ドブ
| 分類 | 都市排水路、地域インフラ、俗称 |
|---|---|
| 成立 | 文政年間(諸説あり) |
| 起源地 | 江戸・深川周辺 |
| 主な管理主体 | 町会、用水組合、自治水路取締役 |
| 代表的構造 | 木枠式開渠、石張り暗渠、逆止弁枡 |
| 派生制度 | ドブ当番、泥上げ講、におい税 |
| 文化的意義 | 下町の共同性を象徴する生活インフラ |
| 別名 | どぶ川、細流路、裏水 |
| 現存事例 | 東京都墨田区、神奈川県横浜市の一部 |
ドブは、の路地や街区の境界に設けられる浅い排水路、およびそこに付随する地域的な維持管理制度を指す語である。一般には古い下町の景観要素として知られているが、その成立は末期の「逆流防止水利網」にまでさかのぼるとされる[1]。
概要[編集]
ドブは、の旧市街地を中心に発達した小規模排水路であり、雨水の処理だけでなく、生活排水の一時滞留、火除け、境界標識としての役割を担っていたとされる。一般に「汚れた溝」という印象で語られることが多いが、初期まではむしろ町の秩序を支える公的設備として扱われていた。
また、近代以降は衛生上の観点から暗渠化が進められた一方で、30年代の下町復興期には、あえて開渠を保存する「生活景観保護運動」が起こった。これに関与したのが工学部の下水研究室と、の町会連合であったとする記録が残る[2]。
歴史[編集]
成立の経緯[編集]
ドブの起源は11年、の米問屋が倉庫火災を防ぐために敷地脇へ設けた「逆流防止溝」にあるとされる。当初は幅18〜27センチメートル、深さ12センチメートル前後の極めて浅い溝であったが、豪雨時に側へ水を逃がす効果が確認され、周辺の長屋にも急速に普及した。
この時期、溝の底に炭粉を敷くと臭気が減るという経験則が広まり、これを指導したのが町医者のである。彼は『水路清潔心得書』(天保4年)を著し、後に「ドブ学の祖」と呼ばれたが、実在性については古くから議論がある[3]。
制度化と講制度[編集]
7年には、が市街地衛生条例の附則として「小溝管理規程」を布告し、年4回の泥上げと、月1回の油膜除去を義務化した。これに伴い、各町内では6戸ごとに1名の「ドブ番」が置かれ、当番札と竹箒が回覧された。
特筆すべきは、の外国人居留地から導入された鋳鉄製の小型逆止弁である。これにより海水の遡上が抑えられ、周辺では臭気苦情が前年の38件から9件に減少したと記録されている。ただし、同時に溝の流速が落ち、ボウフラが増えたため、当時の新聞は「清潔と蚊はしばしば交換条件である」と論じた[4]。
大衆化と文化化[編集]
初期になると、ドブは単なる排水設備ではなく、子どもの遊び場、猫の通り道、商店街の境界、さらには恋文の投函地点としても機能した。とくにの一部では、祭礼の日にドブの上へ短い木橋を並べる「渡し替え」が行われ、見物客が1日平均2,300人訪れたという。
また、戦後の復興期には「ドブがきれいな町は商売が強い」という説が流行し、商工会による月間清掃コンクールが始まった。優秀地区には石灰ではなく白い貝殻粉が配られ、清掃後にわずかに潮の匂いが残ることから、沿岸部の町で特に人気を博した。なお、芝地区の資料には、ドブ清掃日に喫茶店の売上が平均12.4%上がったとの記述があるが、出典の信頼性は低い。
構造[編集]
典型的なドブは、上部の開口部、側壁、底面、そして水勢を調整する「静水枡」から構成される。幅は地域によって大きく異なるが、戦前の下町では平均31センチメートル、戦後の復興区画では45センチメートル程度に拡張された例が多い。
内部には竹製の簡易格子が置かれることがあり、これを「ドブ簀」と呼ぶ地方もある。ドブ簀は落ち葉や空き缶をせき止める一方、猫が足を滑らせる原因にもなったため、にはが「格子角度17度以下」を推奨したとされる[5]。
一部の地区では、溝の壁面に家紋や町名を刻んだ石板を埋め込む習慣があった。これは水利権の境界を示す目的に加え、夜間に酔客が誤って隣家へ流れ込むのを防ぐためでもあったと説明される。このような用途の重なりが、ドブを単なる排水設備以上の存在にしていた。
社会的役割[編集]
ドブは、都市の衛生・防災・共同体形成の三機能を兼ね備えた稀有な制度であると評価される。特に火災時には、延焼を遅らせるために溝へ水を一斉注入する「水走り」が行われ、後の一部記録では、これにより木造家屋16棟の焼失が免れたとされている。
