サンジェルマン公国
| 正式名称 | Principauté de Saint-Germain |
|---|---|
| 通称 | サンジェルマン公国 |
| 成立 | 1784年ごろ |
| 消滅 | 1793年ごろ |
| 首都 | サン=ジェルマン=アン=レー宮区 |
| 公用語 | フランス語、宮廷ラテン語 |
| 政治体制 | 儀礼的世襲公国 |
| 主産業 | 礼装、占星術、舞踏会運営 |
| 通貨 | ルイ15世補助リーヴル |
| 標語 | 秩序は夕食会から生まれる |
サンジェルマン公国(サンジェルマンこうこく、仏: Principauté de Saint-Germain)は、末に近郊の王侯離宮群をまとめるために設けられたとされる、儀礼上の自治公国である。外交文書上はの保護領と記されることが多いが、実態は貴族の退避区画と賭博許可区の折衷体であったとされる[1]。
概要[編集]
サンジェルマン公国は、末期に、宮廷からあふれた貴族・秘書官・賭け師・楽長を一時的に収容するための制度として整えられたとされる小公国である。名目上はの外縁にあるが、実際には沿いの離宮、温室、競馬場、及び夜会用の回廊を束ねた複合行政体であった。
この公国が特異なのは、領土の面積ではなく「滞在許可の精度」で国家性を測った点にある。住民台帳には伯爵令嬢から鍵束係までが同列に記載され、税の代わりに年2回の仮面舞踏会への出席が義務づけられていたという[2]。なお、現存する印章の一部には、の横に小さな骰子が彫られており、後世の研究者はこれを「統治理念の要約」と解釈している。
成立の経緯[編集]
離宮整理令[編集]
成立の契機はのいわゆる離宮整理令である。これはの維持費が急増し、廊下の掃除だけで年1,200人分の人件費が発生したことを受け、の私的顧問団が「余剰の宮廷文化を別系統に移送する」ために起草したとされる。起草者にはとの名が見えるが、後者は実在性に疑義があり、しばしば要出典扱いである。
公国化の宣言[編集]
春、サン=ジェルマン=アン=レーの狩猟館で「公国化の宣言」が読み上げられた。宣言文は全17条からなり、第4条で「爵位は血統より着席順に従う」と定め、第11条で「午後4時以降の政治談議は酒精の影響を受けるため、議事録に残さない」としている。これにより、サロンの慣習が法令へと転写されたのである。
外縁自治の誤解[編集]
一方で、近隣の州議会は当初これを単なる便宜的な保養区とみなし、本格的な主権の成立とは受け取らなかった。しかし公国側は通行証、独自の郵便消印、さらには「火曜の雪解け税」と呼ばれる奇妙な徴収を開始し、結果として周辺の商人はサンジェルマン公国を「面倒だが儲かる国」として扱うようになった。
制度[編集]
公国会議と礼儀官[編集]
政治機構の中心はであるが、その実態は七人の高位侍従と一人の財務書記が交代で進行する会合であった。議題はしばしば道路整備、香水の調達、舞踏会の順番決めに分裂したが、礼儀官が「拍手三回で可決」と宣言すると採択された。議事録には度だけで42件の「沈黙による同意」が記録されている。
司法と決闘回避裁定所[編集]
司法制度としては、決闘を未然に防ぐためのが置かれていた。ここでは剣の長さではなく、帽子の羽根の枚数で争いの重大性を測る方式が採用され、三枚以上なら正式な名誉毀損、五枚以上なら公爵への直訴が認められた。記録上、には31件の決闘が「未遂のまま文化財として保存」されたという。
貨幣と財政[編集]
財政面では、公国専用の補助リーヴルが鋳造されたが、硬貨の縁に細かな薔薇模様が刻まれていたため、硬貨職人の間で「摩耗すると逆に価値が上がる」と評判になった。実際には流通量が少なく、主にカフェ・プロコップ周辺の高級賭博卓で使われた。国庫収入の約38%は、未帰還のトランプ代金から回収されたとする帳簿が残る[3]。
文化と社会[編集]
サンジェルマン公国の文化は、宮廷文化と半ば犯罪的な軽薄さの混合物として知られている。とくに夜会文化は有名で、同じ晩に三つの仮面舞踏会をはしごすることが社交上の礼儀とされた。舞踏会の招待状は羊皮紙ではなく、香水を染み込ませた薄い布地に印刷され、開封の瞬間に香りの強さで席次が決まったという。
また、公国では教育制度も独特であった。子どもは算術の前に「お辞儀の角度」を学び、音楽は式の和声を用いた「歩行訓練」として教えられた。公国学校の卒業試験では、の霧のなかで相手の家格を一度も尋ねずに10分間会話を続けることが求められた。
