ホタテ人
| 名称 | ホタテ人 |
|---|---|
| 読み | ほたてじん |
| 別称 | 貝背衆、白紋の者 |
| 成立時期 | 1897年頃から1930年代にかけて |
| 主な活動地 | 北海道、青森県、三陸沿岸、東京湾岸 |
| 起源 | 沿岸の漁業組合と博覧会展示の混交 |
| 象徴 | 二枚貝状の胸甲、貝柱守札 |
| 主要資料 | 『沿海身体誌』、札幌海産試験場記録 |
ホタテ人(ほたてじん、英: Hotatejin)は、沿岸の漁撈民俗と期の民間人類学が結びついて成立したとされる半伝説的な職能集団である。甲殻のような胸甲と、貝柱の保護儀礼を特徴とすることで知られている[1]。
概要[編集]
ホタテ人は、の帆立養殖地帯を中心に語られる、貝殻状の保護具を身に着けて海難と冷水障害を避けるとされた人々の総称である。史料上は末期の漁業改良運動にあらわれ、その後・・の港湾都市で独自の儀礼体系を持つ集団として描かれた。
一般には漁夫の作業服の一種、または寒冷地の安全具の誇張された呼称とみなされることが多いが、民俗学の一部では、帆立の開閉運動を人間の呼吸法に転用した「貝呼吸術」の実践者であったと説明されている。なおの海洋人類学講座で1931年に行われた調査では、ホタテ人の自己申告者は道内で推計43名、協力的証言者はその3倍に達したと記録されている[2]。
起源[編集]
漁具改良からの派生[編集]
起源は、の漁業組合が導入した薄板式の防寒胸当てに求められることが多い。この胸当ては、海中で姿勢を安定させるための重しとしても働き、冬季の沖戻りで転倒事故を17%減少させたとされる[3]。しかし、同組合の事務記録には「貝殻型」とは一切なく、実際には丸太を削って二枚に割っただけの簡素な板であったとみられている。
後年、これを見た巡回教師のが『海の民は、胸に貝を負う』と講演で述べたことから、板はいつしか帆立貝に結びつけられた。ここで重要なのは、帆立が豊漁だったことではなく、板の左右を紐で結ぶ方式が、偶然にも殻の開閉に見えた点である。
博覧会での命名[編集]
ので、海産物の実演区画において「帆立を背負った人夫」が来場者の注目を集めたことが、ホタテ人という呼称の定着に決定的であったとされる。案内札には本来「ホタテ貝運搬補助員」と書かれていたが、から来た新聞記者が見出しで「人ならぬ人、ホタテ人」と記したことが誤解の起点になった。
この記者記事は翌日の『札幌毎日電報』に転載され、さらに「海に適応した新型の沿岸人種」として脚色された。以後、呼称は当事者の自称と外部の観察が混ざり、意味が固定されないまま広まったのである。
学術化と疑似学問[編集]
、民俗採集家のが『沿海身体誌』を刊行し、ホタテ人を「海と甲殻の間に生じた暫定的身体」と定義した。彼女はからにかけての沿岸で27例の聞き取りを行ったと述べたが、そのうち9例は同一人物が帽子を替えて応じたものではないかと後に指摘されている。
一方で、の報告書は、ホタテ人の胸甲に「塩分の結晶がつきやすいこと」を科学的根拠として挙げ、湿度が68%を超えると防御儀礼が増加すると記した。現在では、これらの記述は民俗学・統計学・海産工学が互いに誤読し合った結果として理解されている。
儀礼と装束[編集]
ホタテ人の装束は、白地の前掛け、貝殻模様の肩当て、そして貝柱守札から成るとされる。とりわけ肩当ては、実際には防寒具と救命胴衣の間に位置する中途半端な装備であったが、地方紙ではしばしば「甲羅に似た防水皮膜」と表現された。
儀礼の中心は、漁の出航前に両手を胸の前で合わせ、指先をわずかに開閉させる「開殻の所作」である。これは風向きの確認を兼ねる実用動作だったとも、帆立の霊を鎮めるためだったともいう。なおの旧港では、高潮注意報が出るたびにこの所作を行うことで、岸壁からの転落事故が前年度比で12件減ったとされるが、因果関係は不明である[4]。
また、年に一度の「白紋祭」では、のホタテ汁との燻製帆立を同時に供える習わしがあり、供物の数は必ず偶数でなければならないとされた。奇数で供えた村では、翌朝に帆立の殻が逆向きに置かれていたという伝承が残る。
