チュニドラ
| 名称 | チュニドラ |
|---|---|
| 読み | ちゅにどら |
| 成立地 | 愛知県名古屋市および周辺域 |
| 成立時期 | 昭和20年代後半から昭和40年代前半 |
| 起源とされる事象 | 駅前露店の拡声応援と工場帰りの寄り合い |
| 主要人物 | 河村三郎、松浦きぬ、Dr. Harold M. Fenwick |
| 代表的施設 | 旧中部記録館、千種応援研究所 |
| 関連儀礼 | 回転手拍子、青白旗の折り返し、三拍子再唱 |
チュニドラは、周辺で成立したとされる半農半工の地域文化および、それを核に発展した応援儀礼の総称である。圏の民間伝承と近代的な集団観戦作法が混交して形成されたとされ、のちにの都市文化を象徴する語として広まった[1]。
概要[編集]
チュニドラは、もともと沿線の商店街で用いられた符牒で、のちに応援、踊り、地域会合の総称へ拡大したとされる。名称はとドラが結びついた俗語と説明されることが多いが、古い用例では「中庭のドラ」「昼に打つドラ」など、異なる解釈も確認されている。
一説には、戦後ので余剰資材として出回った金属缶を太鼓代わりに叩いたことが語源であり、別の説では28年に栄町の映画館前で行われた即席応援団の掛け声から生まれたともいわれる。なお、の所蔵メモには、昭和31年の記録として「ちゅにどら、拍子の乱れがよい」との書き込みがあり、研究者の間でしばしば引用されている[2]。
歴史[編集]
成立期[編集]
成立期は昭和20年代末とされる。敗戦後の資材不足のなか、の製鉄下請け工場では、昼休みの合図としてドラム缶の側板を打つ習慣があり、これを見た周辺住民が買い物帰りに真似したことが最初のチュニドラだったという[3]。
当時の記録によれば、合図は1日3回、各回およそ47秒で、必ず最後に2回だけ遅れて鳴らす癖があった。これが「聞き逃した者にも参加の余地を残す」仕組みとして評価され、では後年、労働儀礼の一形態として分類されている。
普及期[編集]
昭和30年代に入ると、チュニドラはの寄り合い、軒先ラジオ、町内運動会へと浸透した。特にの伊勢湾台風後、避難所での不安を和らげる目的で、誰でも参加できる単純な三拍子が採用され、これが現在の基本形になったとされる。
この時期、商店主の松浦きぬが考案した「旗を振りながら一拍遅れて唱和する」方式が流行した。彼女はの洋品店で、布切れの在庫整理を兼ねて青白の短冊を配ったが、結果として応援用小旗の標準寸法が23cm×31cmに固定されたという。これは今も古参愛好家の間で「きぬ寸」と呼ばれている。
制度化と分岐[編集]
に入ると、チュニドラは民間行事でありながら半ば制度化され、の学生サークルや地区自治会が定型化を進めた。これにより、回転手拍子、地名コール、沈黙の3拍子など、派生型が9種類以上に増えたとされる[4]。
一方で、1968年にで起きた「二重唱問題」は有名である。参加者が掛け声を2回繰り返してしまい、周囲の鼓舞より先に疲労が来るという事態が発生したため、翌年からは「唱和は最大5回まで」という暗黙の自主規制が広まった。これが後の“節度ある熱狂”というチュニドラ倫理の源流である。
構成と作法[編集]
チュニドラの基本構成は、前奏、短い沈黙、二拍子、三拍目の遅延、締めの再唱から成る。実演時間は平均2分18秒とされるが、前では最長で19分44秒に達した例があると記録されている。
作法上もっとも重視されるのは、同じ言葉を同じ速度で繰り返さないことである。これは「機械化を避けるため」と説明されることが多いが、実際には初期の金属缶が毎回わずかに音程を外したため、むしろ不協和音そのものが共同体の目印になったという説が有力である。
また、参加者は左手で旗、右手で拍子を取るのが正式とされるが、旧の一部では右手に団扇、左足で床を3回踏む流儀も残る。これについては、地域ごとの振動環境の違いが作法を分岐させた可能性を指摘している[5]。
社会的影響[編集]
チュニドラは、当初は商店街の自発的な応援儀礼にすぎなかったが、やがての都市アイデンティティを語る際の比喩として使われるようになった。1970年代後半には、企業の朝礼で導入する例もあり、の某部品メーカーでは、出勤直後の気分統一に週4回採用されていたとされる。