社会的影響としては、サンジェルマン公国の礼法が後のおよびの小公国外交に影を落としたとされる。特に「小国ほど会釈が深いほど良い」という考え方は、19世紀のヨーロッパ社交界に広く伝播したとされるが、統計上の裏付けは薄い。
崩壊と亡命[編集]
革命期の圧力[編集]
が進行すると、公国は「香水の値段が上がりすぎた」ことをきっかけに急速に機能不全に陥ったとされる。民衆側は公国を浪費の象徴として攻撃し、には公国会議の議事堂がパンの配給所へ転用された。なお、この転用は住民の一部から歓迎された。
最後の公爵[編集]
最後の公爵とされるは、冬にへ亡命し、そこで「移動宮廷の再建」を試みた。しかし同行したのは財務官1名、チェンバロ奏者2名、犬3匹にすぎず、再建計画は「優雅すぎて運営不能」と評されて終わった。彼はのちにの地下会員制サロンで回想録を口述したともいう。
消滅後の余波[編集]
公国の形式的な消滅後も、旧領の一部では通行証に似た紙片が20世紀初頭まで出回っていた。市場ではこれを「サンジェルマン札」と呼び、劇場の裏口や季節限定の賭博場で代替券として通用したという。研究者の間では、これは国家の残滓というより、社交圏の慣習が貨幣化した例として扱われている。
批判と論争[編集]
サンジェルマン公国をめぐっては、そもそも独立国家であったのか、それとも内の特権自治区にすぎなかったのかで見解が分かれる。とくに所蔵の「公国白書」はの後補筆が多く、事実上の改竄を含むとする批判がある[4]。
また、近年の社会史研究では、公国が「上流階級の遊戯」を制度化しただけでなく、周辺の労働者に季節雇用を大量供給した点が再評価されている。一方で、香水税と帽子税の導入は明らかに過剰であり、の織物商組合からは「経済的に美しすぎる」と非難された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Étienne Vauclair『La Petite Couronne de Saint-Germain』Éditions du Marais, 1898.
- ^ Margaret L. Thornton, "Governing by Etiquette: Micro-States of the Late Eighteenth Century," Journal of European Curiousities, Vol. 14, No. 2, 2007, pp. 113-147.
- ^ 柳井 恒一『サンジェルマン公国成立史試論』東京宮廷史研究会, 1976.
- ^ Pierre Delacour『Les Monnaies de Complément à Saint-Germain』Presses de la Seine, 1921.
- ^ Clara de Montbrun, "Le Décret de Réorganisation des Dépendances Royales," Revue d’Histoire Administrative, Vol. 8, 第3号, 1790, pp. 41-66.
- ^ 西園寺 透『礼儀国家論――舞踏会と統治の接点』白水社, 1984.
- ^ Julien Arbaud『Traité des Postes et Cachets de la Principauté de Saint-Germain』Imprimerie des Archives, 1904.
- ^ K. H. Everdale, "Dice on the Seal: Symbols of Authority in Saint-Germain," Proceedings of the Royal Society of Arcane History, Vol. 22, No. 1, 2011, pp. 5-29.
- ^ 山口 玲子『亡命公爵オーギュスト=ルネの書簡集』南山堂, 1992.
- ^ Nicolas Vendrey『Le Livre Blanc et ses Corrections de 1801』Université de Bruxelles Press, 2009.
外部リンク
- サンジェルマン公国史料館
- イル=ド=フランス古文書デジタル庫
- ヨーロッパ小公国研究センター
- 礼儀官制度アーカイブ
- 仮面舞踏会年表プロジェクト