一方で、ドブは差別表現や貧困イメージとも結びつけられ、以降は行政文書から語義の置換が進んだ。これに対し、保存派は「ドブは汚いのではなく、町の体温が集まる場所である」と主張し、の小委員会でも熱心に議論された。とりわけ、清掃のたびに住民の交流が増えることから、社会学的には「半強制型の近隣接触装置」として再評価されている。
批判と論争[編集]
ドブ制度には、長年にわたり衛生面での批判が存在した。とくに、夏季に発生する臭気と蚊の増加については、がに注意喚起を行っている。また、開渠を残すことが景観保護なのか、単なる行政の予算不足なのかをめぐっては、との条例解釈がしばしば比較された。
さらに、1978年の「ドブ命名問題」では、若年層の一部が「語感が古臭い」として別称の採用を求めたのに対し、町会側は「名称を変えると清掃当番の責任感が薄れる」と反論した。結果として、名称は維持されつつ、広報物では「生活水路(通称ドブ)」という表記が併用されるようになった。
なお、の『下町環境白書』には、ドブの臭いを「夏の記憶形成に寄与する」とする一節があるが、これは審査委員会で満場一致ではなかったと伝えられている[6]。
近代以降の保存運動[編集]
に入ると、全国的な暗渠化政策の中で、ドブを文化財的に保存する動きが強まった。とりわけとでは、実測図の作成、石組みの番号付け、臭気の季節変動を記録する市民調査が進められた。
この運動を主導したのが、建築史家のと、元土木技師のである。両者は「ドブは都市の地下ではなく、都市の表面に残った記憶である」と述べ、国際会議で注目を集めた。会場では、来賓が保存用の小型ドブ簀を記念品として受け取ったという。
もっとも、保存地区の中には観光化が進みすぎ、実際の排水機能が低下したものもある。これに対し、行政は年2回の「実流テスト」を義務づけ、一定量の雨水を流して機能確認を行うようになった。基準値は1分間に18リットルであり、これを下回ると「展示化の疑い」があるとして指摘される。
脚注[編集]
[1] ただし、初期の用例は「溝」「裏水」とも混用されており、語の境界は必ずしも明確ではない。
[2] 当時の会議録には「都市の匂いを保存するのは技術か風俗か」という発言が見えるが、発言者名は判読不能である。
[3] 三枝良庵の実在については、同時代の町人日記にしか見えず、後世の創作とする説もある。
[4] なお、ボウフラ増加率の数値は、調査対象が3区画に限られていたため、統計的妥当性に欠けると指摘されている。
[5] この通達は現存するが、角度の数値だけがなぜか手書きで追記されている。
[6] 白書の巻末広告に、当時流行していた洗剤の見開き広告があり、編集責任の所在が曖昧である。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 三枝良庵『水路清潔心得書』深川書林, 天保4年.
- ^ 東京府衛生課『小溝管理規程附録』東京府公報 第17号, 1874年.
- ^ 高橋節子『下町水脈の記憶』日本建築学会出版局, 1996年.
- ^ 林田信吾『開渠と共同体: 近代都市の裏面史』岩波都市研究叢書, 2002年.
- ^ Margaret L. Henshaw,
- ^ Margaret L. Henshaw『Drainage, Smell, and Civic Order in Edo-Tokyo』Journal of Urban Antiquities, Vol. 12, No. 3, pp. 44-79, 1988.
- ^ John P. Wetherby, "A Note on Reverse-Flow Channels in Eastern Municipalities" Proceedings of the Institute of Civic Hydrology, Vol. 7, pp. 201-219, 1979.
- ^ 佐藤久美子『におい税と町内衛生の政治学』中央公論都市選書, 2011年.
- ^ 浜野一樹『石組みの行政学』地方自治研究 第23巻第2号, pp. 11-38, 2008年.
- ^ Aiko Tanabe, "The Social Life of Small Waterways in Postwar Tokyo" Urban Memory Review, Vol. 4, No. 1, pp. 5-26, 2004.
- ^ 『下町環境白書 1983年版』東京都生活環境資料室, 1983年.
- ^ 森谷晴彦『ドブの民俗誌』河出民俗文庫, 1977年.
外部リンク
- 下町水路保存協会
- 都市匂い文化研究所
- 東京生活インフラアーカイブ
- Asian Small Waterways Forum
- 墨田区開渠資料室