ノルウェーポップスとスウェーデンポップス間の闘争
| 名称 | ノルウェーポップスとスウェーデンポップス間の闘争 |
|---|---|
| 別名 | 北欧ポップ戦争、二国歌謡摩擦 |
| 発生時期 | 1968年ごろ - 1983年 |
| 発生地 | オスロ、ストックホルム、ベルゲン、マルメ |
| 原因 | 編曲様式、方言の発音、シンセサイザー採用率の差 |
| 主な関係者 | ラジオ局、レコード会社、港湾組合、学生運動家 |
| 影響 | 北欧各国の音楽番組、歌詞規範、輸入盤市場 |
| 特徴 | 公開討論会、匿名の譜面投書、港での即席コンサート |
| 終息 | 1984年の共同放送協定による |
| 備考 | 後年の研究では、実際には宣伝戦略の側面が大きかったとされる |
ノルウェーポップスとスウェーデンポップス間の闘争(ノルウェーポップスとスウェーデンポップスかんのとうそう)は、北部で発生したとされる、両国の大衆音楽様式がとの嗜好をめぐって対立した一連の文化現象である。1960年代末から1980年代初頭にかけてとを中心に拡大したとされ、今日では北欧音楽史における最大級の「非公式紛争」として知られている[1]。
概要[編集]
ノルウェーポップスとスウェーデンポップス間の闘争は、との大衆音楽において、旋律の明るさ、コーラスの厚み、歌詞における冬景色の扱いをめぐって生じた文化的対立であるとされる。両者は単なる流行の違いではなく、との制作方針、レコード店の仕入れ比率、さらには国民的自尊心まで巻き込んだため、当時の新聞では「メロディーの国境紛争」とも呼ばれた[1]。
この闘争は、の港で起きた無料公演を契機に可視化されたとする説が有力である。もっとも、後年の研究では、実際には両国の若者文化が同時進行で成熟しただけであり、対立は一部の批評家が誇張したものだったとの指摘もある。なお、社会音楽学研究室の調査では、当時「自国ポップスを週に3回以上聴く」と答えた者は側で42.7%、側で39.1%に過ぎず、数字ほど深刻ではなかった可能性が高い[2]。
歴史[編集]
前史と発火点[編集]
前史として重要なのは、後半の北欧ラジオ連絡会において、番組表の「明るい歌」枠に制作の楽曲が過剰に採用されたとする内部メモである。これに対しの若手作曲家は、に《冬の拍手》という小曲を発表し、わざとコーラスの拍を1拍ずらす手法で話題を呼んだ。批評家のは「これは反抗ではなく、港の潮位に合わせた芸術的調律である」と評したが、新聞『Aftenposten』紙面上では「スウェーデン式直進メロディーへの宣戦布告」と解釈された[3]。
一方で、では《黄昏のトラム》がの民放試験放送で連続28回流され、これが「聴覚占領」であると側の若者団体が抗議した。もっとも、実際の抗議者は27人で、うち8人は別件の学生集会のついでに参加していたとされる。ここから、闘争は音楽そのものより、メディア露出の偏りをめぐる感情的反応として拡大していった。
激化と制度化[編集]
1971年には、の港湾倉庫を改装した会場「KAI-12」で、両国のレコード会社が合同試聴会を開いた。ところが、スピーカーの配置が側に不利であったとしてが批判記事を掲載し、以後、試聴会では左右のチャンネルを月替わりで入れ替える慣行が生まれた。この慣行は「公平なステレオ原則」と呼ばれ、後に一部のFM局にも採用された[4]。
また、1974年にはの学生連合が、ノルウェーポップスの「湿った響き」に対抗するため、に空気乾燥装置を組み合わせる実験を行った。実験は成功したが、乾燥しすぎた結果、歌手の発声がすべて滑舌良くなりすぎたため、かえってノルウェー側のバラード愛好家に好評を博したという。これにより、闘争は単なる反発から、相互模倣を含む制度的競争へと変質した。
終息と再評価[編集]
後半、との主要ラジオ局は、深夜枠に限って相互推薦制度を導入した。これが翌1984年の「」につながり、番組編成上の対立は事実上収束したとされる。協定文第7条には「冬季における過度の感傷表現を抑制する努力を各局が行う」とあり、これは後の北欧ポップ批評における定型句の起源となった。
ただし、終息後も論争は完全には消えず、の再放送特集では、ノルウェーポップス派の旧支持者が「スウェーデンの合唱は窓が多すぎる」と発言して番組が一時中断した。近年は、両者の対立を実際の政治対立ではなく、音響設計と地域アイデンティティのせめぎ合いとして再評価する研究が増えている。
主要な論点[編集]
旋律線の違い[編集]
もっとも頻繁に争点となったのは旋律線である。は山岳地帯の残響を意識して音程の上下動が大きいとされ、これに対しては平坦で推進力のある4分音符主体の構成が好まれた。音楽誌『Nordisk Ton』は、前者を「峡湾的」で後者を「湖沼的」と分類したが、この比喩が両国の批判合戦をさらに煽った[5]。
方言と発音[編集]
歌詞の発音も大きな火種であった。側では方言保持が愛国的とされる一方、側では標準語の明瞭さが商業的に有利とみなされた。1969年のラジオ討論番組で、司会者が訛りを「説明書のない楽器」と評したことが大きな反発を呼び、以後、両国の歌手は発音コーチを専属で付けるようになったとされる。なお、この制度の初期費用は1組あたり月額で、当時の新人歌手にはかなり重かった。
編曲と機材[編集]
