Norio Kanda, "Wet Paper Truces: A Study of Riverside Print Conflicts", Modern Asian Studies Review, Vol. 8, No. 1, 2002, pp. 44-67.
- ^ 阿部トメ『郵袋と川風』熊谷女性史編纂会, 1951年.
- ^ 深井辰夫『エロゲ川流域図面集成』関東治水資料刊行会, 1968年.
- ^ H. Beaumont, "Blueprints, Floodplains, and Bureaucratic Anxiety", Proceedings of the Society for Administrative Geography, Vol. 5, No. 2, 1987, pp. 88-103.
- ^ 木島庄蔵『堤防の上で飲む酒』本庄郷土出版, 1948年.
- ^ 『上毛日報』縮刷版・大正元年夏号, 上毛日報社, 1925年.
- ^ 『エロゲ川戦記:図面と水位の十日間』, 東京河川文化研究所, 2011年.
外部リンク
- 関東治水史デジタルアーカイブ
- 東洋新図社資料室
- 武州郷土戦記研究会
- 青焼き複写博物館
- 日本河川伝承データベース