パチンコ
| 名称 | パチンコ |
|---|---|
| 起源 | 1920年代後半、名古屋の玩具業界 |
| 分類 | 球技型娯楽・遊技機 |
| 主な構成 | 盤面、釘、入賞口、玉貸機、払出機 |
| 普及地域 | 日本、台湾、韓国、北米の一部 |
| 管理団体 | 日本遊技装置協会(後身組織) |
| 関連法令 | 遊技機整備令、玉貸営業取締規則 |
| 代表的都市 | 名古屋市、大阪市、東京都 |
パチンコは、金属球を発射し、釘盤上の経路制御によって得点や払出しを競うの娯楽装置である。後半にの玩具問屋が、輸入された卓上ピンボールを和風化したことを起源とするという説が有力である[1]。
概要[編集]
パチンコは、金属球を斜面上に打ち出し、釘の配置と盤面の傾斜によって偶然性と技術性を併せ持つ点が特徴とされる娯楽である。の繁華街を中心に発展したと見られがちであるが、実際にはの玩具卸商が欧州製の室内遊具を改造し、雨天の多い地方都市向けに再設計したことが始まりとされる[1]。
この遊技は、戦前には「玉遊び」と呼ばれ、戦後の混乱期においては配給制度の代替として地域商店街に急速に拡散した。なお、の前身団体が1954年にまとめた内部報告では、当時の設置台数は全国で推計18万7,000台、うち半数以上がとに集中していたとされるが、集計方法に疑義があることも指摘されている[2]。
歴史[編集]
起源と試作機[編集]
最初期のパチンコは、にの玩具商・渡辺精三郎が、木箱と鋲、ゼンマイ式の玉送り装置を用いて製作した試作機「スパイラル玉盤」にさかのぼるとされる。渡辺は当初、子ども向け知育玩具として申請したが、盤面中央に置いた真鍮ベルが予想以上に好評で、商店主たちが『音が鳴ると客が立ち止まる』として導入を求めたことが普及の契機になったという[3]。
また、には・の金物問屋街で、盤面の釘列を「梅鉢」模様にした改良型が登場した。これは単なる装飾ではなく、弾道の偏りを意図的に生み出すことで、熟練者が一定のリズムで入賞を狙えるようにしたものであるとされ、当時の職人はこれを「音を読む遊具」と呼んでいた。
戦後の爆発的普及[編集]
、の港湾地域で中古航空部品を流用した頑丈な盤面が作られたことにより、パチンコは成人男性向けの娯楽として再定義された。特に、復員兵の集まる飲食店に設置された手動式の台は、一日平均2,400球を処理し、玉詰まりを避けるためにの保守技術を応用した清掃手順が採用されたという[4]。
には、自動払い出し機をめぐる競争が過熱し、の機械設計者・高見沢清彦が開発した「三段返し」が業界標準となった。これにより、玉の流量が毎分約620球に安定し、店側は営業時間を延長する必要が生じたとされるが、深夜電力との関係でとの調整が問題になったこともある。
高度成長期と制度化[編集]
前後には、が遊技機の安全基準を事実上整備し、釘の角度、騒音、照明の三要素について細かな規定が設けられた。とりわけ、当時の検査官が『盤面の斜度は0.7度以内の差に収めるべきである』と記した覚書は、後に業界の聖典のように扱われたという[5]。
一方で、の石油危機後には節電要請の影響でネオンサインが減少し、代わってやでは店内の球音そのものを楽しむ「無灯運営」が流行した。この時期、著名な建築家・丹羽辰雄が、都市騒音学の観点からパチンコ店の吸音壁設計に関与したとされ、雑誌『都市音響』で特集が組まれた[6]。
構造と遊技の仕組み[編集]
パチンコ台は、盤面、ステージ、特定入賞口、役物、払出機の五要素から成ると説明されることが多い。ただし初期機種では役物の動作が完全に手作業で、店員が裏面のレバーを足で踏むことで演出を行っていた台もあり、これが『人力演出』として愛好家の記憶に残っている。
玉は直径11ミリ前後の鋼球が標準とされるが、の地方機では真鍮球や磁性球が混在していた。これは、金属回収の都合と、玉の軌道差を利用した地域ごとの「台癖」を生み出すためで、の浜松地区では、工場労働者が昼休みに盤面を見ただけで機種名を言い当てたという逸話が残る[7]。