中頃には、の導入率が争点化した。側はラジオ受けの良い高域の多用を進め、側はアコースティック楽器の残存率を誇示したとされる。もっとも、の保存資料によれば、実際には両国とも同じ機材代理店から同型のエフェクターを購入していた可能性が高い[6]。
社会的影響[編集]
この闘争は、音楽史にとどまらず、沿岸の消費行動にも影響を与えたとされる。レコード店では「ノルウェー棚」と「スウェーデン棚」が物理的に分けられ、客が棚をまたいで購入した場合には店員が小さな票を回収したという。1975年時点で、中心部の11店舗のうち7店舗がこの方式を採用していた[7]。
また、学校教育にも波及し、の一部の中学校では音楽鑑賞の授業で両国の代表曲を交互に聴かせる「比較耐性教育」が行われた。生徒アンケートでは、授業後に「どちらでもよい」と回答した者が31%から46%へ増加したとされるが、これが文化寛容の進展を示すのか、単に疲れを意味するのかは議論が分かれている。
批判と論争[編集]
後年、文化史家のは、この闘争の多くがレコード会社による販促目的で脚色されたものであると主張した。とりわけの「国境での公開合唱」事件は、実際には国境警備ではなく観光バスの到着待ちであった可能性があるという[8]。
一方で、保守的な評論家の間では、闘争そのものを軽視する見方に対する反発もある。の週刊紙『Melodi & Samfunn』は、「たとえ演出があったとしても、感情は本物である」と書き、むしろこの虚実の混交こそが北欧ポップ文化の特徴であるとした。なお、要出典とされるが、1981年の調査で両国のDJの62%が「相手国のヒット曲を自分の国のものだと一度は誤魔化したことがある」と回答したという記録も残る。
終結後の継承[編集]
闘争の終結後、両国の音楽業界は対立を逆手に取った共同企画を次々と立ち上げた。1985年の「北欧二重コーラス祭」はで開催され、入場者数は延べに達したとされる。また、にはオスロとストックホルムを結ぶ深夜フェリーで「両国の名曲を交互に流す航海」が実施され、船酔いと郷愁の相乗効果で好評を博した。
現在では、この闘争は実在の戦争ではなく、北欧のポップ文化が自己定義を獲得する過程で生じた象徴的事件として扱われている。ただし、の一部の老舗レコード店では、いまなお棚の配置を左右で分ける慣習が残り、常連客はそれを「まだ終わっていない会議」と呼ぶ。
脚注[編集]
[1] この用語は1960年代末の音楽評論で初出とされるが、実際の初出誌は複数あるとされる。 [2] 調査票の設問文が誘導的であった可能性が指摘されている。 [3] 『Aftenposten』1968年6月17日付とされるが、保存版の一部欠落がある。 [4] 共同試聴会の議事録には、左右入れ替えの担当者名が2名しか記されていない。 [5] 『Nordisk Ton』Vol. 14, No. 3。 [6] 代理店名は資料ごとに異なっており、確定していない。 [7] 店舗数の母数が季節変動を含むかは不明である。 [8] 公開合唱事件については観光局資料との照合が必要である。
関連項目[編集]
脚注
- ^ Larsen, Helge『The Scandinavian Pop Front: 1968-1984』University of Bergen Press, 1992.
- ^ Mikkelsen, Åse『音響国境線の形成』北欧文化研究会, 2001.
- ^ Hovland, Per『港で聴く歌: オスロ試聴会の記録』Oslo Historical Review, Vol. 8, No. 2, 1987, pp. 114-139.
- ^ Johansson, Karin『Melodies Across the Fjord』Stockholm Academic Press, 1995.
- ^ Nilsen, Randi『方言と商業ポップスの相克』Nordic Music Quarterly, Vol. 11, No. 4, 1976, pp. 33-58.
- ^ Berg, Olav『共同放送協定の成立とその余波』Scandinavian Media Studies, Vol. 3, No. 1, 1985, pp. 1-27.
- ^ Thorn, Margaret A.『The Dry Synth Incident in Uppsala』Journal of Northern Sound Studies, Vol. 6, No. 3, 1974, pp. 201-219.
- ^ Sørensen, Einar『カールスタード共同放送協定の条文注釈』Nordisk Juridik og Kultur, 第12巻第2号, 1986, pp. 77-93.
- ^ Løken, Ingrid『冬の拍手とその周辺』Bergen Musicology Review, Vol. 5, No. 1, 1969, pp. 5-18.
- ^ Andersson, Sven『The Question of Wet Harmonies』Journal of Imaginary Popular Music, Vol. 2, No. 4, 1978, pp. 44-61.
外部リンク
- 北欧ポップ史アーカイブ
- オスロ港湾音楽資料館
- ストックホルム民放史研究所
- カールスタード共同放送文書室
- ベルゲン市音楽記録センター