また、教育分野への影響も大きい。昭和58年、が配布した生活指導資料には、「大声を出す前に一拍置くこと」というチュニドラ式発声法が引用され、児童の集団発表に応用された。もっとも、過度に応用した学校では、整列が始まるたびに拍手が先行してしまい、朝礼が12分延長されたという。
なお、観光面では周辺の土産店が「チュニドラせんべい」や「遅延拍子笛」を販売したことで知られる。1994年には推定で年間18万セットが流通し、うち約3割が実際の応援ではなく家庭の来客用に使用されたとされている。
批判と論争[編集]
チュニドラには、統一性の低さを問題視する批判が常につきまとった。特にの「手拍子改訂案」では、拍数を4拍に増やすか否かで賛否が割れ、旧派は「3拍子こそ共同体の骨格である」と主張したのに対し、新派は「4拍子の方が都市的である」と反論した。
さらに、由来をめぐっては学説が乱立している。河村三郎の工場起源説、松浦きぬの市場説、さらには人音響学者Dr. Harold M. Fenwickが唱えた「植民地時代の港湾警笛転用説」まで存在し、の『中部文化年報』では6ページにわたり相互批判が展開された[6]。
ただし、現地ではこうした論争自体がチュニドラの一部とみなされる傾向がある。実際、毎年に開催される「再定義集会」では、起源を3案以上同時に唱えるのが慣例であり、最終的に誰も結論を出さないことがむしろ完成形とされている。
再評価と現代[編集]
平成期以降、チュニドラは地域文化として再評価され、や市民大学講座で取り上げられる機会が増えた。2010年代にはSNSで短い動画が拡散し、若年層の間では「2分で終わるのに妙に疲れる儀礼」として再発見された。
近年の研究では、チュニドラは単なる応援法ではなく、災害時の合意形成や無言の連帯を生み出す装置だったと見る向きがある。2021年の調査では、参加経験者の約64.8%が「見知らぬ人とでも同じテンポに乗れた」と回答し、14.2%が「最後の再唱で必ず笑ってしまう」と答えた。なお、この調査の標本数は37人であり、信頼区間については慎重な解釈が必要である[7]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 河合直樹『中部拍子文化史序説』中京民俗出版, 1998, pp. 41-67.
- ^ 松浦きぬ『商店街と合図の研究』大須書房, 1964, pp. 12-29.
- ^ Harold M. Fenwick, "Percussive Community Signals in Postwar Japan," Journal of Urban Folklore, Vol. 12, No. 3, 1987, pp. 201-226.
- ^ 中村啓介『名古屋の拍手と沈黙』愛知学術社, 2005, pp. 88-114.
- ^ 千種応援研究所編『チュニドラ資料集成』第3巻第2号, 1979, pp. 5-53.
- ^ 山田尚人『災害後の合唱と再定義』東海大学出版会, 2011, pp. 133-149.
- ^ A. P. Whitfield, "Delayed Clapping and Civic Order," Proceedings of the Asian Sound Studies Association, Vol. 4, 1992, pp. 77-95.
- ^ 杉本和子『中部民俗における遅延拍の成立』名古屋文化評論社, 1971, pp. 9-38.
- ^ Fenwick, Harold M.『Chunidra and the Ethics of Loudness』Cambridge South Press, 1990, pp. 1-24.
- ^ 『チュニドラ概説 ついに一冊でわかる』港北新書, 2018, pp. 3-19.
外部リンク
- 千種応援研究所デジタルアーカイブ
- 中部民俗音響データベース
- 名古屋市地域儀礼史年表
- 愛知県立図書館 特別閲覧室
- 東海都市文化フォーラム