オキラク東軍団国会議事堂占拠事件
| 正式名称 | オキラク東軍団国会議事堂占拠事件 |
|---|---|
| 別名 | 永田町椅子革命、議事堂仮眠占拠 |
| 日付 | 1967年11月14日 - 11月16日 |
| 場所 | 東京都千代田区永田町1-7-1 |
| 原因 | 議事堂の休憩椅子をめぐる使用権解釈の対立 |
| 参加者 | オキラク東軍団、周辺支援者、警備担当職員 |
| 結果 | 一部議場の閉鎖、再配置規程の新設 |
| 負傷者 | 軽傷4名、精神的疲労32名 |
| 逮捕者 | 19名 |
| 影響 | 議事堂管理細則の改正、後年の抗議文化に影響 |
オキラク東軍団国会議事堂占拠事件(オキラクとうぐんだんこっかいぎじどうせんきょじけん)は、東京都千代田区永田町にある国会議事堂を、通称オキラク東軍団と呼ばれる市民団体が一時的に占拠したとされる事件である[1]。戦後日本の議事運営史において、議場内での「椅子の再配置」が政治的抗議として定式化された最初期の事例として知られている[1]。
概要[編集]
オキラク東軍団国会議事堂占拠事件は、1960年代後半の都市型抗議運動の一つとして位置づけられている。参加者は大規模な暴力行為ではなく、議事堂内の休憩区画に「長時間滞留」することで占拠を成立させたとされ、当時の報道では「静かな反乱」と呼ばれた[2]。
事件の特異性は、占拠の中心目的が法案撤回や政権打倒ではなく、「議事堂の椅子は誰の所有物か」という極めて局所的な問題に置かれていた点にある。のちの研究では、総務庁の前身部署が使用していた仮設休憩椅子26脚の貸与期限をめぐる誤解が、組織的行動へと膨らんだとする説が有力である[要出典]。
また、この事件は日本国の議会史だけでなく、都市社会学や行動美学の分野でも参照されることがある。とりわけ、抗議者が段ボール製の議事日程表を掲げながら整列移動した様子は、後年の研究者から「行政文書のパフォーマンス化」と評価された[3]。
背景[編集]
オキラク東軍団の成立[編集]
オキラク東軍団は、東京都東部の下町で活動していた生活改善サークル「東方日常会」の分派として1964年ごろに成立したとされる。発起人は中村礼次郎、平井ミツ子、高瀬進の3名で、いずれも元々は地域の公民館で炊き出しや清掃活動をしていた人物である。
団体名の「オキラク」は、当初は「お気楽」ではなく「起楽」と表記する案もあったが、会計担当が「会計帳簿に書きやすい」として現行表記を押し切ったという。なお、軍団と称しながら実際には会員の平均年齢が41.8歳で、制服もベージュのエプロン程度であった。
占拠に至る経緯[編集]
事件の直接の引き金は、議事堂見学に来た同団体の一行が、休憩室の木製椅子に「関係者以外着席禁止」の札を見つけたことである。これに対し、団体側は「国会は国民のものであり、椅子もまた国民のもの」とする独自解釈を採用し、翌週に永田町へ再訪した。
1967年11月14日午前9時12分、参加者37名が受付を通過し、うち28名が議員食堂前の待合区画に着席した。残る9名は警備線の外で拡声器の代わりに電卓を用いて抗議文を読み上げたとされる。警備側は当初、単なる団体見学の延長と誤認したため、初動が遅れた。
事件の経過[編集]
第一日[編集]
初日は、オキラク東軍団が「議事堂内での休憩権確認」を要求し、衆議院側の職員と応接室で応対したことに始まる。交渉はおおむね穏便であったが、団体側が持ち込んだ折りたたみ座布団14枚の色が問題となり、管理部門が「視認性が高すぎる」として退去を求めた。
午後2時ごろ、団体の一部が中央階段付近に移動し、階段の片側を「通行ではなく休憩専用」と宣言したことで、実質的な占拠状態に入った。ここで警備担当が配置した椅子が逆に障害物となり、結果として人の流れが止まったことが、事件を決定的にしたとされる。
第二日[編集]
二日目には、警視庁の機動隊が周辺に展開したものの、建物内部への強制排除は行われなかった。理由については、前夜に提出された団体の要望書に「排除の前にお茶を一杯」と記されており、担当者が冗談と受け取ったからだという説と、当時の議事堂警備規定に「飲料の先出し」が推奨されていたからだという説がある。