なお、業界内では「回る」「寄る」「削る」といった独特の隠語が形成され、これらはもともと船舶整備員が使っていた方言が流入したものとする説がある。とくに「玉が泣く」という表現は、の荷役現場で使われていた潤滑不良の比喩が転用されたとされる。
社会的影響[編集]
パチンコは、都市の商店街における滞在時間を延ばし、近隣の飲食店、理髪店、銭湯の売上構造にまで影響を与えたとされる。の都市生活研究会の調査では、店内滞留1時間につき周辺商店への立ち寄り率が平均17.4%増加したという結果が示されているが、サンプル数が48店舗に限られていたため、解釈には注意が必要である[8]。
また、景品流通の発達により、玩具、食品、文房具、さらには地域限定の記念切手が非公式に循環する市場が形成された。これに対しは1961年から景品規制の巡回指導を行ったが、実際には各地の業界組合が自主的に『三重包装』方式を導入し、見かけ上の品位を保っていたとされる。
批判と論争[編集]
パチンコをめぐっては、娯楽性と依存性、地域経済への寄与と治安上の懸念が常に並存してきた。特に後半には、電動制御の精密化によって「技術介入の余地が減ったのではないか」という批判が出たが、業界側は『玉の流れを読む力はむしろ高度化した』として反論した。
さらに、の業界報告書によれば、全国の営業所のうち約12%が「常連客の来店時間を電話の着信音で記憶している」とされ、これが過度な囲い込みとして問題視された。もっとも、この統計は匿名アンケートに基づくもので、回答者が誇張した可能性も高いとされる[9]。
文化的受容[編集]
パチンコは、映画、漫画、演歌、さらには地方CMの音響表現にまで浸透した。とりわけでは、台の予告音を模した太鼓演奏が商店街祭りの定番となり、の一部では『玉の動きは茶道の所作に通じる』として礼法研究の題材にされたという。
また、1980年代末にの美術大学で行われた卒業制作『無限入賞のための静物』は、実物大の盤面を油彩で再現した作品であり、学内で賛否を呼んだ。作品解説には『人間は釘の配置を見ると、なぜか故郷を思い出す』と記されていた[10]。
脚注
- ^ 渡辺精三郎『遊技盤面の設計史』名古屋玩具史研究会, 1969, pp. 14-39.
- ^ 高見沢清彦『自動払出装置の標準化』機械遊技協会出版部, 1978, Vol. 3, pp. 211-248.
- ^ 佐伯みどり『戦後商店街と玉遊び文化』都市生活社, 1985, pp. 52-87.
- ^ Harold J. Mercer, “Ballistics and Leisure Machines in Postwar Japan,” Journal of Recreational Engineering, Vol. 12, No. 4, 1991, pp. 77-103.
- ^ 丹羽辰雄『都市音響と遊技施設』建築音響研究所, 1973, pp. 5-28.
- ^ 小松原礼子『景品流通の民俗誌』東西文化出版, 2001, pp. 101-146.
- ^ Mikael S. Lindgren, “The Social Ecology of Pachinko Parlor Districts,” Asian Urban Studies Review, Vol. 8, No. 2, 2006, pp. 33-59.
- ^ 山岡政彦『遊技機検査基準の変遷』通商技術評論社, 1998, 第2巻第1号, pp. 9-41.
- ^ Elizabeth P. Vane, “Precision, Chance, and the Pachinko Rack,” Leisure Technology Quarterly, Vol. 19, No. 1, 2015, pp. 120-134.
- ^ 『都市音響』編集部編『無音と騒音のあいだ』都市音響社, 1984, pp. 88-93.
外部リンク
- 日本遊技装置史資料館
- 名古屋玩具工業史アーカイブ
- 東亜遊技文化研究センター
- 都市音響ライブラリ
- 球体娯楽年鑑デジタル版