社会的影響[編集]
漁業安全と衛生運動[編集]
ホタテ人の名は、期の漁業安全運動において便利な標語として利用された。特にの港湾監督署では「胸に貝、足元に錨」という標語が掲げられ、救命具着用率が一時的に83%まで上昇したとされる。
もっとも、現場では装備の見た目が奇抜すぎるため、近隣の児童が「海の人形劇」と呼んで見物に来る問題も生じた。これに対し衛生係は、ホタテ人の衣装は見世物ではなく「冷水ショックへの心理的緩衝材」であると説明したが、かえって興味を煽ったと記録されている。
観光資源化[編集]
以降、の一部観光地ではホタテ人をモチーフにした土産物が販売され、木彫りの胸甲、帆立形の帽子、貝柱型の飴などが定番化した。観光パンフレットは「古来より海を守った白衣の民」と説明したが、地元の古老は「そんな民は見たことがない」と笑っていたという。
それでも、毎年約4万2,000人の観光客が「ホタテ人の像」を目当てに訪れたとされ、の岬には等身大の石像まで建てられた。像の肩幅は実物より18cm広く、冬季の吹雪で帽子だけが先に埋まる設計になっていた。
批判と論争[編集]
ホタテ人をめぐっては、早くから「創作された伝承ではないか」との批判があった。とりわけの連載では、証言者の多くが別々の村で同じ語尾の癖を持っていることが示され、同一原稿の使い回しではないかと疑われた[5]。
また、の一部研究者は、ホタテ人を「漁村ユーモアの制度化」と評し、民族集団として扱うこと自体が誤りであると主張した。これに対し支持派は、制度化されたユーモアもまた共同体であると反論し、1952年のでは2時間18分にわたる応酬となった。
近年では、ホタテ人が実在したか否かよりも、寒冷地の生活改善、観光、博覧会報道、そして学術言説が互いにどのように誤解を増幅させたかが研究対象となっている。ただし、の一部沿岸では今も「ホタテ人に似た背負い方」をすると縁起が良いとされ、完全な否定には至っていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 斎藤梅枝『沿海身体誌』北洋民俗叢書, 1926年.
- ^ 渡辺精一郎『海の民と胸甲の起源』東京帝国大学出版会, 1932年.
- ^ 山口春輔「ホタテ人の装束における塩結晶の析出」『札幌海産試験場報告』Vol. 14, No. 2, pp. 33-47, 1934.
- ^ Margaret A. Thornton, "Scallop-Bearing Workers of the Northern Littoral," Journal of Coastal Anthropology, Vol. 8, No. 1, pp. 11-29, 1951.
- ^ 佐々木みね『北海道拓殖博覧会と身体の見世物化』北海文化研究所, 1968年.
- ^ 小林義則「沿岸儀礼における開殻所作の比較研究」『民俗と港』第22巻第4号, pp. 102-119, 1977年.
- ^ Edward L. Morrell, "Shell and Shore: A Misread Tradition," Maritime Folklore Quarterly, Vol. 5, No. 3, pp. 201-218, 1989.
- ^ 高瀬千尋『観光にされた伝承——ホタテ人の再商品化』海鳴社, 1999年.
- ^ 村上克也「『貝呼吸術』再考」『日本沿海人類学会誌』第31巻第1号, pp. 7-24, 2008年.
- ^ H. Bennett, "The Anatomical Problem of the Hotatejin Armoring," North Pacific Studies, Vol. 12, No. 2, pp. 55-63, 2016.
- ^ 斎藤梅枝『白紋祭の夜に鳴る殻』港文庫, 1931年.
- ^ 北海道拓殖博覧会事務局『展示案内と来場者動線記録』, 1909年.
外部リンク
- 北海道民俗アーカイブス
- 北洋海産文化研究センター
- 札幌海産試験場デジタル資料館
- 日本沿岸伝承データベース
- 港町観光史研究会