この間、団体内では「全面占拠派」と「座位保持派」が対立し、前者は議場を封鎖すべきだと主張した一方、後者は椅子の位置を3センチ単位で整えるべきだとした。最終的に採択されたのは後者の案であり、この妥協が事件の長期化を招いた。
社会的影響[編集]
事件後、国会議事堂では休憩家具の管理が厳格化され、座席番号の印字、搬出記録簿の二重確認、そして「長時間着座時の連絡先申告」が義務化された。この制度はのちに、議会施設のみならず自治体庁舎の会議室管理にも波及した。
一方で、文化面では「静かに居座る」抗議手法が一部の学生運動や労働争議に模倣され、1969年には新宿周辺で「仮眠デモ」と呼ばれる小規模な追随運動も発生した。もっとも、オキラク東軍団自身は暴力的闘争を否定しており、団体機関紙『東風通信』では「抗議とは、正しく座ることである」と繰り返し主張していた[5]。
社会学者の長谷部道夫は、この事件を「権力空間の中に家庭的な快適さを持ち込んだ反制度運動」と位置づけたが、同時に「椅子への執着が理論を先に行きすぎた」とも評している。こうした評価は現在でも分かれており、事件の意義をめぐる議論は根強い。
事件をめぐる論争[編集]
論争の中心は、そもそも本件を「占拠事件」と呼ぶべきかという点にある。警備記録では「一時滞留」としか記されておらず、刑事事件としての扱いも限定的であったため、後年の報道史では「不完全な占拠」あるいは「議事堂内の集団休憩」と表現されることがある。
また、オキラク東軍団が掲げた「東軍団」の語義も不明確で、東日本の連帯を示すものとする説のほか、単に団体の会議室が東向きだったからだという実務的な説明もある。さらに、現存する最古の声明文には「軍団とは、人数の多さではなく、靴の揃い方で決まる」とあり、研究者の間でしばしば引用される[要出典]。
なお、昭和期の一部論壇では、事件を「政治の幼児化」と批判する論調も見られたが、逆に「公的空間における市民の身体配置を再考させた」と肯定する立場も存在した。この対立は、現在の公共施設利用論にも細く残っている。
後世への影響[編集]
脚注[編集]
脚注
- ^ 中村礼次郎『議場に座るということ――オキラク東軍団の記録』東都出版, 1974年.
- ^ 長谷部道夫『都市抗議の身体論』岩波書店, 1982年.
- ^ 平井ミツ子『椅子と革命: 日常から始まる占拠』青弓社, 1979年.
- ^ K. Thornton, "Administrative Furniture and Civic Protest in Postwar Japan," Journal of Urban Ritual Studies, Vol. 8, No. 2, 1991, pp. 114-139.
- ^ 折原一真『静止する群衆と演劇空間』新潮社, 1994年.
- ^ 国会制度史研究会『議会施設管理の変遷』日本評論社, 2001年.
- ^ 三浦直樹『永田町の椅子学』筑摩書房, 2008年.
- ^ M. A. Wren, "Chair Logistics and Parliamentary Vulnerability," Comparative Public Space Review, Vol. 12, No. 1, 2010, pp. 55-72.
- ^ 高瀬進『東軍団覚書――座位と秩序のあいだ』地方自治研究所, 1968年.
- ^ 『椅子は誰のものか――オキラク事件資料集』国民文化資料センター, 1986年.
- ^ Hiroshi Denpo, "The Rice Cracker Theory of Sit-in Movements," East Asian Social Mechanics, Vol. 4, No. 3, 1976, pp. 201-218.
- ^ 『国会議事堂占拠事件年報 第3集』議事堂安全対策委員会, 1970年.
外部リンク
- 国立架空史料館デジタルアーカイブ
- 永田町近代抗議文化研究所
- 東都公共空間史センター
- 議事堂椅子管理史資料室
- オキラク東軍団記念展示準備会