フェルマータ
| 分類 | 演奏記号・休止記号 |
|---|---|
| 起源 | 15世紀後半の北イタリア修道院写本 |
| 普及地域 | ヨーロッパ、のち世界各地 |
| 用途 | 音価の延長、終止感の強調、即興的停留 |
| 関連分野 | 楽典、古楽、合唱写本学 |
| 初期名称 | 息留め符、静止弧 |
| 標準化 | 19世紀の写譜規約で整理 |
| 異説 | 礼拝中の沈黙測定器具に由来する説 |
フェルマータ(伊: fermata)は、上の特定の記号とその運用法を指す語であり、中北部の修道院で発達した「呼吸を記録する技法」に起源を持つとされる[1]。のちにの写譜師らによって音楽記号へ転用され、近代以降は演奏の停止と延長を示す慣習として広く知られている[2]。
概要[編集]
フェルマータは、音符や休符の上に置かれ、通常より長く保つことを示す記号である。形状は半円の下に点を置いたものが基本とされ、語圏では「鳥の目」、の一部では「鐘のまぶた」と俗称された[3]。
語源はラテン語系の動詞 *fermare* に結びつけられることが多いが、音楽史家の間では、元来は修道士が礼拝中に「どの程度息を止めていられたか」を記録するための補助記号だったという説が有力である。これは大学所蔵の写本断片に、同形の記号が詩行末の呼吸箇所に集中して現れることから推定されている[4]。
歴史[編集]
北イタリアの修道院起源説[編集]
最古級の用例は頃の近郊サン・ジュリアーノ修道院の譜表断片に見られるとされる。ここでは、聖歌の終止部に短い弧が書かれ、その下に粒点が添えられていたが、これは音の長さではなく、聖歌隊の「共同吸気点」を示していたという。修道院規則では、毎週の夜課でこれを何回守れたかが記録され、優秀者には蜂蜜菓子が追加されたと伝えられる[5]。
ヴェネツィア写譜師の再解釈[編集]
前半になると、の活版印刷工房で、同記号が器楽曲の終止強調に転用された。特に系の写譜集を扱っていた工房では、紙面節約のために長い保持音を一括して記号化する慣行が広がり、これが「演奏者の自由裁量」と混同されたという。ある工房主は、同じ記号を「王侯向けには3拍、商人向けには2拍」と印刷し分けていたとされ、価格表にまでその差が反映された[6]。
近代的標準化と論争[編集]
にはとの出版商組合が、フェルマータの長さを小節内の拍数で統一しようと試みた。しかし各国の楽団は独自の伝統を保持し、では「長め」、では「気分次第」と実務上は解釈され続けた。なおの国際写譜会議では、フェルマータを「演奏者が視線を上げる合図」と定義する案が提出されたが、議事録上では採択されなかったものの、現場では半ば採用されたといわれる[7]。
記号の形状と派生[編集]
基本形は半円と点であるが、写本研究では地域差が顕著である。系では半円がやや横長、系では点が楕円化し、の戦後出版譜では印刷機の癖によりほぼ涙滴形になった。これを見た一部の教育者は、子ども向け教本で「鳥が止まる場所」と説明したため、のちに野鳥観察記号と誤認した学習者もいた。
派生記号としては、フェルマータの上に斜線を加えた「短縮フェルマータ」、逆向きに点を置いた「深呼吸フェルマータ」などがある。とくに初頭のオペラ上演では、歌手が舞台袖の合図を待つための実務記号として「待機フェルマータ」が併用され、舞台監督の間で重宝されたという。
演奏実務[編集]
合唱と礼拝における用法[編集]
教会音楽では、フェルマータは単なる延長ではなく、共同体の呼吸を一致させる機能を担ったとされる。特にの宮廷礼拝記録では、同じ節にフェルマータが3つ続く場合、司祭の咳払いも含めて「儀礼上の静止」と数えられていた。これはの合唱団員23名中、22名が同じ場所で一斉に呼吸できたことを示す指標として用いられた[8]。
器楽と即興の境界[編集]
器楽奏者にとってフェルマータは、長さを伸ばす記号であると同時に、即興の余白を意味した。とりわけの劇場では、オーボエ奏者がフェルマータ中に観客席の反応を見て装飾音を追加する慣行があり、これが拍手の早遅に影響したとされる。ある記録では、の上演でフェルマータが1箇所増えたため、終演が12分遅れ、馬車の出発時刻がずれたことで貴族2家が口論した[9]。
社会的影響[編集]
フェルマータは音楽記号にとどまらず、沈黙を制度化する概念として文化史に影響したとされる。期には、一部のサロンで「フェルマータの礼法」が流行し、会話中に要所で数秒黙ることが教養の証とされた。またの出版業では、原稿締切前の「編集上のフェルマータ」が慣例化し、実質的な先延ばしを美徳として扱う風潮を生んだ。
一方で、過度な延長は演奏事故の原因ともなった。のでの公開演奏では、指揮者がフェルマータを2拍分長く取らせた結果、ホール天井の共鳴が重なり、照明用のガラス球7個が同時に震えたという。これを受けて市当局は「フェルマータ使用時の座席振動注意」を掲示したが、翌月には撤回された。
批判と論争[編集]
フェルマータをめぐっては、長さを厳密に定義できるかが長く争点となった。楽理学者のはに、フェルマータは「時間の停止」ではなく「期待の保持」であると論じたが、実演家からは「それでは稽古にならない」と批判された[10]。
また、写本学の一部では、フェルマータの起源を宗教的沈黙ではなく、紙の乾燥待ちを示す製版印とみる説もある。ただしこの説は、インクの乾燥時間が地域によって異なりすぎるため、現在では周縁的な見解にとどまっている。なおの学会では、フェルマータの持続時間をストップウォッチで計測した報告が提出されたが、演奏者の心理状態を考慮していないとして却下された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Giovanni R. Bellandi『Studies in Northern Italian Notation: Breath Marks and Their Afterlives』Oxford University Press, 2004.
- ^ 高橋 省三『記譜法の奇妙な系譜 フェルマータの起源と転用』音楽之友社, 1997.
- ^ Margaret L. Havers『The Semi-Circle Device in Sacred Manuscripts』Cambridge University Press, 2011.
- ^ 佐々木 朋子『静止の美学——ヨーロッパ楽譜における間の制度化』春秋社, 2016.
- ^ Ernst Pfeifer『Time Held, Time Heard: Fermata and Performance Practice』Vol. 12, No. 3, pp. 41-78, 1926.
- ^ Luca Meneghetti『Venezianische Drucker und die Kunst des Anhaltens』Beiträge zur Musikgeschichte, Vol. 8, pp. 115-149, 1988.
- ^ 田島 恒一『フェルマータの社会史』東京大学出版会, 2009.
- ^ A. P. Donnelly『A Brief Treatise on Waiting Marks in Choral Books』Journal of Manuscript Sound Studies, Vol. 4, No. 1, pp. 9-26, 1974.
- ^ マルコ・ベッリーニ『鐘のまぶたと鳥の目——記号形態の地域差』リュート書房, 2020.
- ^ Helena Voss『The Ethics of Prolongation in Court Music』Vol. 19, No. 2, pp. 201-233, 2008.
- ^ 中村 良平『フェルマータと都市交通の遅延に関する一考察』交通と文化, 第14巻第2号, pp. 77-89, 2013.
外部リンク
- 国際フェルマータ研究会
- 北イタリア記譜法アーカイブ
- 写本静止記号データベース
- 楽典民俗学オンライン
- ヴェネツィア印刷工房史料館